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 日に日に寒さを増す外気に負けないように厚着をして、同じように何枚もの服でかさの増した母親と並んで家を出る。家から公民館まではほんの十分ほどの距離だ。
 首からぶら下げたフィルムカメラが歩く度に揺れて心臓の辺りをとんとんと叩いてくる。それを片手で何度か押さえながら楽しそうに鼻歌を歌う母親について行った。
「こんにちは。先日お話しさせていただいた天笠です」
「ああ、はい、伺っております。第二会議室にいますので、そちらへどうぞ」
 受付にいる気怠そうな女性に声をかけると、小窓越しにロビーの奥の方を指さした。母親はそんな態度に気を悪くするでもなくお辞儀をして指された方へ足を進めた。
 ノックを三つ。奥から声が返ってきたことを確認してようやくドアを開ける。
「おや。ええと……天笠さん、で合ってますかね?」
「はい。先日はありがとうございました。この子が息子の徹です」
 そっと母親に背中を押され、よく分からないままに頭を下げる。それだけで中にいた大人たちは賢そうだとか礼儀が良いとか様々な声を上げた。
「いがやん、例の子が来たよ」
 どうするべきか分からず入り口にそのまま立ち尽くしていると、近くの人が声をかけてようやく気付いたのか部屋の隅でひたすら本と睨めっこを続けていた青年が立ち上がり、こちらまで駆け足で寄ってきた。
 少し茶色がかった髪にシンプルな眼鏡をかけたその青年は、周囲の四、五十はいっているような大人たちのなかでも一際若く見えた。
「初めまして、五十嵐遼一郎と言います」
「貴方が例の大学生の方ですか?」
「ええ。徹くんとバディを組む予定です。……君が嫌じゃなければだけど、ね」
 いきなり視線をこちらへ向けてへらりと気の抜けた笑みを向ける五十嵐にどう対応して良いか分からず、とっさに母親の陰に隠れる。
「こら徹。……ごめんなさい、少し人見知りみたいで」
「ああいえ、大丈夫ですよ」
 五十嵐はなにかに気が付いたのか、しゃがみ込んでこちらに視線を合わせて胸元にあるそれを指さす。
「ええと、徹くんだっけ。君、写真撮るのが好きなの?」
 母親の陰に隠れながらも一つ頷く。
「僕と少し似てるね。僕は宇宙とか星空が好きで、そういう写真を撮ってるんだ。あ! ほら、これとか。どうかな?」
 ポケットに入っていた手帳を取り出し、中に挟まっていた写真を一枚抜き取って差し出してくる。
「……きれい」
 真っ黒に塗りつぶされた世界の中に走る川のような白。しかし目を凝らせはそれらはすべて点の集合体であり、もっとよく見れば赤や青、黄みがかった星や一際強い白を放つ星が見て取れる。幾多の星を写した夜空の写真だった。
「君のお眼鏡に叶えたかな? 良ければそれ、あげるよ」
「いいの?」
「お近づきの印に」
 母親の服を掴んでいた手を離して背負っていたリュックから小さなアルバムを取り出す。最後の方に余っていたページにもらった写真を差し込み、それをそのまま五十嵐へ差し出した。
「好きなの、あげる」
「……これ、全部君が撮ったの?」
 しゃがんだまま両手で丁寧に受け取った五十嵐は一枚一枚目を丸めながら見ていく。最後まで見終わってから序盤のページに戻り、一枚の写真を指さした。
「僕は、これが欲しいな」
 五十嵐が指さしたのは、真っ赤に燃える夕日だった。
 アルバムを受け取って夕日の写真を抜き、五十嵐に手渡す。それを嬉しそうに受け取って先ほどまで夜空が入っていた手帳に夕日を差し込んだ。
「徹、お母さんちょっとあっちでお話ししてくるから、その間五十嵐さんと一緒にいてくれる?」
「うん。だいじょうぶ」
 母親が一つ頭を撫でてから白髪まじりのおじさん達の方へ歩いていくのをぼんやりと眺めていると、再び目の前にいた青年の凛とした声が響いた。
「徹くんのおうちは両親とも働いてるんだよね」
 声は出さずに一度だけ頷く。
「お父さんとお母さんのこと、好き?」
「……うん」
 許しかけた心がだんだんとこわばっていく。あれだけ仲良くなりたいような笑みを向けておきながら、この男はたくさんの心ない大人たちと同じ事を言うつもりだと、直感で分かった。
「ずっと一緒にいられないの、寂しい?」
 大人はみんなそう言う。そう言う大人は嫌いだ。
「……ううん。いい子だからおるすばん、ちゃんとできるよ」
 心の中で密かに固めた用意された返答。寂しくない、怖くない、一人で出来ないからといって誰に迷惑をかけてもいけない。ならばそれが虚勢であっても本心は呑まなければいけないのだ。そうしなければ両親は安心して働けない。
 風邪を引けば仕事を休み、怪我をすれば病院へ一緒に行こうという、心配性な両親を安心させたかった。一人で大丈夫だと言えばみんながいい子だ偉い子だと褒めてくれる。だから、
「でも、お留守番は好きじゃないでしょ?」
 そんな哀しそうな顔をされると、どう対応すればいいのか分からないのだ。
「……ごめん、ちょっといじわるだったね」
 不意に立ち上がって遙か上の視線でまた笑う。その顔には先ほどまでの哀しそうな色は残っていない。
「今日からはお留守番の時間、ここで遊んでいくと良いよ」
「ここで?」
「うん。平日はみんなでどこに行くか話し合って、休日に山に登りに行くんだ。いつでも人が居るから、いつ来ていつ帰っても良い」
 母親と話している大人たちを見る。先ほどからにぎやかなのを見るにこの短い時間でずいぶんと仲良くなったらしい。
「君と僕はこれからペアとしてやっていくから、出来れば仲良くしてくれると嬉しいな」
 一人で留守番をさせていることを不安に思っての母親の根回しなのだろう。それならば、受け入れなければまた心配をかけてしまう。
「……天笠、徹、です」
「うん、よろしく徹くん。僕は五十嵐遼一郎。上も下も長いから、好きに呼んでくれて構わないよ」
「いがらし、さん」
 親と教師以外にここまで大きい年上を相手にしたことがなく、どうすればいいか分からないままさんをつけて呼ぶと、それを聞くなり五十嵐は困ったようにうなり声をあげた。
「うーんなんかあんまり仲良くなれそうじゃないなあ……ここの人たちはふざけていがやんなんてあだ名をつけたけど……あと遼もあるな」
「りょう」
「遼一郎の遼ね。呼びやすいでしょ?」
「遼、さん」
「君で良いよ」
「遼くん」
 ようやく満足したように笑った五十嵐は、その顔のまま敬語もいらないからね、となんとも難しい注文を付け加えた。


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