(リトside)
中途半端に覚醒し始めた私の意識。
ざわざわと周りがうるさいけれど、この騒がしさは不思議と嫌ではなく、寧ろ懐かしく心地よい。
「…──…ッ!」
「…─……!」
あ、私…呼ばれてる。起きなきゃ…早く……。
ぼんやりとした意識の中、自分を呼ぶ声が聞こえた気がして、私はうっすらと目を開く。
徐々に鮮明になる視界からは、窓の外に広がる青空が見えた。頬にはひんやりとした無機質な感覚。…これは、教科書…?
「──…あれ?」
「『あれ?』じゃなくて前、前!」
隣の席に座る友人はいつもより少し小さめの声で、苦笑いを浮かべながら前を指差した。
大切な友人。この人は、明…?
今の状況を上手く理解できないまま、とりあえず彼の指し示す方をゆっくりと見る。見なければよかったと後悔したのは数秒後。怒鳴るわけでもなく静かにプルプルと震えながら、担任教師は黒板の前で数学の教科書を握りしめていた。
「はい、カウントダウンスタート」
「え…?」
明は右手を開いて「5」と呟いた。
「4!」
「み、美香…?」
弟とよく似た顔立ち…整った綺麗な顔に満面の笑みをのせて彼女は言った。
「3」
「え、何が?ねぇ…」
クスクスと笑いながら千尋は私の頭を撫でる。優しく、慈愛に満ちた柔らかな手。
「はい、2〜!」
高らかにピースサインを掲げ、隼斗は私へと向けた。何のカウントなのか、いまいち理解できない。しかし、求められていることは概ね理解できる。
「1…?」
私は疑問符をつけて数字を繋げた。
それに親友たちは満足したのか、今度は視線を黒板へと向けたので、私もつられてそちらを見る──…誰かが「0」と呟いた。
「時谷理冬ーッ!!!」
「うわっ…!」
ビリビリと震える教室。クラスメートたちは最早お決まりのこととしてこの怒号を捉え、呆れ顔で両手を耳にあてている。素晴らしき順応力。
「は…、はい?」
担任の放つ気迫に若干涙腺が緩むのを感じながら、私は空気の抜けたような返事をした。ああ、そういうことか。あのカウントダウンは噴火までの秒読みだったのかと、ここに来て漸く理解する。
怒りすぎて何を言ってるのかよく聞き取れない担任の説教をBGMに、私はぼんやりと教室を見渡した。
美香、明、千尋、隼斗…同じクラスのみんなが笑ってる。黒板には数学の公式とそれに伴う例題が書いてあり、わかりやすい解説もつけ足されていた。今更たが、この教師は教え方が上手いと思う。
「─…て、聞いてるのか!時谷!!」
「あ、ハイ。わかりやすいです!」
「はぁ…?」
あ、ヤバっ!と思い、慌てて口を押さえて苦笑い。チラリと見れば、美香はクスクスと笑っていた。
「〜ったく!遅刻してきた挙げ句、午後からはずーっと睡眠学習!いつもいつもそのパターン!そんなにその机が寝心地いいんなら、夏休みも毎日来るか?」
「いや、それは結構ですよ。そんなに先生と顔合わせたくないですし」
「お前は本当いい根性してるな」
「自負しています」
あっはっは!、と響く笑い声。
とうとうこらえきれなくなったのか、美香だけじゃなく明まで笑い出した。千尋も隼斗も、クラスのみんなも笑ってる。なんだかんだ言って先生も楽しそう。
ここは平和な現世……私の居場所…?
