運命は信じる質なので

つい先ほどまであたたかい夕日が差し込んでいた体育館は気付けば天井の蛍光灯のみで照らされていた。外は既に薄暗く、この時間はまだ明るいはずだったのにいつの間にか季節は巡り、残暑の厳しさももう感じない。眠る時に半袖で過ごすのも肌寒くなってきた、正真正銘の秋の訪れだ。

今年の春から夏にかけてはとても充実していたと思う。バレー部のスタメンに選ばれるわ、同級生と瀬見さんの恋路にこっそり手を貸すわ、おまけに賢二郎とのダブルデートで夏の海に行く事が出来るなんて。

俺もその時に一緒に行ったスズキナナちゃんと仲良くなったけど、どうも恋愛対象としては見られずに時々廊下で出くわしては「よっ」と声をかけ合う程度。きっと向こうも俺のことは何とも思っていないのだろう。賢二郎の彼女によるとスズキさんは、自身の兄の紹介でテニス部3年と意気投合しているようだ。


「さっびいぃ…」


汗を流した後はすぐに身体が冷えるようになった。賢二郎は今日はさっさと風呂に入って勉強するのだと言う、恐らく彼女と電話でもしながら数学を教えてやるんだろうけど。
あいにく俺は賢二郎を逃すと一緒に勉強してくれるような奴は居ない。だからって彼らの時間を邪魔するつもりも無いので一人で頑張るかなあ、と思っていた矢先に天童さんと出くわした。


「あ。太一、太一」
「はい」
「コレいる?」


差し出されたものは天童さんの大きな手のひらに納まるほどの音楽プレーヤー。俺が欲しかったやつの型落ちだ。


「新しいのが手に入ったから要らなくなっちゃって」
「え、いいんですかこんなの貰って」
「お前は俺の一番弟子だからぁ」


一番弟子だと言われた事は何とも思わないけれども音楽プレーヤーを貰えるなんて飛び上がるほど嬉しい。ずっと携帯電話で音楽を聞いていたけど電池の減りが早くて困っていたのだ。それをボヤいた記憶があるが、天童さんも俺の嘆きを聞いていたらしい。


「うわあ、超嬉しいっす」
「全然嬉しそうな顔じゃないけど大丈夫?」
「嬉しいですよ」
「そかそか!テンション爆上げの曲ばっかりだからね〜ロードワークのお供にどうぞ?」


はた、と動きが止まった。受け取ろうとした手を引っ込めるかどうかほんの一瞬迷ってしまったのだ。


「…ロードワーク。」
「最近サボってるだろ、知ってるよ」
「………」


バレてるのかよ、ちくしょうめ。
「やっぱり要らないです」と返そうとしたものの結局押し付けられてしまい、俺は欲しかった音楽プレーヤーを手に入れた。





真面目に体を動かす事は苦手である。幸い体格に恵まれており、自分でも分かるほどに勘が鋭いおかげでバレーボール部員としてやっていけているものの、天童さんや牛島さんのような化け物(一応これは褒め言葉)と一緒に居ると自分がただの人間である事を思い知らされるのだ。
その天童さん直々のお言葉と、譲り受けた音楽プレーヤーのおかげで、ついつい手抜きをしがちだったロードワークに出る事にした。

賢二郎が一緒に走る事もあったけど先述のとおり彼は忙しいので、道が分かる範囲で一人で走っていく。天童さんの曲のチョイスについてはノーコメントとするが、次はどんな曲が流れるのかなあと思える程度には楽しめた。
気温が涼しいおかげで身体への負担も少なく、もう少し走ってみようかと初めての路地を曲がった時にその人は居た。


「ほら帰るよ、はーやーくっ!」


犬の散歩中らしき女の人はリードを引っ張るものの、犬のほうは動く気配が無く地べたに尻をつけている。無理やり抱きかかえて帰るには少々重そうなくらいのその犬は飼い主の事なんか気にせずそっぽを向いていた。

一生懸命リードを引っ張り犬に声をかける女性を見て俺が感じたのは「犬の世話って大変そうだな」とか「将来ペットを飼うのはやめよう」とか、そういう事ではない。俺、この人のことを知っている。会った事がある。


「…あのう」


走っていた足を止めてイヤホンを外し、困り果てた女の人に声をかけた。
彼女は俺の顔を見上げると不審そうに眉を寄せて「なんですか?」と強気な返事。髪はさらさらのストレート、服装はいたってシンプルでスキニーデニムに白いティーシャツの上からパーカーを羽織っている。
すらりと伸びたその脚と、きれいな髪と、やや気の強そうな瞳に俺は確かに見覚えがあった。賢二郎たちと一緒に海に行った時、海の家でアルバイトをしていたお姉さんだ。


