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窓の外に浮かぶ丸い月を見ながら私は財務担当部屋に向かっていた。

労働環境の改善を求めた立てこもりに巻き込まれたのが昼過ぎ。私は『保護及び移住にかかわる調査及び統括管理担当』の文官達と一緒にヤムライハ様の魔法で眠らされたらしい。医務室で眼が覚めた時にはすでに満月が空高くに昇っていた。

医務室の当直の方の話によると、立てこもりを決行した文官達は戒告処分と減給に留めるとの決定が早い段階で出されたようだ。そのため、建物の中で魔法にかかった文官は拘束されることなく大会議室に運ばれ、起きたものから事情聴取をし、自室待機を命じられた。

私も最初は、他の保管の方達と一緒に大会議室で寝かされていたようだが、最後の一人になっても一向に目が覚めなかったため、こちらの医務室へ移送されたらしい。

どうやら、私は過労により催眠魔法が深くかかってしまったとのこと。十分な睡眠時間をとることができたおかげで、目覚めた私の体調はすこぶるよい。今なら二徹もできそうだ。

が、昼間の騒動を受け、白洋塔詰めの文官はどんなに仕事があろうとなかろうと今日は早目の帰宅を促されている。今日する予定だった仕事とこの無駄にあり余った体力を思うともったいない気がするのだが、上の決定なら仕方ない。

私物を担当部屋から回収して自室に戻ろうと、私は職場へと続く廊下を歩いていた。

普段は夜中であることなんて関係なしにそれぞれの部屋から、人のいる気配や音、灯りが漏れてくるのに、今日の白羊塔は不気味なまでに静まり返っていた。この静まり具合。もしかしたら不夜城である財務担当部屋にも鍵がかかっているかもしれない。

廊下に響く自分の足音を聞きながら、職場手前の角を曲がると、しかし、目的地である奥の部屋からはいつものように灯りが漏れていた。


「ジャーファル様、お疲れ様です」

さすがに部屋にいたのは奥の定位置に座るジャーファル様一人だった。私はいつものように挨拶をし、手前の自分の席に向かいながらふと思った。

そういや、私さっきまでぶちキレられていたような。

寝る前の最後の方の記憶によると、ジャーファル様は『後で覚えていろ』と言っていた。普通に挨拶とかまずくないだろうか?

『ここは回れ右でダッシュか』と足を止める私の行動を気にせず、ジャーファル様は至極普通に『お疲れ様です、シノ』と返してきた。

あれ、あの悪役よろしく言い放った台詞はどこに言ったんだろう。 おかしいと視線を向けると何か疲れた表情をしているジャーファル様がそこにいた。

今まで立てこもりの事後処理に追われていたのだろうか。いや、体力的に疲れているだけならこの数ヵ月腐るほど見てきた。ジャーファル様は体力がなくなればなくなるほど、『気力でカバー』と言わんばかりに目が爛々とする。しかし、今は目に力もなく、本当に心の底から疲れているように見える。

何かあったのかなぁ。いやいや、たとえ疲れていたとしても説教の手を緩めるジャーファル様じゃない。

色々な考えに止めていた足がじりじりと後ろへ後退する。どうしよう。記憶の中で鬼の形相をしていた上司と目の前の疲労が見え隠れする上司。今後の自分のとる行動に悩み、ちらりと問題の方に視線をやると。

「君、親に怒られた子供みたいです。もう怒っていませんよ」

扉付近で不自然に足を止めた私を見ていたジャーファル様とばっちり目が合った。苦笑しながら言う台詞に、私も乾いた笑いを返した。たしかに子供のそれみたいかも。

「なかなか起きないので心配していました。よかったです」

どうやら心配してくれていたようだ。回れ右なんて失礼なことをしなくてよかったと心の中でこっそり安堵した。

それにしても、怒ってないんだ。何でだろう。明らかに普段と様子が違うジャーファル様に首をかしげてしまう。

よし、こんな時はお茶だ。

困った時や間を持たす時にお茶ほど有効なものはないと思う。前世の私もよく頼っていた手だ。

得意気にお茶を淹れた私は、しかし、給湯室から帰ってきても変わらない表情をしているジャーファル様にかける言葉を探して、再確認した。お茶という手法は学んでいても、肝心なコミュニケーション能力は前世の私も今の私も大して身につけられていない。残念すぎる。

悶々と脳内で反省会を開きながらお茶を持っていくと、『少しよろしいですか』とあちらから声をかけてきてくれた。これ幸いと反省会はさっさとお開きにし、ジャーファル様のデスクでお茶を飲むべく椅子を引っ張り出した。

ジャーファル様は何か悩んでいるし、私の対話スキルは低空飛行のため、向かい合ってお茶を飲む私達の会話が弾むなんてことはもちろんない。

ジャーファル様は机から焼き菓子を取りだし、私に『どうぞ』と渡してくれた後は一言も発さず、お茶を飲んでいる。その視線は私の遥か後ろを見てふらふら彷徨っており、意識は明らかにこちらにない。

なんて聞けばいいのかなぁ。

そんなことを考えながら、とりあえず私は頂いたお菓子を食べることにした。深夜なんて気にしない。今日は朝ごはん以外何も食べられていないのだ。甘いものが美味しい。

問題を後回ししてお菓子をもそもそと食べる私よりも先に口を開いたのはジャーファル様で。

「大丈夫でしたか?」

ぽそりと呟かれた質問に私は『ん?』とお菓子を飲み込んだ。

「保管の方に何かされませんでしたか?彼らは巻き込んだことを謝っていましたが」

ジャーファル様の悩みの種は立てこもりのことかなぁ。

私が眠っているうちに全てが終わっていたため何があったのかよく分からないが、事態収拾を図ったジャーファル様はさぞ大変だっただろう。

目は口ほどにものを言う。私の目に映ったのは、不安そうに瞳が揺れているジャーファル様だった。

「大丈夫ですよ、別館を出ていくのは止められましたが、それ以外は何も。私は普通に資料を読んでいました」
「そうですか、ならよかったです。あの時は声を荒げてしまい申し訳ありません。まさか、君が立てこもり中のあそこから顔を出すとは思わず」

ほっと息を吐くジャーファル様に、私も軽く息をついた。

まぁ、そうだよね。午前中までいつも通りの態度だった部下が腹の中で『くそぅ、午後になったら立てこもってやる』とか考えていたと思うと、怒り狂ってしまっても仕方がない。

『気にしないでください』と返すと、ジャーファル様は一応返事をしたものの、その表情が晴れることはなかった。悩みはこれじゃないみたいだ。

一体何なんだ。

こんなに分かりやすく困っていますと顔に書いているにも関わらず、自ら話す気がなさそうなジャーファル様。そんな彼を見て、少し眉が寄ってしまう。

すると今度は、むっとしている私を見て、ジャーファル様が不思議そうに私の顔を覗き込んでくる。

「どうしました?」

それはこっちの台詞だ。いい加減気になる。今まで気のきいた問い方をと思っていたが、まどろっこしいことは止めた。

「ジャーファル様、今すごく、もの言いたげな顔しています。そんな顔で見られるとちょっと困るし心配です」

素直にそう言うと、ジャーファル様は目を見開いた。どうやら自覚がなかったらしい。自分の状態に戸惑っているのか、視線が忙しなく動いている。

いくらでも待つぞと構えていたのだが、ジャーファル様は思いの外あっさり口を開いた。

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