花 時々 雨

恋というものは厄介で、人に言われてできるものでもなく、自分でしたいと思ってできるものでもない。気づいたら落ちているものである。それは例え、もうしばらく恋なんてしたくないと思ってもいても、だ。

あれから一週間ほど経っただろうか。すっぱりと切れていたはずの指の傷は綺麗に塞がって、少しだけその部分に沿ってうっすらと皮膚がささくれだっている。あの人がくれたテカチュウの絆創膏は丸一日も持たずに、粘着力を失い剥がれてしまった。何故かそれを残念に思う気持ちが湧き出てきたのが始まりだったと思う。
気づけばあの人の姿を探していたけど、広い校内で出会う確率はやっぱり低いみたいであれから見かけることはなかった。もう一度ちゃんとお礼を言いたい。けれど、名前すら知らなくて手詰まりだった。あのとき白布くんが名前を呼んでいた気もするけどそんなこと覚えているはずがない。こうなる事を知る由もなかったのだから。学年も違う、クラスも知らない、見るだけの恋すら出来なくて息がつまる思いがする。
あんなに鮮明に覚えていたはずの姿形も意識すればするほど、輪郭がぼやけていくのは何故なのだろう。どうでもいいと思う人は思い出せるのに、肝心な人だけ思い出せないのだ。
初めて会ったときは、友人たちとお昼を済ませおしゃべりに花を咲かせた後だった。だから毎日期待してしまっていた。昼休みは教室内にいることは少ないので、教室に戻ろうと足を向けながら、今日は来てるかな、と胸を弾ませていたのだ。けどその度に定位置にある自分の机を見て落胆のため息を吐く日が続いていた。
白布くんと川西くんと喋っていたのだからバレー部の先輩なのだろうと簡単に予測はつく。クラスや名前をその二人に聞けば早いのだろうけど、それができないのは少し恋愛に臆病になっているからなのかもしれない。

そんな足踏みしていた自分に転機が訪れたのは、たまたま休み時間に窓際の席の友人とグラウンドを眺めていたときであった。校舎のすぐ側に立っている桜が、春の生暖かい風に吹かれてくるくる舞いながら散っていた。その中で見つけてしまった彼の姿。


「あっ!」
「え?何?」
「い、いや、何でもないよ……」


思わず声を上げてしまった。心の準備が何もできていなかったのだ。手を顔の前でぶんぶん振るわたしを友人は怪訝そうに見つめている。まだ、もう少しこの想いは自分の中で静かに育ててから報告したい。だから適当に誤魔化して心の中で謝った。
次の授業は体育なのだろう。体操服に着替えた彼は友人たちと談笑しながら集合場所に向かっている。ここから見ても分かるくらいにきらきらと眩しい笑顔を振りまいて駆けていく。その姿を目に焼き付けるようにじっと見つめた。そうしているうちに胸が熱くなる。どうにか一歩踏み出してみようかという気になったのだ。だから、自分の中で賭けをすることにした。今日の昼休み、彼がこの教室に来ていなければ、名前を白布くんと川西くんに聞いてみよう、と。
もう少しグラウンドを見つめていたかったけどチャイムが鳴ってしまったので後ろ髪を引かれながら自分の席に戻った。友人がうらやましい。この授業中ならいつでも外に目をやれば彼の姿が見れるのだ。今度の席替えでは何としてでも窓際を引き当てたい。彼のさっきの笑顔を頭の中で再生しながら一息つき、ちらりと白布くんを見る。バレー部って見に行ったりしてもいいのかな。それができるのならこっそりと応援しながら、わたしの淡い恋心を満たすことができるのに。そんなことを考えながら眠たい現代文の授業を乗り切ったのだった。





いつもどおり昼休みが終わる頃に教室に戻ると、やっぱり自分の席に人影は見当たらなかった。まあ予想通りと言えば予想通りだった。席に近づくと、川西くんは身を乗り出しながら白布くんに話しかけている。白布くんは近づいてくる川西くんから少し距離を取りながらも一応二人の会話は盛り上がっているみたいだ。あまり表情筋の動かなさそうな白布くんもうっすら笑っていたのを見たから。
椅子に座り、二人の方をぼーっと見ながら会話に割って入るタイミングを見計らっていたら、都合よく向こうから話しかけてくれたので助かった。内容は別として。


「え?何、苗字、俺に惚れたって?」
「そんな訳ないし!冗談やめてよ!」


意地悪げに口角を上げ体の向きをこちらに向けながら喋る男、川西太一。彼とは一年のとき同じクラスで仲良くなり、こんな軽口を叩ける仲になってしまった。背が高くて無表情で、話しかけにくくて何だか怖いという第一印象だったけど喋ってみると案外気さくで、クラスでも人気者だった。
対して白布くんはまだつかめない。クラス替えが行われて間もないという事もあるが何となく近寄りがたい。でも川西くんと仲良しみたいだからきっといい人なんだろう。


「あのさ、この前わたしの席に座っていた先輩って何て名前なの?」


少し緊張して手にじんわり汗をかいているようだ。でも一応平然を装えているはず。二人のうちどちらかに対して質問したわけじゃないので、交互に二人を見ていると口を開いたのは川西くんだった。


「瀬見さんのこと?」
「ああ、うん。多分そうかな?後輩思いな感じの」


初めて会った日の印象を全部引っくるめて感じたイメージだった。わたしが席に戻ってきたときの慌てた様子。そのときの川西くんと白布くんとのやり取り。落ちたプリントを一緒に拾っていたときの申し訳なさそうな様子。とても整った顔をしている彼には似つかわしくないテカチュウの絆創膏。別れ際に放たれた優しい言葉と優しい笑顔。そしてそのどれもがわたしの胸の温度を上昇させていた。


