ミドルテンポでほどけてく

高校三年生になった今、目を背けてはならないもの。進路のことだ。

進学校である白鳥沢では有名大学への進学率が高く、高校在学中に交換留学に行く生徒も珍しくない。しかし勉強や進学先なんかよりも大切なものがあるので、ホームルームでの担任の話は右から左へ流れていた。進路についての紙も配られたが、これは白紙で提出か忘れたふりをしてやり過ごすしかないな。

前に座る男も同じ考えだったようで、たった今配られたプリントをぐしゃりと机の奥に突っ込んでいるのが見えた。その後も机をごそごそと漁っているそいつの背中をぼんやり見ていると、気づけばホームルームは終わってしまった。


起立・礼が終わると教室内は一斉に騒がしくなり、近くでは進路の話も聞こえれば全く関係の無い新しい飲食店の話なんかも聞こえてくる。へえ、駅前にスムージーの店なんて出来たのか。そんな洒落たもん飲んだことないなと考えながら荷物をまとめていると、目の前で声がした。


「げっ」


その男、スズキタダシも部活に向かうため机の中身を「置きっぱなしにしておくもの・寮に持ち帰るもの」と分別していたらしい。しかし何か変なものでも発見したのか、机から出したそれを見つめて「あー」とか「うー」とか唸っている。


「どうしたよ変な声出して」
「…ああ…いや…あー」


身体を傾けて前の席を覗くと、スズキの手にはCDのケースがあった。なんだ、怪しい雑誌でも出てきたのかと思った。
スズキはそれを鞄に入れるか机の中に戻すか悩んでいるようだ。そして少し苛立った様子で頭をかいた。


「くそ、面倒くせえ」
「どした?」
「元カノに返すやつ。入れんの忘れてた」


そこで思い出したのは、白布のクラスメートである苗字さんだ。確か彼女はスズキの元カノであると聞いた。元カノ本人の前で「元カノってやつ」だと言ってのけたのは驚いたが、付き合い方も別れ方も人それぞれだから俺がどうこう言えることではない。

スズキは苗字さんのCDを持ったまま携帯を取り出し、恐らく苗字さんへのメッセージを打ち込んでいた。しかし途中で打つのをやめて顔を上げ、俺のほうへと振り返った。


「なあ、瀬見って名前と知り合い?」
「苗字さん?」
「そ。前にそこで喋ってたろ」


先日、苗字さんが何かの用事でこのクラスに来た時にぶつかってしまい、ほんの一言二言会話を交わした。そういえばあの時、彼女の姿を見つけたスズキがやって来たからスズキに用があったのかも知れない。このCDもその時に苗字さんの手元へ返る予定だったのだろうか。


「これ返しといてくんね?俺もう行かなきゃいけねーんだわ」
「え、知り合いっつっても顔見知り程度だぞ」
「渡してくれたらそれでいいから」


な!と爽やかに笑いCDを俺の机に置くと、スズキは立ち上がった。
机に掛けたシューズを持ち、教室後方に置いてあったラケットバッグを肩にかける。そして教室から出る瞬間に笑顔となったスズキの前には、同学年の女の子の姿があった。そのまま二人は談笑しながら歩いていったようだ。…新しい彼女かな。

俺はというと、机に置かれたCDに視線を落としケースに反射する自分の顔に問いかける。「届けるか?届けないか?」そしてもうひとりの俺は答えた。「白布に渡せばスムーズじゃないか」と。

同じクラスならばすぐに渡せるだろう、席も近いようだったし。決心した俺はCDを鞄に入れて教室を出た。





部室に到着すると川西や白布はすでに着替えを始めていたので、忘れないうちに声をかけた。


「なあ白布」
「ああ瀬見さんお疲れ様です。先行きます」
「いや待てよ用事があんだよ」


相変わらずのテンションで接する白布に少したじろいでしまったが、今のは冗談だったらしく「なんですか」と立ち止まった。川西の表情は見えないが肩が震えているので、どうやら笑っている。


「これ苗字さんに渡してくんね?」
「………は?」


どう考えても年上に対する返事ではないが、白布の反応はもっともだ。俺は三年生で苗字さんは二年生、ついこの間白布の教室で初めて対面し、その日の放課後に偶然また出会っただけ。そんな俺がどうして彼女へCDなんて渡すのか、不思議で仕方が無いだろう。
白布の反応を聞いた川西もついにこちらを向いて、まだ俺が持ったままのCDに気付いた。


