紅の幻影 | ナノ


崩壊の言霊 1  



───バシャッ バシャッ
「……っ、はぁ…はぁ……」

必要最低限の灯りしかない薄暗い地下に響く水音と、苦しげな少女の吐息。

どこまでも続く闇に正しい道なんてあるのだろうか。まるで巨大な迷路のような空間に正常な意識を持っていかれそうになりながらも、少女──リトは己の勘だけを頼りに進んでいく。

「はぁっ……、っ…」

エドを突き放してグリードを追ってきたものの、下水道でその気配を見失った。もともと暗殺部隊にいたため暗闇や地下には多少慣れてはいるものの、流れる水と酷い臭い、そして太陽の全く届かない閉ざされた空間がリトの感覚を鈍らせる。
もちろん、それだけが理由ではない。

「(体が重い……眩暈と耳鳴りが鬱陶しい…)」

呆れるほどの体力の低下。命を削られる代価は理解っていたが、これほどまでとは。さらにこの最低とも言える環境はリトをいたずらに疲弊させ、残った体力までをも徐々に奪っていく。

闇雲に動くのは危険。そう判断し、水路に隣接して設けられた通路に上がって腰を下ろした。失った体力を少しでも回復しておかなければホムンクルスを……エンヴィーを殺せない。

「…はぁ…っ、…うっ!」

瞳を閉じて乱れた呼吸を正そうと吸い込んだ空気はカビ臭く、嘔吐感が胃を叩く。たまらず、反射的に左手を口に添えた。これでカビ臭さは幾分かマシになったが、そのかわりに別の匂いが嗅覚を刺激する。

「…血の匂い……」

自分の手についた、誰のものとも分からない返り血。口を押さえた時についたのか、唇を舐めると鉄の味が口いっぱいに広がった。どんな調味料よりも強烈に舌を、脳髄を刺激する。

返り血は手や顔だけじゃない。最初こそ薄暗くてよく見えなかったが、だんだんと暗順応してきた今、自分が酷い格好をしていることに気づいた。

両手は真っ赤。白かったコートも真っ赤。紅い刀は更に赤を塗り重ね、こんな薄暗い中でも妖しく煌めいている。鏡がないので確認しようがないが、髪や顔にも赤が纏わりついているのだろう。

赤を纏った紅。
本物の人殺し、紅い瞳の雪女。

いいや、雪女はもっと綺麗に任務を遂行する。今の姿は返り血を浴びて踊る人形、傀儡と呼ばれた頃のリト・アールシャナだ。

「雪女……軍の傀儡…」



 「っ…、何とか言えよ!リト!!」
 「今、自分が何をしたか分かってんのか!!!」



こんな返り血姿を見てエドは幻滅しただろうか。初めて出会った、あの日のように…。



 「お前、氷みたいに冷てぇよ…」


      

嫌われのだろうか?

───ズキ…ッ
「(…痛い……)」

わからない。突然の胸の痛み、これは何だ?傷を負ったわけでもないのに、どうしてこんなにも痛い。

リトは握った刀身を逆手に持ち替え、切っ先を自分の胸へと突きつけた。

理解できない心の痛み。このまま、この氷の刃で貫けば“痛み”や“苦しみ”…それら全てから解放されるのだろうか。

「…バカらしい……」

その解放は『逃げ』であることを知っている。
リトは刀を握る手を緩め、左の袖を肘まで捲った。雪のように冷たく白い肌には、いくつもの傷痕が残っている。敵に切られたわけではない。殆どが自分でつけた傷だ。

その中に一筋、比較的真新しい切創があった。今、持っている氷刀を錬成する際にできたものだ。

あの時…。自分の手首を切り裂いた刹那に一瞬だけ見えたエドの顔は、いろんな感情が混ざり合ったような、とても複雑な表情をしていた。

憐憫と憤怒。絶望と畏怖。そこに滲む罪悪感。

そのどれもが無意味だと、4年近くも共に旅をして何故彼は気づかないのだろう。確かに、リトの自傷行為は決して褒められたものではない。けれど、咎められる理由もない。

「……これは、戦うためにつけた傷だから…」

いつだってそう。

“死ぬ”ためじゃない。
“生きる”ために血を流す。

「だから、私の身体に刻まれた傷に恥じるべきものは一筋だって無い……」

リトは瞳を閉じて神経を研ぎ澄ます。聞こえてくるのは流れる水音。地上の騒音。溝鼠の鳴き声。

──…ドンッ

そして、何かが破壊された音。
閉鎖された空間に乱反射する音の距離感は掴みにくいが、そう遠くない所に誰かがいるのは確かだ。

──ッ!
─…、…

更に耳を澄ませば破壊音の他に、何やら会話のような声も聞こえる。残党を追って、もう軍がこんなところまできたのか。いや、それは早すぎる。だったら…?

リトは刀を支えにして立ち上がると、ゆっくりと音のする方へ歩いていった。

──ドカッ! 
──バコ!