「じゃあ瀬見さんだわ。あの人、すっげえ面倒見良くてさ。俺らのこと可愛くねえ可愛くねえ言いながら気にかけてくれてんの。な、賢二郎」
「そうだな。鬱陶しいくらいな」


ひょんなことで知れた瀬見さんの新たな一面に思わず胸が踊る。やっぱりイメージどおりの人。くすくす笑っている二人を見ると後輩からも慕われているようだ。


「ねえ、下の名前は何ていうの?」
「ん?」


欲を出してもう一つ質問を付け加えれば川西くんはにやにやと意地悪い笑みを浮かべたので、しまった、と思った。


「えー?苗字もしかして瀬見さんのこと気になってる?」
「違うよ。ただ興味本位で聞いただけだから!」


手のひらにじんわりかいていた汗をスカートで拭くようにぎゅっと握りしめる。ああ、もう、やってしまった。うまく誤魔化せただろうか。少し顔が熱い気がする。どうやってこの場を乗り切ろう。そんな微妙な空気を切り裂いたのは白布くんの涼やかな声だった。


「英太。瀬見英太」
「え?あ、そうなんだ!」


予想外の言葉に驚きつつ感謝した。やっぱり白布くんはいい人みたいで好感度が急上昇した。「ありがとう」と伝えれば白布くんは「別にこれくらい」と言いながら淡々と次の授業の準備を始め、川西くんには「小学生かよ」と付け加えた。そうだ、そうだ、乙女の気持ちを考えろ。じとりと川西くんを睨めば大げさに肩をすくめながら「俺もそろそろ戻ろうかな」と席を立った。
そのとき、携帯が震えたのを感じたのでポケットから取り出して画面を見てみると、少し前に別れた彼からのメッセージが届いていて、それを見て浮かれていたわたしの気持ちは一気にしぼんでしまった。


『借りてたCD持ってきたから放課後取りに来て』


男の子らしい簡素なメッセージ。借りてた方なんだからそっちが持って来てよ、という不満はあるが、彼は彼で忙しいみたいだった。白鳥沢学園の運動部はどの部もそこそこ強くて、彼の入っているテニス部も例外ではない。その部の副主将を務めるのだから忙しいのは当たり前だ。
でも別れたのはそれが理由じゃない。「他に好きな人ができたから」と言われてしまったのだ。そうなれば別れる他ないではないか。ちゃんと好きだったし、だからこそ傷ついた。自分には魅力がないのかと落ち込んだ。これがもうしばらく恋愛はしなくていいかな、と思った原因だ。失恋はやっぱり悲しくてほろ苦い。
ただ、お互い嫌いになって別れたわけじゃないし、こうやって貸していたものを返してもらうために連絡先は消せないでいた。『何組になったの?』と入力したところでチャイムが鳴ってしまったので、返事を待たずにポケットにしまい込む。ああ、何だか放課後を迎えるのが憂鬱だな。はぁーっと吐いた溜息は肺の中の空気がすべて出たような重いものだった。





学年の違う校舎に向かう足取りは自然と重くなる。ましてや別れた彼氏の元に向かっているのだから仕方がない。『一組!』とだけ返ってきた返信のとおり一組の前にやってきたけど、HRを終えた後の教室内はがやがやと騒がしく、みんな思い思いに席を立っているため目的の人物はなかなか見つからない。
居心地悪いなぁと思いながら開け放たれている教室の入り口から中を覗き込めば、丁度出てくる人と肩がぶつかってしまった。


「す、すみません……」
「いや、こっちこそ……あ!」
「あっ!」


何という偶然なのか。いや、わたしにはもはや運命とも思えるような出来事だった。焦ったような顔をしながら、でも「また会ったな」と笑うその人は、ずっと会いたかった瀬見さんだったのだ。会いたかったけど、いざ目の前にすると言葉が出なくなる。心臓も自分のものじゃないみたいにバクバクと音を立てている。全身を硬直させているわたしを見た瀬見さんは頬を掻きながら「えーっと……名前なんだっけな」と口を開いたので思わず背筋を伸ばした。


「苗字です」
「そうだそうだ。苗字さんだ。どうした?誰かに用事か?」


優しく見下ろされて鼓動はもっともっと加速する。けれど用事があるのは元彼で、そのことはあまり瀬見さんには知られたくないことだった。


「えーっと……」
「あ、名前来てるじゃん。いるなら早く声かけろよな」


言葉に詰まっていたわたしの気持ちなんてお構いなくわたしたちの間に入ってきたのは元彼のスズキタダシだった。別れたんだからもう名前で呼ばないでほしい。瀬見さんに勘違いされたくない。そう思うと段々顔も引きつってくる。


「あれ?スズキと苗字さんって知り合い?」
「そ!元カノってやつ!」
「へぇ、そうなんだ。じゃ、俺は部活行くわ。じゃあな!」


わたしのことは置いてけぼりで二人の会話が進み、そして瀬見さんの一言で終わった。当たり前のことだけど、わたしとタダシの関係を知った瀬見さんは別に何とも思ってないようで、平然と手を上げて背を向けて去ってしまった。ツイてない。瀬見さんとタダシが同じクラスだったなんて。元カノだと暴露されてしまうなんて。
でも誰も悪くない。わたしが勝手に落ち込んでるだけだ。もやもやと心に霧がかかる。やり場のない想いをどうにかしたくて、返してもらったCDの袋を手が白くなるくらいぎゅっと握りしめて、わたしは一気に階段を駆け下りた。

20170415 /ララ