「何ですかこれ」
「うちのクラスの奴が、苗字さんに返すの忘れてたとか何とかで」
「…それをどうして瀬見さんが?」
「俺だって知りてえよ」


しかし、スズキが自ら返すのではなく俺に押し付けた理由は何となく予想がついていた。
スズキと俺は出席番号が前後で席も近いので、彼のことは知っている。テニス部の副主将とバレー部のレギュラーである俺たちは、大会の事や運動部あるある話なんかで盛り上がる事もある。最近は見たところ新しい彼女、または新しく狙っている女子が居そうだからわざわざ元カノに会いに行くのは避けたいのだろう。
スズキと苗字さんとの関係をこいつらに話すのも気が引けるので、あくまで「クラスメートからの届け物」という事とした。


「まあいいですけど…」


白布も白布であまり興味が無いらしく、それ以上聞かずにCDを受け取り鞄へ入れようとした。そこでこの話は終わりそうだったのに、割って入ったのは川西である。


「ちょっと待って賢二郎」
「あ?」
「瀬見さん。俺はですね、瀬見さんが預かったなら瀬見さんが責任持って苗字に届けるのが良いと思うっすよ」
「はあ?」


俺と白布は同時に疑問の声をあげた。
川西がいつに無く活き活きとした様子で話し、白布の持つCDをそっと取り上げもう一度俺に寄越してきた。とりあえず受け取る俺だったが、俺が二年のクラスに渡しに行ったって相手も申し訳なく思うだろうし、俺だって嫌だ。他学年の校舎は居心地が悪い。


「いや白布でいいだろ。同じクラスだろ?」
「白布を頼るのはやめましょうよ」
「へ?」
「…そうですね。俺を使うのはよして下さい」


なんという事か、とうとう白布も依頼を拒否したではないか?川西は「そうそう」と言いながら自分の着替えに戻ってしまった。
どうしてだ。同じクラスの、しかも近い席のクラスメートにCDを渡すくらい簡単な事じゃないのか?俺が納得いかない顔をしていると白布は涼しげに言った。


「いいじゃないですか。怪我させたお詫びってことで。しかも変な絆創膏なんか押し付けて」
「あれは俺のじゃねえっつの」


こいつ、そういえば苗字さんが俺のばら蒔いたプリントを拾ってくれていたのを見られたのだった。そしてテカチュウの絆創膏の事も。


「くっそダサい絆創膏を自慢される身にもなってください」
「……は?自慢?」
「ぶは、賢二郎、おまっ」
「平気だろこのくらい」


あの絆創膏のどこに自慢できる要素があったのだろうか。それも分からないし、川西が焦りつつも笑いを堪えている理由も分からない。白布が頑なにCDを預かるのを拒否する理由も。


「とにかく自分でお願いしますね」


それだけ言うと、二人はさっさと部室を出てしまった。

いまだ制服のまま取り残された俺は、着替えながら今の話を振り返る。
確かにせっかく彼女の名前を聞いたんだし、他学年の校舎に行くのが気まずいという事を除けば特に問題は無い。スズキから受け取るよりはマシかもしれない。やっと俺は、CDを苗字さんへ渡しに行く決心をした。





翌日の昼休み。二年生の生徒達が少し珍しそうに、そして遠慮しがちに俺を見るその視線に耐えながら二年四組へやって来た。
このあいだ苗字さんは昼休みの終わりがけに教室に戻ってきたはず。だから予鈴が鳴る10分前くらいに行き、彼女が戻ってくるまで白布と川西と話しておけばいい。そう思ってやってきたのに畜生め、あいつら二人とも居ないじゃないか。

こっそり見渡す限り苗字さんの姿もなく、教室の入り口でCDを手に立ち尽くしてしまった。ここにいても邪魔だろうし放課後にでも出直すか、と肩を落とした時に後ろから声が聞こえた。


「……瀬見さん?」


それは憎たらしく薄情な後輩の声ではなく、女の子のものだった。振り返って少し視線を下げると、まさに俺が探していた女の子が立っている。苗字さんは俺がバレー部の後輩を探していると思ったらしく、教室内を覗き込んだ。


