03


その日は朝から嫌な予感がした。

残り少ないチークを落として粉々に割ってしまうし、朝ごはんに使うレタスから青虫がこんにちはするし、車のバッテリーがあがっていて始業時間に間に合わないし。
とどめは職場に着いて早々上司から任命された仕事。内容はアイスキャッスル長谷津に行き温泉onアイスの開催の手伝いをしろというもの。
膝から崩れ落ちたくなった。

ロシアから15歳の若手スケーター、ユーリ・プリセツキーがやってきて勇利君とヴィクトル・ニキフォロフを取り合い、アイスキャッスル長谷津で『温泉onアイス』なるものが開催されるという話を姪っ子三姉妹から先日聞いていた。

どうやら主催であるアイスキャッスルは後援をうちに頼んだらしい。上はこのドタバタショーをよいネタと判断し、町全体で応援することに決めたようだ。
それはわかる。町おこしのために日々汗まみれになりながら必死ではせっつー君をやっている身として異論はない。何でも利用したい気持ちはわかる、わかるけれども!

数ヶ月前に町役場ロビーで行われた『頑張れ!勝生勇利選手 グランプリファイナルパブリックビューイング』の主催はスポーツ振興課だった。あそこの担当者は勇利君のファンらしく狂喜乱舞していたのに。彼女はどうしたの!

「あぁ、彼女は産休だよ。そのせいでスポーツ振興課、今仕事が回ってないからねー」
「なら、文化振興課!」
「あそこは介護休暇だねー」

私の抵抗虚しく、うちがやることはもう決定済みらしい。人件費が削減されてどこの部署も慢性的な人員不足だった。

「うち、はせっつーくん担当でもともと人多目にとってるから働かないとねー」

嬉しそうに胸を張って言われた。
人が多いと言うなら、是非ともはせっつーくん担当の私以外に仕事を回して欲しい。

「それに君、勝生君の幼馴染でしょ?知らない人同士よりも話早いよね。これで他の課黙ったよー!」

先日のパブリックビューイングで勇利くんのおかあさんと話をしていたのを見られていたのがまずかったらしい。ウィンクしそうなテンションで目のお前のおっさんが言った。
黙らせないでください。仕事いらないです。勇利君とはできるだけ会いたくない…。

「これ今朝持ち込まれた申請書類ね。すでに受理済みだから。打ち合わせよろしくー」

上司がひらひらとふる書類には確かに決済の判が押されていた。

受理早いよ…。
普段お偉いさんを回って担当者の手元に戻ってくるのに2〜3日かかっているのにこのスピード。上は相当気合いが入っているようだ。
私を担当につけると断言して上司がとってきた仕事。下っ端がケチをつけるわけにもいかず書類を受け取りながら、私は力なく是と頷いた。


高校まで通い慣れたスケート場に私は車を走らせた。車で来るのは初めて。あの頃はまだ免許を持っていなくて毎日自転車で来ていた。勇利君勇利君!と騒がしく彼にまとわりついていた過去の自分が思い出される。
駐車場に車を停め、そんな過去の自分を包み隠すように、念入りに化粧を直した。ファンデよし、眉の形よし、リップよし。ここまで気を使って化粧をしたのは勇利君ロスのあと付き合った彼との初デート以来だ。

手鏡を閉じ気合を入れる。あの建物の中には私の黒歴史がたっぷりつまっている。心の中でえいえいおー!なんて拳を握り自分を奮い立たせた。


「あっ、香織…化粧また濃くなった?」

気合い満点でアイスキャッスルに乗り込んだ私に声をかけてきたのは、カウンターで貸出用スケート靴の点検をしていたお姉ちゃんだった。開口一番化粧を指摘してくるなんて、姉妹ってやだなぁと苦笑してしまう。

「お姉ちゃんが薄いんだよ」

『そうだ、香織、たまにはお母さんが帰ってこいって言ってたよ』なんて、仕事に来たのか家族と喋りに来たのか分からない会話をしていると、奥から件の人物が現れた。私の黒歴史こと勇利君。すぐに気づける当たり私の勇利君センサーは健在らしい。

勇利君はいつもしているメガネをとって、体の線がわかるような黒の練習着を着ていた。
会わなくなって以降テレビ越しに変わっていく顔つきや体つき、完成されていく演技や慣れていくマスコミへの対応を見て、もう違う世界に住んでるんだなぁと思っていた。

