「伊達工業って覚えてる?」
そう聞いた時の賢二郎の顔と言ったら、青汁の一気飲みを強要されたかのような歪みっぷりだった。こいつが伊達工の事を間違いなく覚えている証拠である。
「…覚えてるけど。残念ながら」
「なんで残念?」
「思い出したくないから。」
去年うちと伊達工が当たった試合、白鳥沢は勝利を修めたものの彼らの鉄壁には辛い思いをさせられた。ま、去年は俺も賢二郎もその試合には出ていなかったが。
しかし二口堅治は違った。去年の秋にはスターティングメンバーとして出場し、圧倒的な存在感で鉄壁っぷりを見せつけてくれたのだ。しかもしっかり自ら点を決める、めちゃくちゃ器用なやつだった。
ちなみに俺は去年の試合内容を事細かに覚えているわけではない。名前さん(と、二口)と別れて学校に戻ったあと、すぐにコーチへ声をかけて去年の春高予選のスコア表を見せてもらったのだ。「熱心だな」と感心されて心苦しかったけど、仕方ない。俺は負けるのが嫌いなのだ。試合もそれ以外の事も。
「名前さん、伊達工の生徒だった」
俺が「名前さん」と言ったのを聞いて賢二郎は首を傾げたが、「ああ太一がケツ追いかけてる人ね」と思い出してくれた。合っているけどもう少し違う覚え方をしてくれまいか。
「それだけなら良いんだけど…二口堅治と知り合いだったんだよね」
「誰それ」
「ほらバレー部の。俺らと同い年」
「……同い年…?」
「鉄壁の腹立つほう」
「あ、思い出した」
賢二郎の、二口堅治に対しての覚え方は的確だった。2階席から観ていた去年の試合でも「アイツらやべえ」と鉄壁コンビに悪態を、いや尊敬の眼差しを向けていたから記憶に残っていたようだ。
「で、二口と知り合いで何か問題でもあんの?」
「ありありですよ。そこそこ背ぇ高くてバレー部だし俺とキャラ被ってんじゃん」
「そうか?」
「おまけに女性の好みも被ってる」
「つまり?」
頭のいい賢二郎の事だから、もう俺が何を言いたいのかは分かっているだろう。俺のほうは見向きもせずにガムの包装を破って噛み始めた。
「二口も名前さんを狙ってるんだよ」
俺はその許し難い事実を口にした。二口堅治は名前さんと同じ学校だ。俺よりも名前さんと接する機会が多いだろうし、他校の俺がライバルだと知られてしまった今、常にチャンスを伺っているに違いない。ちくしょう明日も平日だ。二口と名前さんが学校で出くわしてしまうかも。
「あいつ、ああいう人が好みなんだ」
「みたいだな…悔しいことにそれを咎めるわけにはいかないんだけど…名前さんの魅力が万人に通用するっていう証拠だから」
「お、おう」
しかし譲るわけにはいかない。負けるわけにはいかないのだ。なんたって俺は負けるのが嫌いだ、試合においても恋愛においても。同学年の同じ部活のやつには絶対に負けたくない。
「悪いけど賢二郎、明日も練習付き合ってやれないわ」
「はいはい」
呆れたように言うと、賢二郎は「そろそろ寝る」と腰を上げた。時計を見ると23時を過ぎていたので、もうこんな時間だったのかと慌てて俺も立ち上がる。明日も朝から練習だ。
賢二郎の部屋からお暇し、すぐ隣の自分の部屋に入りながら考えたのは名前さんとポチのお尻であつた。
散歩をしながら軽やかに揺れる小さくて引き締まったお尻、それはパンツスタイルならではの眺めだが、別の眺めを堪能している奴らがいる。伊達工の男子生徒どもめ、名前さんのスカートから覗く美しい脚をいやらしい目で見ているに決まっている。その筆頭の二口堅治、断じて許すまじ。
◇
白鳥沢に通う俺が名前さんと会えるのは放課後、彼女がポチの散歩をしている時だけだ。その時間を狙ってロードワークに出て、「また会いましたね」と偶然を装って隣を歩くしかない。既に名前さんは、俺が「偶然」通りかかっているなんて思っていないだろうけど。
しかし今日も天童さんに貰ったプレーヤーを聴きながら走ろうかと体育館を出たところで、思わず足を止めた。
「げ、雨だ」
別の誰かが俺の気持ちを代弁し、どこかに歩いていった。悲しいことに雨が降っている。今日は雨予報だったっけ?これでは外を走るわけにいかない。常日頃から汗を拭け、身体を冷やすな、風邪を引くなと言われているのだ。
けれどもし、今この瞬間も名前さんの隣を二口堅治が歩いていたら?ふたりが仲睦まじくポチの散歩をしていたら?ポチが俺よりも二口に懐いてしまったら?そんなの考えただけで耐えられない。名前さんもポチも俺のもんだ。
と、いうわけで俺は今日もスニーカーにはきかえて外へと繰り出した。ただし雨の中走るのは控えておいて、しっかりと傘をさして名前さんたちの散歩コースへと歩いていく。つまりただの散歩だ。賢二郎との自主練習を断って散歩をしているなんてひどい男だと思われるだろうか?