「あれ?私、ダブリスにいたはずなのに…」
「理冬ったら、まだ寝ぼけてるの?」
「美香のマンガ脳に洗脳されたんちゃうか?」
「失礼ね!」
寝ぼけてる?そっか、私は夢を見ていたんだ。
『目が覚めるとそこはいつもの庭で、おかしな動物や人々との奇妙な冒険は全て少女の夢だった』……そんなノンセンス文学を子供の頃に読んだ記憶があるが、当時の幼い私は結末がくだらないと本棚の奥へと押し込んだ。
しかし、今はどうだろう?はっきりとは思い出せないが、とても怖い夢を見ていた気がする。そして、それが夢だと理解し、心の底から自分は安堵している。夢落ち…なんて素敵な結末なんだろう。
「──…ねぇ?アリスごっこは楽しいかい?」
「…っ?!」
突如、私の頭に響く声。その声は私の心臓にねっとりと絡みつき、握り潰してしまいそうなほど重く苦しい。体内からじわじわと毒薬が滲むように、血液も酸素も全てが侵されるような錯覚に陥った。
「エン…ヴィー……!」
ハッと周囲を見渡せば、さっきまでそこにいた親友達の姿は消え、誰もいない教室に私とエンヴィーだけが歪にとり残されていた。さっきまで快晴だった空は血をぶちまけたかのように紅く染まり、生暖かい空気に包まれる。
──あはっ
嘲りを含んだ彼の声。私の大嫌いな笑みを浮かべて、エンヴィーは教卓に腰掛けている。
「なんで……っ」
「なになに?こんなちんけな世界に逃げ込んで救われると思ったの?赦されると思ったの?」
ほんっとバカだよねー、と蔑むように見下ろされる。
「いやっ…やめて…」
「お前は救われないし、赦されない…」
エンヴィーが触れた教卓はドロッとチョコレートのように溶けて、エンヴィーの細長い指に絡みつく。黒の中に溶け込む紅。それはきっと私の…──罪のカタチ。
「リトの罪は消えないよ…未来永劫、ね」
「私の、罪……」
──もう気づいてるんでしょ?と、エンヴィーは指に絡みつくそれを赤い舌で舐めとった。
「認めろよ、理解しろよ。本当の罪をさぁ……誰が一番悪い子なのかを」
「嫌っ…!言わないで!!」
聞きたくないと、私は子供のように両手で耳を塞ぎ、己の罪を拒絶した。認めるわけにはいかないんだ。認めてしまえば、きっと今までしてきた全てのことが無駄になる。いや、無駄なんてものじゃない……私がしてきたことは……私の犯してきた過ちは……!
今まで信じてきたものが全て嘘だとしたら?
敵に向けたはずの刃で、自分の守りたいもの達を傷つけていたとしたら?
嗚呼、心が崩壊するまであと少し……───
「ぅっ…あ、ッ!」
グチャ…と、嫌な音が耳元で聞こえた。同時に鉄臭さが鼻を掠める。目を見開き、震える自分の両手を見れば、生温い少しの粘り気を帯びた赤黒い液体が私の両手を染めていた。
「いっ…ゃあああああ!!」
気持ち悪い!気持ち悪い!
なにコレ!嫌だ!気持ち悪い!!
血がいっぱい!
私の手に!顔に!口の中に!
嫌だ!嫌だ!嫌だ…!気持ち悪いッ!
強迫観念にとりつかれたように、私は可笑しいほど両手や顔をゴシゴシと袖で拭いた。とにかく血を拭きたかった。消したかった。隠したかった。知りたくなかった。認めたくなかった…私の罪を。
「ひっどいなー、リトは」
エンヴィーは、それはもう楽しそうに…愉しそうに笑いながら私を見下す。そして、私の足元を指差して、また嗤った。
「それ、リトの親友の血でしょ?」
言われて気づいた、足元に広がる血の海。そこに横たわる肢体……否、死体は紛れもない私の親友……だったもの。
オレンジ色に近い明るい茶髪は赤黒い血に染まり、見開かれた瞳に光はなく、赤だけを映している。いつも明朗快活に笑う彼女からは想像もつかないほど、変わり果てた姿をした私の親友。1番、大好きな人。
「み、か…?」
名前を呼んだ刹那、ガクンと両脚がなくなり、途端に私の体も血の海に沈む。
「いやっ…嫌ぁあああ!」
咽せ返るような人肉の腐臭と鉄の匂い。見開いたままの美香の瞳に映る私の姿。彼女の胸に突き刺さる刃は、私がいつも錬成している紅い氷刀だ。
私が……殺した?
私 ガ
彼女 ヲ
殺シタノ……?
「ねえ、リト?一番悪いのは誰なんだろうね?」
あはははははははは!
狂った世界に響くエンヴィーの高らかな笑い声。呆然と美香の死体を抱きかかえていた私の口元も、次第に歪んでいく。
「ぁはっ……あはは…」
悪い子は、だれ?
殺しちゃえ、壊しちゃえ。
悪い子バイバイ、さようなら。
「…ははは……」
狂ってる。私も、エンヴィーも、この世界も。
みんなみんな、狂ってるんだ!
あはははははははは!
「──…嫌あああぁああああぁッ!!!」
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