爪先からプロローグ

四月になったばかりの新しい学期にはどうも慣れない。それだけでなく白鳥沢学園に入ってから二年が経ち、ついに自分も最上級生となってしまった。校内を歩く時にちょっとだけ前より堂々としてしまう事や、間違えて二年の校舎に行ってしまう事などを除けば麗らかな春であった。


バレー部の先輩たちは去年の春高で引退し、その時から主将は若利であるがあいつ一人で色んな事をこなせるほど器用でもないし暇でもない。なんたって全国区の選手だから、若利がバレーをする場所は白鳥沢の中だけではない。そこは天童とか副主将の獅音とか、たまには俺が代わりに主将としての仕事を手伝ったりして部内は問題なく回っていた。


そして今日、四月の初め。


始業式を終えて数日が経ったころに若利からの伝言があった。一年の…じゃない間違えた。二年になった部員たちにプリントを配って来てくれとのご命令だ。朝練で配るのを忘れていたらしい。こういう所が、牛島若利も完璧ではない普通の人間なのだなと思わされる。

とはいえ二年生全員に配って回るのは骨が折れるので、一番話しやすい後輩である川西太一に託すことにした。


『昼飯どこで食ってる?』


昼休み、川西にメッセージを送るとすぐに既読がついた。しかしなかなか返事を寄越さないところを見ると、俺がなにか面倒を押し付けるのだとバレているかも知れない。勘が鋭い奴はこれだから困る。
購買に並びながら返事を待っていると『白布の教室です。』とだけ返ってきていた。だからその白布の教室はどこなんだよ。コイツ絶対わざとじゃねえかよ。

その後何度かメッセージのやり取りを繰り返し、白布は四組である事を吐かせたのと同時にコロッケパンとメロンパンを手に入れたのでそのまま二年四組へと向かった。


「失礼しまーす…」


下級生とはいえ他のクラスに入るのは少々勇気が必要だ。誰に言うでもなく小声で断りを入れて教室内に入ると、座っているのにとても目立つ川西太一を発見した。
川西はまだ俺に気づかず何かを食べているが、先に白布の方が俺に気付き明らかに眉を寄せた。隠せよその顔は。


「お疲れ様です。太一、きた」
「あ、瀬見さん。待ってました」
「待ってたならもう少し歓迎しろよ」


白布も川西も全くの無表情なもんで、お世辞にも俺という先輩を待っていたとは思えない。二人ともこれが平常運転だから良いんだが、いつも俺の周りにいるのは騒がしい天童や隼人なもんだから扱いが分からないのだ。後輩だし、白布は俺と同じポジションを争っているし。

しかし我らが主将からのプリント配布を俺で止めるわけにはいかない。持ってきた紙袋から二年のぶんを取り出して川西に渡すが、なかなか受け取らないのでもう一度首元まで突き出すとやっと川西が束を手に取った。


「それ放課後までに配っといてな」
「…ていうか瀬見さんそこで食べるんですか?」


白布が箸を口に運びながら言った。あまり俺のことを受け入れていなさそうだ。けど俺だって空腹の限界なので、空いている近くの席の椅子を引っ張ってこの場に居座る事にした。俺べつに悪い事してませんし。


「一年、どんな奴が入るんですかね」


川西は恐らくこの空気を少しでも和らげるために言ってくれたのだろう。
俺は、ここ最近の白布の態度には苛つくと言うより少しショックな部分もある。だからそれを改めてくれよという意味を込めてこのように答えた。


「生意気じゃなけりゃ良いわ、俺は」
「それ明らかに白布の事じゃないっすか」
「生意気ですみませんね。」
「それが生意気な。」


くそ生意気で本当に嫌な奴だと思わせてくれればいいのに、俺が突っ込むと「ふ、すみません」と笑ったりするのでまだ嫌われてはいないのだと思う。一筋縄では理解し難い。しかしこの面倒な後輩達の相手もあと一年かと思えば寂しいものだ。

その後は記憶にも残らないようなどうでもいい話と少しの部活の話をしながらパンをふたつとも食べ終えて、そろそろ予鈴が鳴る時間となっていた。
午後は俺の苦手な英語の授業。ああノート持ってきてたっけな、ロッカーにルーズリーフがあるから良いか。


「瀬見さん」


次の授業の心配をしていると白布が俺の名を呼んだ。が、その目は俺ではなく俺の後方を見ているようだ。何があるのかと振り向くと、そこには面識のない二年生の女の子が突っ立っていた。


「…? 俺?え、なに?」
「その子はあなたが座ってる椅子の主です」
「ぶっははは」
「おい早く言え!」


勝手に席を借りていたのを思い出して慌てて立ち上がり、机と椅子を元の位置に戻した。川西はさっきまで澄ました顔をしていたくせにけらけら笑っているし、白布も白布でしてやったりな表情だ。
ただでさえここは俺のクラスじゃない、それ以前に学年も違うのに変な目立ち方をしてはたまらない。


「ごめん席…」
「…いや、いえ。大丈夫です」
「瀬見さんのケツで温まってるけど大丈夫?」
「川西覚えとけよ」
「すんません」


女の子の席を陣取ってしまっていたとは申し訳なけなくなり、間もなく五限目も始まるので白布のクラスを出る事にする。その女の子が軽く会釈をしてくれたので同じように返し、そそくさと逃げるように廊下へ出た。
同時に川西も席を立ち、「お疲れっす」と隣の教室へ入っていった。あいつ、プリント配るの忘れないといいけど。





午後の授業を乗り切って、いよいよ放課後は俺が一番活き活きと出来る時間だ。これでも強豪バレー部の試合に出してもらえるいわゆるスターティングメンバーなのである。それを白布が虎視眈々と狙っているから気を抜くことは出来ないが。