けど、散歩だって立派な体力作りのひとつだよな。俺にはちょっと負荷が軽いけれども。それもこれも雨のせいだ。
防水の腕時計に目をやると、ちょうどいつも名前さんと出会う時間帯になっていた。場所もだいたいこのあたり。
雨のおかげでポチの鳴き声は聞こえてこない。もしかして天気が悪いから散歩はお休みしているのかも?せっかくここまで歩いて来たので、どうかそれだけは無いと願いたい。
そう祈りながら角を曲がりかけた時、俺はまたまた足を止めた。曲がった先にお目当てのお尻をふたつ発見したのだ。そう、みっつではなくてお尻はふたつ。二口堅治は一緒ではない!
追いかけて声をかけようと足を踏み出したけれども、ただ話し掛けて一緒に歩くだけではいつもと同じだ。名前さんとの距離を詰める何かが必要である。今は雨、あまり名前さんを引き留めることもしたくない。けれども一緒に歩きたい。できるだけ長く、できるだけ近くを。
「名前さん」
「うわっ!?」
俺の声で名前さんは腰を抜かしそうになっていた。何故そこまで驚かれてしまったのかというと、俺が突然背後から声をかけたからだろう。しかも名前さんの持っている傘を奪いながら。
「か…川西くん?びっくりした」
「すみません」
「いきなりどうしたの、傘返してよ」
「いや、それが…」
この傘を返すわけにはいかない理由がいくつかある。俺は今、自分の傘を閉じているのだ。名前さんから奪った傘で無理やり相合傘をしている状態。どうやってアプローチするかを考えに考えた結果、このような行動に至ってしまった。
「俺の傘、壊れちゃって……」
苦しい言い逃れであることは承知の上だ。名前さんは訝しげに俺の閉じられた傘へと視線を落とす。壊れているかどうかは開いてみないと分からない。骨の1本も折れていない綺麗な傘を「開け」と言われたら終わりだが、そこまで考えてなかったな。どうしよう。
「…壊れたの?」
「はい。たった今」
「………」
「失礼な。ほんとです」
「まだ何も言ってないけど」
「まあそういうわけなんで、相合傘で歩くしかないですね」
「ちょっと…!?」
まだ何か言いたそうな名前さんだったけど、俺が歩き出すと同時に歩幅を合わせて歩き始めた。そうしなければ傘から出てしまうからだ。
俺が傘をさして歩いていればぴったりくっついて居られるし、名前さんの行動を支配できる。一石二鳥とはまさにこのこと。
「ポチ、寒くない?」
俺は足元を歩くポチに声をかけてみた。ポチはワン!と一鳴きして答えてくれたので、どうやら元気なようだ。
ペット用のカッパをしているから暖かそうだが、ポチが身につけているカエル柄のそれは名前さんのチョイスだろうか。めちゃくちゃダサいな。
「カッパのセンス絶妙っすね」
「やっぱり馬鹿にしてるよね?」
「まさか」
ネーミングセンスといいペットの服のセンスといい、俺の心をくすぐって仕方ない。このカッパをペットショップで必死に選んでいる名前さんを想像すると、自然と口元が緩んでしまう。「これ可愛い、これにしよう」って思いながら選んだのかな。なぜ店員さんは「それはちょっと…」と止めてやらなかったんだ。俺なら止めてあげたのに。
「川西くんて、雨なのに走ってるの?」
にやけていた唇をかたく結び直した時、名前さんが言った。
まだ俺への疑いの眼差しは解かれていない。やはり雨の中ロードワークをするなんてちょっぴり怪しいよな。でもロードワーク中に偶然出会った設定だから、肯定することにした。