「白布くん達なら中に…あれ、居ない」
「いや、白布じゃなくて。苗字さんに会いに来たんだけど」
「わ…私に?……会いに!?」
「あ、ごめん語弊が…」


語弊というか、会いに来たと言っても間違いではないのだが。「これなんだけど」とスズキから受け取ったCDケースを差し出すと、苗字さんは少し表情が暗くなった気がした。


「…これ」
「スズキが苗字さんに返し忘れてたって…で、俺がたまたま白布に用事あるから渡しとこうかってな、それで…うん」


自分でも驚くほど流暢に嘘を言ってのけた。これを届けるのは俺から申し出たわけではない。でもスズキが面倒くさがって返しに来なかったと言うのは、苗字さんにとってショックな事かもしれないなと思ったのだ。
その嘘を見抜かれているかは分からないが、苗字さんはCDを受け取った。


「わざわざすみません」
「いや、ついでだからさ」


相変わらず浮かない表情であった。この子はまだスズキのことを好きなんだろうな。スズキに新しい女の影があることは知らないんだろうか。だとしても俺が教えるのは変な話だし、別れた後にスズキが誰と仲良くしようが問題ない。
本当ならCDを渡してすぐに「じゃあな」と帰れば良かったのだが、タイミングを逃してしまった。


「…えーと。あ、指もう平気?」


その結果出てきた話題は指の切り傷のことだ。なんという色気もくそもない話なのだろうと思ったが、苗字さんの顔は打って変わって晴れやかになった。


「あ、はい!絆創膏のおかげです」
「…そうか?アレってそんなにいい絆創膏だったのか」


キャラクターものの絆創膏なんか気休め程度にしかならないと思っていたが、思わぬ効果があるようだ。これからも役に立つかもしれないから捨てずに取っておこうと考えていると、苗字さんが言った。


「絆創膏のおかげと言いますか…瀬見さんがくれた絆創膏だから、かなぁと」
「え?」


よく聞き取れなかった。いや、聞き取れはした。予想外のことを言われたせいで俺の脳が一瞬だけ停止したのだ。
それってどういう事、と聞き返そうとした時には話の流れを変えられていた。


「…と、いうのは冗談です!でもほら、指は治ってますよ」
「お、おお。ほんとだ。よかった」


先日すっぱりと切れていた指は傷が見えなくなっており、ほっとした。
あれから一週間経っているから治っているのが当たり前なのか、本当に効力のある絆創膏だったのか、それとも絆創膏を与えたのが俺だったから?なんて苗字さんの言葉に考えを巡らせていると、今度は男の声で呼ばれた。


「瀬見さん、邪魔です」


名前を呼ばれただけでなく「邪魔です」なんて遠慮無しの台詞を吐けるのは白布だけだろう。振り向くとやっぱり白布と川西が立っていた。確かに俺たちは教室の入口付近に居るが、邪魔ってほど邪魔な位置には居ないはずだ。


「お前ら…」
「おー苗字、CD返ってきた?」
「うん。…あれ、何でCDの事知ってるの?」
「何でって、」
「お前ら余計な事言うなよ絶対だぞ」
「へーい」


俺がここまで渡しに来るのを渋っていたなどと漏らされたら、せっかくの嘘が台無しだ。
後輩たちに口止めをすると不自然なほど素直に返事をしたので怪しく思いつつも、ちょうど予鈴が鳴ったので戻らなければならなくなった。


「そろそろ行くわ」
「お疲れっす」
「あ、瀬見さん、」


自分の教室へ向かおうと一歩踏み出した時、苗字さんに呼び止められた。


「ありがとうございました」


そして、スズキの話をしていた時とは全く違う柔らかな笑顔で言ったのだった。そんな顔を俺に向けられるとは思わなかったもんで、「おう」とあまり気の利いた事を言えずにその場を去ってしまった。

付き合っていた時もスズキに向けてあんなふうに笑っていたんだろうか。今はスズキの話をすると表情が曇ってしまうのに。
俺ならきっと苗字さんに悲しそうな顔はさせないのになという考えが過ぎった時点で、自分の中に新たな熱が宿っている事を確信した。

20170421/リサコ