たまゆらの逢瀬

あれから雨の日が続いていて、じっとりとした空気がそこらじゅうにのしかかって体が重い。これが秋の長雨のいうやつなのか。おかげさまでロードワークには出られず名前さんに会えない日が続き、賢二郎と毎日毎日自主練を続けることの繰り返しだ。
どうせ走れないのだから借りた傘を返しにいけばいいと思われるかもしれない。折角連絡先を手に入れたのに、これでは宝の持ち腐れだ。いや、でも考えてみてはくれないか。雨の日に傘を返すなんて名前さんの荷物になってしまうし、家まで一緒に歩いて帰って渡すのも傘を差した者同士距離が離れてしまう。かといって俺自身が一人で名前さん家に押しかけて届けるのも名前さんは絶対許してくれないだろうし。二口との仲が気になるところではあるが、それが恋のスパイスになりやしないかと必死に良い方へ考える。
退屈な現国の授業中に頬杖をつき欠伸を噛み締めながら、しとしとと校庭を濡らす絹糸のような雨を眺める。灰色の雲が広がっている中、向こうの方がわずかに明るくなっていて、もしかしたら放課後にはやむのかもしれないと期待を抱いて堪えきれなかった欠伸をするために口もとを手で覆った。
名前さんに会いたい。俺には名前さんが足りていない。だからこんなに眠たいんだ。充電が必要だ。顔を見れば会えなかった分、色んな気持ちが口をついて溢れ出そうだ。
目を閉じると名前さんの訝しげな顔が浮かんでくる。早く罵ってくれないかな。いやいや待て。俺はいつからマゾになったんだ。
緩む口元を隠し忘れた俺を見た教師が意地悪げに口角を上げ、俺の名前を呼んだのは言うまでもない。笑い声がくすくすと教室のあちこちで沸き起こった。





案の定部活が始まる前には雨が上がり、雲の切れ間から少しだけ西日が差し込んだ。今日はもう雨は降らないのだろうかと天気予報のアプリを開いてみれば夜にかけての降水確率は30%を下回っていた。ポチの散歩の時間までに部活が終わって、尚且つ雨が降っていなければ今日傘を返そうとトークアプリを起動させる。
連絡先を教えてもらっても、やり取りした形跡はあまり残っていない。交換した当日、『川西です』と送信した後は可愛らしい猫が親指を立てたスタンプが送られてきたのみで、トークは続かなかった。そして三日前。


『雨続いてますね』
『そうだね』
『名前さんに会えなくてつらい日が続いてます』
『残念だね』


少しだけトークが続いて、ちょっぴり浮かれてしまったのも束の間。残念って、名前さんも俺に会えなくて寂しいってことなのか、と自問自答しているところに間を空けず、舌を出してあっかんべーをしているスタンプが送られてきて、頭を枕に埋めて「くっそー」と吐き出した。
それからやるせない悔しい気持ちをむにゃむにゃ枕に呟いているとそのまま寝てしまったようで、そこでトークが終わってしまっていたのだ。


『いつもの時間に雨が降ってなければ今日傘を持って行きます』


そう送ってから部室へ向かい、着替えてから再びアプリを起動させるが既読の文字はついていない。まあそんなに時間が経っていないし仕方ないか、と残念な気持ちを溜息にかえて吐き出し、スマホをロッカーに入れて練習に合流した。


「一旦休憩挟んでから大学生に入ってもらうぞ」


前半の練習が終わる笛が鳴らされた直後にコーチの声が体育館に響き渡る。首すじを流れる汗を拭いながら早足で部室へ向かう。途中、天童さんが愉快そうにスキップをしながら寄ってきたが、その辺で休憩していた五色を生け贄として差し出し体育館を後にした。背中に二人の声が突き刺さるが全く気にならない。
きっと返事はきているだろう。あれから優に一時間は経っている。
そう思ってスマホを覗きこんだが既読にすらなっておらず、胸がざわざわと騒ぎ出した。おかしい。名前さんは帰宅部のはずだ。バイトも今はしていないと言っていた。なのに放課後、華の女子高生がスマホを全く見ないなんてこと、あり得るのだろうか。
片手に持ったスクイズボトルに口をつけながらスマホを投げ入れ部室を出た。足取りはあまり軽くはない。もしかして二口と一緒にいるんじゃ、とか、誰かに攫われたのでは、とか、事故にあってないか、とか考えると気が気じゃなかった。
体育館に戻るとすでに大学生がアップを始めていて、ちょうど牛島さんが向こうの主将と思われる人と話をしているところだった。休憩時間も残りわずかだ。