その白布と、川西というお調子者の後輩には昨年から手を焼かされており世話をするのは俺の役目となってしまった。若利によると、天童は一緒になって調子に乗るから世話係から除外されているらしい。
だからその後輩たちがきちんとプリントを配り終えたのかが心配になり、部室へ行く前にもう一度二年生のクラスの前へやってきた。


「何か用ですか?」


声をかけてきたのは白布である。まるで初対面の不審者にでも話しかけるようなテンションじゃないか、これは。


「いや、プリント配れたかなって」
「川西が配ってましたけど…あ、俺も一応四組の奴には配ってます」
「おお、さんきゅ」


意外とちゃんと仕事をしてくれたようで、ほっとを胸をなで下ろす。疑って悪かったな後輩たちよ。
川西は配りきれなかったプリントを持って早々に部室に行き、部室で配って回る事にしたらしいので俺たちも部室へ行く事にした。俺と並んで歩くのは、白布にとっては不本意だろうけど。


「…あ。」
「どした」
「すみません忘れ物しました。先行っててください」
「おう。分かった」


白布は振り返り、二年四組へと戻っていった。今日からちらほら仮入部の一年が入ってくるから遅れないようにしろよ、と言えばよかったか。そこまで言うのも鬱陶しいかな、未だにどの程度先輩面をすればいいものか分からない。

そしてまた俺は昼間のようにぼんやりと考え事をしながら、二年の校舎の階段を降りていた。…ら、手に持っていた紙袋の底が重みで抜けた。


「げっ」


紙袋には若利から預かったプリントの残りが入っていて、ばらばらと音を立てながら階段下に盛大に散らばった。俺は一瞬天を仰いだ。ちくしょう面倒くせえ。白布が教室から戻ってくるまでに拾わなくては格好悪くてたまらない。
溜息をつき、重い足取りで階段を降りて一枚一枚プリントを拾った。

…と、突然目の前に白い手が伸びてきた。

その手は落ちたプリントを拾い上げ、また別のプリントを拾っている。誰かが手伝ってくれているのだと気付くのに数秒かかった。


「あ、すんません…」


顔を上げると、なんだか見覚えのある女の子が居た。誰だっけ。


「…あ。白布のクラスの」
「え…あ、あー…お昼の…」


思い出した。昼休みに俺が席を陣取っていた女の子だ。相手も俺をなんとなく覚えていたようで、また互いにへこへこ頭を下げながらプリントを拾った。他学年の女子に、一日に二度も迷惑かけることになるなんて格好悪い。


「悪い、時間とか大丈夫?」
「大丈夫です帰るとこだったんで…った」
「ん?」


何か変な声がした。その子を見ると、自分の手のひらを…いや指を見ているようだ。まずい怪我させたかも。


「どした、指切った?」
「……みたいです…」
「うっわマジごめん!絆創膏ある?」
「無いです、けど大丈夫ですよ」
「いや…待って俺あるかも」


確か前に天童がデパートの抽選でテカチュウグッズ詰め合わせを当てて、「俺こんなの使わないわ」と無理やり貰ったものがある。俺だって使わねえよと思ったが、貰っておいて良かった。テカチュウの柄が入ってるけどこの際仕方が無い。
鞄の内ポケットに突っ込んでいたそれを取り出すと、彼女は受け取る前に吹き出した。


「ふふっ、テカチュウだ」
「お…俺が買ったんじゃないからな?それやるから使って」
「ありがとうございます」
「いやいや。ごめんな…昼から色々と」
「いえいえ」


いえいえ、とは言うが勝手に知らない上級生が椅子に座ってるわプリント拾うのを手伝わされるわそのせいで指を切るわで散々だろう。紙で指を切るのはもの凄く痛いし。
女の子が絆創膏を巻いている間に全てを拾い終えたので改めて礼を言って立ち上がると、背後から嫌な声がした。


「何してんすか?」


白布賢二郎だ。もう忘れ物を取ってきたらしい。こいつが怪訝な顔をしているのは俺のそばに底の破れた紙袋がある事のほかに、自分のクラスの女子が俺と一緒に居る事が原因かと思われる。しかもテカチュウの絆創膏をして。


「袋が破けてさ…そしたら拾うの手伝ってくれたんだよ。ありがとな」
「あ、ダイジョブです。じゃあ…」
「そうなんだ。ごめん、また明日」


白布がその子に声をかけ、女の子もまたねと手を振った。
それから俺にも手を振ろうとしたようだが慌ててその手を下げ、ぺこりとお辞儀をされた。頭を下げなきゃならないのは俺のほうだ。でもあまり馴れ馴れしくするのも変だし白布に変な目で見られるのも嫌だから、俺も挨拶を返した。


「気をつけて帰れな」


と、少し先輩らしい一言も付け加えて。
するともう一度彼女は会釈して、今度こそ下駄箱のほうへと歩いていった。


「…あ、名前聞き忘れた」
「名前要ります?もう会わないでしょう」
「冷めすぎだろ」


そりゃあ広い校舎の中でまた偶然会う確率は低いだろうけど、小さいながらも女の子に怪我をさせてしまったのは結構やばいなと感じている。もし今後会った時にちょっとくらい声掛けしてやるのが先輩としての正しい対応なんじゃないかと思うし。


「苗字さんですよ。俺もあんまり喋ったことないですけど」


最終的に、歩きながら白布が教えてくれた。
苗字さんね、と心の中で繰り返したがすぐに部室に着いてしまったので、名前のメモなどはせずに着替えて部活に行った。

体育館に入ればもう頭の中はバレーボール一色となり、今日は特に新しく入った一年の名前を覚えるのに一苦労。だから一度聞いただけの白布のクラスの子の名前なんか、部活を終えればすっかり頭から消えてしまっていた。

20170407/リサコ