一歩、一歩。近づくごとにリトの表情が険しくなる。残党?軍隊?そんな生易しいものじゃない。

「(……この気配は…ッ)」

独特の嫌な気配。間違うはずがない。これはホムンクルスのものだ。リトは自分の気配を殺してギリギリまで近づき、覗き見る。

案の定、そこにいたのはグリードだった。しかし、何やら様子がおかしい。

──ドン!
──ザシュッ
「この…ッ」

体が硬化されておらず、それどころか再生すら追いついていない。なぜ…?

「……の、野郎ォオオオオオ!!!」
──ズビュッ

雄叫びと同時に貫かれたグリードの喉笛。
白刃を彼へと突き立てたのは…──

「(っ…、あれは……ブラッドレイ大総統…!)」

目の前で起きている信じがたい光景に、紅い瞳が限界まで開いた。

大総統の剣戟をリトが見るのはこれが初めてではない。特務に所属していた頃、鍛錬の一環として手合わせしたことが幾度かある。そのたびに、国のトップから直々に剣戟の指南を受けるリトに対して、周囲がどう思ったのかは想像にかたくない。

しかし、それはあくまで訓練での話だ。超人的な手合わせであったとしても、2人とも人間の限界を超えた覚えはない。

「(どうなっている……ホムンクルス相手にあの男……いったい何者…?)」

一回殺したぐらいじゃ死なない上に、最強の盾などという反則くさいものを持つ化け物。普通の軍人ならば、まずその存在に驚き、否定することから始まるだろう。対当…、それ以上の力で戦うなど、ありえない。

リトが息を殺して見守るのを知ってか知らずか、大総統はグリードの攻撃を見切り、剣を突き立てて静にそして冷厳に語る。

「私はね、君のような最強の盾を持っている訳でも、最強の矛…ましてや最強の武器を持っている訳でもない」

そうだ。リトの記憶にある大総統は確かに剣戟の才能こそ優れているが、それだけの男であったはず。錬金術師でも、魔法使いでも、超能力者でもない。気配だってエンヴィー達…ホムンクルスとは違う。紛れもない、ただの人間だ!!

「そんな私がどうやって弾丸飛び交う戦場を生き抜き、功績をたて、今の地位にいるか……わかるかね?」
「ぉ…ま…ぇ……」

───どうして?
そんなこと、ありえない。

───いや。
ありえない、なんて事はありえない。

「君に最強の盾があるように、私には最強の眼があるのだよ」

初めて見るブラッドレイの眼帯の下には、見慣れたマークが刻まれていた。己の尾を噛む蛇…ウロボロスの刻印。

嗚呼、なんてことだろう。この国のトップ、大総統…キング・ブラッドレイの正体は…

「─…ホムンクルス…!」
──バシャッ

ブラッドレイの正体を知り思わず声を出してしまったリトの足元に、剣の刺さったグリードが倒れ込んだ。

「……っ!」
「おや?リト・アールシャナ准将…」

名を呼ばれて顔を上げたリトの瞳に映ったのは、新たに腰の剣を抜き、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる大総統……いや、ホムンクルス。

「ぁ…ぁあ……っ」
「どうしたんだね?そんなに震えて…」

君らしくもない、と彼が呟いた瞬間、リトの視界からブラッドレイが消えた。

「ご苦労だったね、リト・アールシャナ准将…………いや、時空の番人よ」
──ドカッ

背後から聞こえた声にリトが反応するのと、首に激痛を感じたのは、ほぼ同時。

リトの中には眩む視界に抵抗するだけの体力は残っていない。重力に抗えぬ肢体が崩れていくのを感じながらリトが目を瞑った瞬間、脳裏を過ぎた一つの影。

───……どうして?
捨てたはずなのに…。

意識を失う最後に思い浮かんだのは、懸命に私の名を叫ぶアナタだった……───







「師匠…、行ってきます」

テビルズネスト掃討の3日後。エドとアルは朝一番の列車に乗るため、駅へと来ていた。

デビルズネストの一件で、アルにはマーテルの命と引き換えに真理を見たときの記憶が戻った。しかし、エドの機械鎧はボロボロで身体の傷もまだ完全には治っていない。

それでも、急がなければならない理由が二人にはあった。

「……エド、これを渡しとくよ」

見送りに来たイズミから手渡されたもの。一つは軍の狗の証である銀時計。鋼ではなく紅氷のものだ。

そして、もう一つ。

「これも、あの子のもんだろ?」
「!…これは…」

この世界では見慣れない携帯電話。この世界では通信こそ出来ないが、音楽を聴いたり写真を撮ったり、リトはとても大切にしていた。

エドはそんな彼女の顔を思い浮かべながら携帯をグッと握り締めると、壊れてしまわないよう胸の内ポケットにいれた。

「(リト…オレは諦めない……)」

あの日から、リトが帰ってこない。
軍に訊いても大総統達はセントラルへと戻り、紅氷の錬金術師の行方は分からないという。

消えたリト。誰に聞いても見ていないと首を振られた。しかし、エドには……エドだけにはリトの居場所に心当たりがあった。

確証はない。けれど、たぶん間違いない。 
リトは…始まりの場所にいる。

「行くぞ、アル!」
「うん!」

──必ず取り戻す。
エドとアルは決意を胸に秘め、セントラル行きの列車へと乗り込んだ。


2014.01.28


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