「どこ行ってたんだ?」
「いや、ちょっと部室に忘れ物取りに?」


空になったスクイズボトルを一年に渡していると同じくボトルを手渡しに来た賢二郎に胡散臭いものを見るような目を向けられる。異性の気持ちには鈍いが、俺の嘘は簡単に見破るこいつの事。忘れ物なんてないこと分かっているに違いない。


「まあいいけど集中しろよ」
「わかってる」


分かってるさ。練習だって気は抜かない。そうやって勝ち取ったレギュラーの座だ。これでもオンオフはきっちり切り替えの出来るタイプなんだ。
そう、だから、たった一瞬。あと一点取りゃあこの練習試合も終わりだと思ったその瞬間にほんのわずか手を抜いてしまったのは決して名前さんのせいではない。優位に試合が進んで、確実にブロックできると思ったときの俺の悪い癖だった。


「太一ぃっ!!手抜くなっつってんだろぉが!」


監督の怒号が飛んできたとき思わず肩がすくんでしまった。賢二郎は言わんこっちゃないといった風に目を細めて俺を見てるし、天童さんは「まあ人間だもんね」と慰めのつもりなのか俺にしか聞こえない声でボソリと呟いた。


「いいって言うまで外周走って来い!」
「はい……」


言い訳はするまい。ただ、もう少しで練習が終わるというときにこれだから残る体力は正直言うとかなり少ない。走り終えて名前さんの元へ駆けつける頃には産まれたての仔鹿みたいに足がガクガクしているかもしれない。参ったな、自業自得なんだけども。
どう体力配分するか、そんなことを考えながら外に出れば雨上がりの土の匂いがする。ひんやりとした澄んだ空気を吸い込んで、早く名前さんに温かなレモンティーを渡したいと思った。





汗だくになった体をシャワーで洗い流した後スマホを見れば、やっと名前さんからの返信が届いており急いでタップすると『分かった』と簡素なメッセージが画面に表示された。
俺も『今から寮出ます』と要件だけ送信し、いつものロードワーク用の服に着替えて部屋を出ると、シャワーで濡れた髪を適当に拭いている賢二郎が前方から歩いてくる。俺と目が合うとまた怪しげなものを見るような目つきをし、歩を緩め、しまいには目の前で立ち止まった。


「なんだその格好。今日はもう走るのはこりごりだって喚いてなかったか?」
「走らないよ。これ、返しにいくだけ」


柄に書かれた名前さんの名前を見せながら軽く傘を持ち上げると賢二郎はわざとらしく息を吐いて心底理解出来ないといった表情をした。


「なんでわざわざジャージで行くんだよ、私服で行きゃいいだろ」
「だって一張羅はデートに取っておくもんだろ?」


そりゃ俺だって名前さんと同じようにデニムとTシャツ、シンプルな服装でもいいかなって考えたさ。いつもと違う俺にドキッとしてもらいたいと思ったさ。でもそれはここぞというときでいい。今はそのときじゃない。
少し口角を上げて賢二郎の肩にポンと手を置くと、一瞬だけ目を丸くして感心したように口を開いた。


「俺、お前のそういう策士なところ、見習いたいときがある」
「えっ、そりゃどうも」


全くの予想外の言葉に真意をはかりかねる。嫌味とかじゃないよな。考えるために動きを止めてると手を振り払われ「名前さん待たせちゃ悪いだろ」と声をかけられハッと意識を取り戻す。ひらひらと手を振る後ろ姿に内心苦笑しながら、賢二郎がさらりと名前さんの名前を呼んだことを思い出し、思わず眉をひそめてしまった。
会ってからまず何の話をしようか。会えない間何してた?二口と進展した?なんで今日なかなか既読がつかなかった?
聞きたいことを思い浮かべては、これじゃあただの鬱陶しい男だとうーんと唸り声を上げる。
考えあぐねていると前にお茶を買った自販機を通り過ぎようとしたので、おっとっとと三歩引き返し、慌てて名前さんが好きだと言っていたレモンティーのボタンを押す。それを冷めないようにポケットに突っ込んで再び歩き出す。
あそこの角を曲がれば大抵の確率で二つのお尻が見えてくる。今日は三つではありませんように、と願いながら進むが、曲がったところでいつもと違う状況に素っ頓狂な声をあげてしまった。


「うおっ!?」
「あっ、ごめんなさい」


角を曲がったすぐそこに人がしゃがみ込んでいて危うく蹴飛ばしそうになったのだ。すんでのところでそれを避け、飛び上がった心臓を片手で押さえながらそちらを見ると、足元にポチのリードを絡ませた名前さんがアスファルトの上にへたり込んでいた。