それでも勇利君の身にまとう雰囲気はあの頃と変わらないものだった。

ここにいないわけないよね、ホームリンクにするって聞いたし。それにしても、本番の衣装もよいけど、やっぱり練習着いいな。そう言えばこの前駅で会った時より心なしか痩せている気がする。特技のダイエットでもしたのかな。そういやこの五年で彼女できたのかな。
いろんな思いが出てくるけれど、私は勇利君が長谷津でトレーニングをすることになったと聞いたあの時からイメトレしていた通りに口を開いた。

「お久しぶりです、勝生さん」

名前を連呼し勇利君に抱きついていた過去の自分とはちがう。今まで一度たりとも呼んだことのない名字を初めて使った。先手必勝とばかりの私の挨拶に、勇利君は少し怪訝そうな顔をしたあと固まった。

え……何この間。

「忘れましたか?勇利君。香織です」

反応がない勇利君にかなりショックを受け、つい、以前の呼び方に戻してしまう。すると『えっ!』なんて短い悲鳴とともに謝罪が出た。

「ご、ごめん、覚えてるよ!…すごく雰囲気変わっているから気がつかなくて。ごめん」

何度も謝る勇利君。本当に私と思いもしなかったらしい。平謝りする彼に『気にしないでください』と声をかけながら内心かなり凹んでいる私がいる。避けられたりすることは想像したけどまさか忘れられているとは…。

「香織、化粧だいぶ濃いから分からなくても仕方ないよ」

なんてお姉ちゃんが勇利君に声をかけている。
フォローになってないし、人をケバいみたいな言い方しないでほしい。あんなにアタックしていたのに顔を忘れるなんて。勇利君のバカ…。
こっそり心の涙をふいていると、華やかな声で英語が聞こえてきた。

『わぁお。君がはせっつーくん?優子にそっくりだね』
『……はせっつーくんのことは秘密ですよ、Mr.』

いきなりのはせっつーくん身バレに、『何バラしてるの、お姉ちゃん』と睨むと、苦笑いしながらごめんと手を上げられる。
やってきたのはフィギュアスケート界の生ける伝説ヴィクトル・ニキフォロフだった。先日駅前で、はっせつーくん姿でツーショットを撮った時とは違い今度は正面からしっかりその姿を見る。
身長がありながら威圧感をあたえない柔和な顔、バリトンの耳に心地よい声、服の上からでもわかる鍛え上げられた身体。これが世界のレジェンドかぁなんてこっそり驚嘆の息をもらす。一方的に十年来嫉妬していたレジェンドは想像以上にいい男だった。くっ、かっこよかー。まぁ、私は勇利君推しだったけど。

差し出されたヴィクトルの手を握り自己紹介をしてると、横から『香織ちゃん、そんなに優ちゃんに似てるかな』と、さきほど私に気がつかなかった勇利君が決まり悪そうに日本語でつぶやいている。

その後、やってきたユーリ・プリセツキーも加え、町として後援させてもらうこと、担当者である私の紹介を改めてした。
ヴィクトル・ニキフォロフは地元の協力が得られていてすごく嬉しいよと無駄に満面の笑みで、ユーリ・プリセツキーはふーんと興味なさげ、主役の一人である勇利君はぽかんと口を開いて、誰がどう見ても間抜け面をさらしていた。

「あの、分からないところありましたか?」
「えっ、あっ、うん、聞いてるよ」

ロシア人二人のため拙い英語で話をしていたから分かりづらく説明しきれていないところがあったかな?そう思い声をかけるがどうも反応がおかしい。

私だからやりづらいのかな…。

「担当者、他の方がよいですか?」

気まずいよねー!そうだよねー!!私もすっごく気まずい!!!上司は知り合いがいいって言ってたけど、こういうこともあるんだよ…。
ここにいない上司に心の中で抗議しつつ、おそるおそる日本語で聞くと『ち、ちがうよ。いや、英語上手いなぁって…』と返ってきた。思わぬ答えに少し驚いたけど、大学で英語に力を入れて学んでいたから嬉しい限りだ。


「それではよろしくお願いします」

勇利君たちへの挨拶を終え、今度はアイスキャッスルの上役と話をするため事務室へ足をむけた。
会話中、勇利君は見るからに挙動不審でユーリ・プリセツキーに『おいデブウゼー』なんて言われていたし、私は私で頬が微妙が引きつっていた。お姉ちゃんあたりは気づいていたはずだ。

平常心!!私は歴代彼氏の名前をお経よろしく心の中で唱えた。ほら、黒歴史は遠におさらばしている。

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