「はい」
「傘持って走るのっておかしくない?」
しかし瞬時にして矛盾点を突かれてしまった、意外に鋭い人だ。
「…いいえ?流行ってますよ最近」
「嘘つきは嫌いだよ」
「すんません」
さすがに苦しい嘘だった。俺が素直に謝ると名前さんは大きなため息をついてしまった、また「付きまとわれている」と思われてしまったか。いや、間違いなく付きまとっているんだけれども。
…「付きまとう」という単語で思い出した。もうひとり名前さんに付きまとう別の男が居ることを。
「今日は二口と一緒じゃないんですね」
「うん。昨日はこのへんに用があったらしいよ」
「へえ…」
二口の用事は果たして本当の用事だったのか、名前さんに会うための口実だったのか。とても気になるけれど彼女に聞いても分かるはず無いか。
「二口くんと仲良いの?」
考え事をする俺を見て、名前さんが不思議そうに言った。
「良さそうに見えました?」
「あははっ、ぜーんぜん」
名前さんは面白そうに笑って見せた。普段の表情が少々きついおかげで、時折見せるこの笑顔が何倍も可愛らしく見えてしまう。
「……やっぱり羨ましいです」
「何が?」
「伊達工の人」
同じ学校に通っていれば、この人の笑顔をもっとたくさん見る事が出来るのだろう。俺の知らない授業中の様子や体操服姿、水着姿だって見ているかもしれない。考えれば考えるほど嫉妬の炎が燃え上がる。同時に焦りも生まれてくる。
そんな俺の心の内を知らない名前さんは、明るい声で話し始めた。
「白鳥沢って大きな学校でしょ?可愛い子は沢山居るんじゃないの?」
「居ますよ」
「なんだ、やっぱり居るんじゃん」
「可愛いだけじゃ意味ないんで」
マンモス校である白鳥沢には確かにたくさんの女子がいる。可愛い子も綺麗な子も、失礼ながら普通の子も。けれどいくら容姿が整っていたって俺好みでなければ意味が無い。それに初めはただ「きれいだな」と思っていた名前さんには容姿以外の魅力も溢れている事を知ったのだ、こんな完璧な女性に適う子なんてうちの学校には居ない。
…と言う気持ちを込めて凝視すると、名前さんは目を丸くした。
「変な子だねえ、川西くん」
かと思えばこんなふうに笑うので、笑顔を見せられるたびに俺の心が宙に浮いてしまうのだ。やはりこんなに俺を虜にする人は彼女以外に存在しない。どうにかして連絡先を聞き出したい。
「……あの、名前さ…」
「つめたっ」
俺の声を遮って名前さんの悲鳴があがった。その声に驚いて隣を見ると、左肩が傘からはみ出ているではないか。名前さんが濡れないように気を付けていたのに、気付かぬうちに傘を自分の方へ寄せていたらしい。
「あ、すみません俺いつの間にか…」
「いいのいいの。そろそろ帰ろうかな、ねえポチ帰ろうか?」
名前さんが声をかけるとポチは元気に一声鳴いた。
カッパを着ているとはいえ靴をはいているわけじゃないし、足元が悪いから長く歩くのは大変だろう。もう少し一緒に歩いていたかったけどポチに無理して付き合わせるのも悪いので、今日は大人しく引いておくか。
「……じゃあ俺はこれで…」
「え、付いてきなよ。家すぐそこだし」
「えっ!?」
思わず傘を持つ手がぶれて、また名前さんを濡らしてしまうところだった。付いてきなよってのは、家まで付いてこいって事で間違いないよな?