「どうしたんですか!?」
「誰かと思えば川西くんじゃん」


どうしてこんなことになったんだ?焦る俺を余所に、名前さんは現れたのが俺だと分かると安心したようにへらりと笑い、汚れた脛をポンポンと払って絡まったリードを解いていく。そんな警戒心を解いたような笑顔を向けられ、どぎまぎして一瞬言葉を見失う。こんな状況じゃなきゃ素直に嬉しいと思うのに、今日メッセージになかなか既読がつかなかったこともあり、変に想像力が働き物事を悪い方向へと考えてしまって名前さんの華奢な二の腕を力一杯掴んでしまった。


「誰にされたんですか?」


名前さんと同じ目線までしゃがみ込み必死の形相をしている俺を見て、彼女は驚いたように目をまんまると見開くと俺の目から視線を外さず自分の足元を指差した。
そちらを見遣ると舌を出し、ハッハッと短い息を吐きながら尻尾をぶん回すポチの姿があって頭の中をクエスチョンマークが占めていく。


「どういうことですか?」


訳が分からず首を傾げると名前さんはぶっと噴き出して豪快に笑い出した。なんとなく自分が何か勘違いしていると自覚し、掴んだ腕の力を緩めていくと、逆に腕を掴まれ「よっ、と」と可愛らしい掛け声を上げ立ち上がった名前さんに引き上げられる。


「川西くんったら早とちりしちゃって」


悪戯っぽい笑みでこちらを見るばかりで理由を説明してくれない名前さんに少しムッとして口を一文字に引き結ぶと、彼女は「ごめんごめん」と言いながら子どもをあやすように俺の背中をポンポンと叩いた。


「さっきこの子のお気に入りのワンちゃんが通りかかったから興奮しちゃってぐるぐる飛び回ってたんだよ」


「それでリードが絡まってこけちゃったわけ」とポチを抱き上げ優しい表情で撫で回す名前さんを見て、膝から力が抜けていく。


「何だよ、それ……」


早とちりしてかっこ悪い。頭を抱え再びしゃがみ込んだ俺に、今度は名前さんが視線を合わすようにしゃがみ込んで挑戦的な顔で笑いかける。


「心配した?」
「……心配しました」


俺ばかりこんな想いにさせられ、悔しくなって腕を引っ張り彼女のバランスを崩す。「わっ」と声を上げた彼女はポチごと簡単に俺の胸の中に収まってすかさず抗議の声を上げた。


「ちょ、離して」
「今のは名前さんが悪いと思いませんか?」


今までで一番距離が近い。彼女のぬくもり、彼女の匂い。このまま欲に任せて首すじに顔を埋めてやろうかと思ったところに苦しくなったのかポチが暴れ出し、体を離すことになってしまった。俺のことが好きなんじゃなかったのか、この野郎め。


「それは……ごめんって」


バツが悪そうに顔を背ける名前さんのちらりと見える耳たぶがリンゴみたいに真っ赤で思わずほくそ笑む。そして、たたみかけるようにレモンティーを手渡そうと再び彼女の手を取ったところに白い肌に映える赤い跡を発見し、段々と血の気が引いていった。


「もしかして怪我しました?」


自分の持っていたスポーツタオルでそこを拭うがなかなか取れない。傷口をもっと良く確認しようと顔を近づけるが、顔を真っ赤にして困った表情を見せる名前さんに「待って」と腕を引っ込められると、湧き上がる場違いな己の欲をぐっと喉の奥に飲み込むしかなかった。


「これ、ペンキだよ」
「ペンキ?」
「週末、学祭だからその準備で汚れちゃったみたい」


普段勉強のこととなるとうまく頭は回らないのに、こんなときだけ素早く回転するのは何故なんだろう。名前さんが関わることだからなのだろうか。点と点が線で結ばれていく。


「だからなかなか既読がつかなかったんですね」


あまり大きな声を出したつもりはないのに名前さんにはしっかり届いていたようで、きょとんとした顔をしたあと軽く頷いて口を開いた。


「ごめん、確かに返事遅かったかも。準備中はほぼスマホ見てなかったから」


何もかも合点がいって自然と大きく溜息が出た。気になっていたことが解決したことで段々と思考がクリアになってくる。そして今、とても大事なことを聞いたような気がするぞ。


「学祭?」
「そう、学祭」
「今週末?」
「うん」
「それって他校の生徒も入れます?」


食い気味に質問する俺に名前さんは可笑しそうに笑い出した。ころころ変わる表情に合わせて自分の鼓動も自然と早まっていた。


「入れるよ。川西くんも友だちとおいでよ」
「絶対に行きます!」


鼻息荒く声を上げた俺にポチがワンと返事をして飛びついてくる。名前さんはじゃれ合う俺たちを、子どもを見守るような目で見つめ、思い出したように「そうだそうだ」と紙袋からタッパーを取り出した。


「お茶のお礼。前に差し入れおにぎりがいいって言ってたでしょう?こけちゃったから少し潰れてるかもしれないけど」


あまりのことに表情筋が動かない。無表情のままタッパーに手を添える俺に彼女は勘違いしたのか「ロードワークの邪魔だったら受け取らなくていいから」とあたふた手を引っ込めようとする。


「違います。嬉しすぎて混乱してるんです」


タッパーを紙袋に戻そうとするのをぐっと力を込めて引っ張り返す。


「いいよ、無理しなくて」
「だから違います、嬉しいんです」


なんて意地っ張りなんだ。そういうところも好きなんだけど、これでは綱引き状態だ。


「俺も差し入れ買ったんです。今日は雨上がりで冷えるから」


空いた手でポケットからレモンティーを取り出すと頑なだった名前さんの腕から力が抜けていく。ここぞとばかりタッパーを俺の腕におさめて、レモンティーと交換すると彼女は「ありがとう」とボソリと呟いた。


「こちらこそありがとうございます。あとこれも」
「はーい」


そう言って傘も手渡す。両手がレモンティー、傘、ポチのリードと手一杯になってしまった名前さんは動きやすいように手元を整理し始めた。うつむき加減で表情はあまりよく分からないが最初のような刺々しさはもうすっかりなくなっていた。だからちょっとからかいたくなってしまう。


「傘の柄に名前書くってかわいいですね」
「なっ、やっぱり川西くんわたしのことバカにしてるでしょ」


そう言って再び顔を赤くして立ち上がり、リードを引っ張って俺に背中を向けてしまった。本当はもっと一緒にいたいし、もっと話がしたい。でも今日は俺も疲れたし、名前さんも学祭の準備で疲れているはずだ。今日はこの辺りで切り上げるのがベストだろうと思う。


「じゃあ名前さん、また週末学祭で」


少しずつ遠くなる彼女の背中に声をかけると、少しだけ振り返り眉尻を下げて寂しげな顔をした。それは夕暮れ時の相乗効果を俺が勝手に上乗せした都合のいい解釈なのかもしれないけれど。


「またね、川西くん」





「というわけで、賢二郎くんお願い出来るかな」


俺はこいつが以前に「協力する」と言ったことをしっかりと覚えていた。
晩飯を食べるためにやってきた食堂のテーブルに名前さんからもらったおにぎりの入ったタッパーを置いてへらへら笑う俺を見て先輩たちはもちろん後輩さえも寄りつかない。
そりゃそうだろう。食べるべきか、それともこのまま冷凍保存するべきか、ずっとぶつぶつ呟きながら悩んでいるのだ。走りすぎて頭がおかしくなっていると思われているのかもしれない。
それでも目の前に座ってくれている賢二郎は実はとても心の優しい男なのかも。そう思って伊達工の学祭の話をしたものの返事はまだない。それどころかしかめっ面で般若のような顔をしている。


「賢二郎?おーい、賢二郎?」


目の前で手を振ると、鬱陶しそうに振り払われて「ちょっと待ってろ」と言って席を立った。そしてそのまま三年生の輪の中に入っていく。それから同じポジションである瀬見さんに話しかけたかと思うと顎をクイっと動かし、そんな賢二郎の後を瀬見さんは「かぁいくねぇ」と言いながら律儀についてきていた。


「瀬見さん週末暇ですよね?」


二人が目の前に座り、賢二郎が唐突に喋り出した。俺は賢二郎の意図が読めずに口を半開きにして瀬見さんの方へ視線を向けた。


「勝手に決めつけるなよ、暇だけど!」


瀬見さんが返事をすると、賢二郎が珍しく口角を上げドカリと背もたれに体重を預けて腕組みをした。


「三人で伊達工に行くぞ」
「はぁ?」
「瀬見さん、忘れたんですか?俺たち太一に恩があるでしょう?」


瀬見さんは状況をよく飲み込めていないが、俺に恩があるとは思ってくれているらしい。曖昧に頷いていて、そんな瀬見さんに賢二郎は順を追って俺の恋を説明してくれている。
最初は「工業高校の学祭に興味はねえよ」と言っていた瀬見さんも全てを理解し終えた頃には「川西のためにひと肌脱ぐからな」と拳を片手に意気込んでいた。
賢二郎が二口に会ったとき変に煽りやしないか少しだけ心配だったが、瀬見さんがいてくれれば安心だ。
「ありがとうございます」と二人に丁寧に頭を下げたあと、二つあるうちのおにぎりの一つを口いっぱいに頬張った。幸せな味だなぁとまたニヤける俺を、二人は頬杖をついて苦笑しながら見つめていた。


20180413/ララ