「い…家行っていいんですか」
「だって傘、壊れてるんだよね?」
「あ」
そう言えばそうだった、無理やり相合傘をするために、俺の傘は壊れているという設定にしたのだ。さきほど名前さんは「嘘つきは嫌い」と言っていた。嫌われるのは勘弁なので、この設定を崩すわけにいかない。
「………壊れてます」
「でしょ。家まで付いておいでよ、そしたらこの傘貸してあげるから」
なんと親切なことに傘を貸してくれると言う。このまま家までついて行ってもいいだなんてラッキーだと思ったけれど罪悪感だ。俺の持ってきた傘は壊れてなんかいないのだから。
「…すみません」
「いいよ、これビニール傘だし」
そういう意味で謝ったわけじゃないのだが、本当のことを言えば嘘をついたのがバレてしまう。
罪悪感が更に大きくなってしまうのを抑えながら、名前さんの誘導のもと家までの道を並んで歩いた。ただしちゃっかりものの俺なので、道順を覚えることも忘れない。
「じゃあ家ここだから。これ使って」
「ありがとうございます…」
名前さんの家までは、彼女の言う通りに歩いて数分で到着した。
一般的な一軒家で門を入るとすぐに玄関があり、名前さんが鍵を開けるとポチが小走りで中へと入った。しかし自分が濡れたままなのをきちんと理解しているのか、玄関の中で尻尾を振りながら留まっている。このあいだは道端で名前さんを困らせていたくせに、きちんと躾られているようだ。
傘を受け取った俺はそのまま玄関を出て学校まで戻らなければならないが、どうしてもすぐに帰るのは惜しい。
「あの、名前さん」
「なに?」
「連絡先教えてください」
「え」
名前さんは拍子抜けした声を出した。俺は決してドッキリで言ったわけではない、大真面目だ。どうせ二口だって名前さんの連絡先を知っているに違いない。俺だって教えてもらわないとフェアじゃないよな、そうだろう。
「…連絡先?」
「傘返す時に必要ですよね」
「べつに、またそのへんで会った時に返してくれたらいいよ」
「でも傘を持って走るのはおかしくないですか?」
これはさっき名前さん本人が言った言葉だ。ここぞとばかり彼女の台詞をそのまま使って言わせてもらうと、名前さんは観念したように肩を落とした。
「………分かったよ。交換しよ」
「やった」
「その代わり、必要な時以外は連絡しないって約束してくれる?」
やはり一筋縄ではいかないのか。毎日メールしてやろうと思ったのに。それならばせめてライバルよりも一歩進んでやりたい。
「…二口とはどの程度連絡取り合ってるんですか」
「え?んー…どうだろ。二口くんにも頻繁に連絡してくるなって言ってあるし」
「………」
やっぱりだ。名前さんの連絡先を、二口堅治も知っている。思わず眉を寄せてしまいそうになったけど、二口も名前さんとはあまり連絡を取っていないようだ。俺には「傘を返す」という口実があるので近々メールをさせてもらおう。
「じゃあ傘返す時に連絡します」
「うん」
「俺は二十四時間受け付けてますんで」
「わたし別に用事ないから。」
予想通りのあっさりとした返答だ。まあそうだよな、と思いながら「ですよね」と答えると、名前さんはぷっと吹き出した。
「嘘だよ。気が向いたらしてあげるね」
そして、ぺしんと俺の腕を軽く叩いた。俺の頭がぐらりと揺れる。叩かれた反動なんかではない。名前さんのあでやかな笑い声に、気を許してくれたであろう笑顔に、心を打たれてしまったのだ。
「……ずるいっすね、ほんと」
「何が?…あ、嘘つき嫌いって言ったくせに自分は嘘つきやがってーって事?」
「違います…」
そういうところも全部ずるいな、けれどそれを自覚していないところがまた素敵。着実に俺に対しての警戒心が解かれている。これは自意識過剰ではないはずだ。
これ以上ここに居ては崩れゆく俺の表情をすべて見られてしまう。残念だけどこのあたりで帰らないと夕食に遅れてしまうし、賢二郎にもあのジットリした目で見られるに違いない。
「じゃあまた」と頭を下げて借りた傘を開くと、名前さんとポチが玄関を開けたまま見送ってくれた。
「気を付けてね。ほらポチ、バイバイは?」
名前さんの声でポチがワンワン、と鳴いてくれた。ポチって絶対俺のこと大好きだよな、それとも躾がしっかりしているのか。
もう一度名前さんとポチに手を振ると左手に自分の傘を下げ、右手に名前さんの傘を持ち、学校までの道を歩き出した。
この雨の中、顔をにやにやと緩ませながら傘を二本持って歩くなんておかしなやつだろう。曲がり角でぶつかりそうになったおばさんに気味悪がられてしまったから、しっかりと顔を引き締めなくては。
そう思って深呼吸したのに、ビニール傘の内側部分にマジックで「名前」の文字が書かれているのを発見して吹いてしまった。小学生かよ。ほんとにあの人、最高だ。
20171204/リサコ