「…なんですか?」


その人はもう一度俺に向かって言うと、犬と俺との間に割り込んだ。飼い犬を護るためにそんな身体で俺の前に立つのかと思うと、俺の中に眠る男性的欲求がじわじわと目を覚まし始める。この人やっぱり魅力的だ。


「えっと…すみません。俺の事覚えてないですか」
「はい?」
「海の家で…」


あの海の家でもスキニーデニムをはいており、綺麗なお尻と脚に釘づけになった。学校では決して見る事の出来ない女子特有の身体のライン、てきぱきと仕事をこなす姿は真夏の太陽に負けないほどのインパクトだったので、鮮明に覚えている。


「確かに海の家ではバイトしてたけど」
「ですよね」
「あなたの事は全然覚えてない」
「…まじっすか」


俺はこんなにしっかりと覚えているというのに、やはり新しく出来た人気のお店だったから来店客も多かったのだろうか。俺はそのうちの一人に過ぎず、お姉さんの記憶からは綺麗さっぱり消えているらしい。悔しいけれど致し方ない。しかしせっかく出会えたこのチャンスを逃すわけには行かない。


「あの、お姉さんこの辺に住んでるんですか?」
「何でそんな事聞くんですか?」
「だって気になるから」


そのように言うと、お姉さんは更に眉間のしわを深くした。この辺に住んでいるのか、という質問に答えてくれないだけでなく、ものすごい敵意のこもった目で俺の事を睨んでいるではないか。


「…あのー…?」
「あのね、あなた明らかに怪しいから。もう暗いし、全身真っ黒で走ってるし大きいし、何か用?大声出しますよ」
「え、」


それは困る、大いに困る。俺は未来ある高校2年生だ。こんなところで警察沙汰は絶対に避けたい。それにやましい事があって声をかけている訳では無い。
…と思ったけれど、そういえばやましい事だらけなのだった。可愛い、綺麗だと思った人と偶然の再会を果たしたせいで冷静さを失っていた。

今の俺は彼女の言う通り全身真っ黒で身長もはるかに高いので、このような暗がりで突然声をかけてしまっては怪しまれても当然かも知れない。だからと言ってこの場を去るのは嫌だ、その前にどうにか俺が怪しい人間では無い事を証明したい。


「あ」


その時だった。地面にべったりと尻をつけて動かなかった彼女の犬が立ち上がり、俺の足元に寄ってきたのは。


「……ポチ!?」


俺も彼女もびっくりしたけど犬は大声で吠えたりせずに、俺の脚にすりすりと頬を寄せたりしている。くるくると俺の周りを歩き回るのでリードが絡まりそうになり、慌てて脚を引っこ抜いた。


「な、なんで?全然動かなかったじゃん!急にどうしたの」


ずっと座り込んでいた犬が突然俺に寄ってきた、というか懐いてきた事で彼女は驚いている様子だった。俺も驚いた。犬の名前が超ありきたりな「ポチ」である事に。


「名前、ポチって言うんですか」
「そうだけど何か」
「いや…」


眼力が凄い。これはネタで付けた名前ではなく、この人がしっかり考えてつけた名前なのだろう。褒めなくては。


「…いいネーミングセンスっすね」
「馬鹿にしてるよね?」


表情を隠すのは得意なはずなのに、ちょっとだけ馬鹿にしている事に気付かれてしまった。「してません」と首を振ると訝しげに俺を見ながらも、自身の飼い犬の様子を見下ろしている。未だに俺の足元にすり寄ってきているので、ちょっとカワイイと思えてきた。


「…ポチは俺の事が好きみたいです」
「そんな事ない」
「本当に覚えてませんか?」


あの海の家で、俺は二度この人に声をかけた。一度目は確か何も考えずに「可愛いですね」と言ってしまい、軽くあしらわれたんだっけ。二度目は俺が食べこぼしてしまったのを見て、片づけに来てくれたのだった。


「…んー…分かんない」
「男女2人ずつのグループで行ってたんですけど。で、俺がハンバーガーこぼしちゃって」
「あーあれ中身が多いからね。こぼす人多かったの」
「……。」


どうやら全く印象に残っていないようだ。過去の出会いから俺の存在を意識させるのはもう諦めた。ハンバーガーを食べこぼすなどと言う格好悪いところを忘れてくれているなら都合が良い、そう考える事にしよう。


「俺、川西太一って言います」
「……ふうん」
「お姉さんの名前も教えてください」
「え」


名乗れば相手も名乗ってくれるだろうと思い聞いてみると、お姉さんは顔を引きつらせた。


「…何で?」
「海の時から思ってたんで、すげえ可愛いなって。大学生ですか?大人っぽいですよね」
「ち、ちょっと…」


しー、と彼女は人差し指を口元にあてる。俺は大声で喋っているわけでは無いのにどうしてだろう、お姉さんの事を褒めているだけなんだけど。いきなりで引かれてしまっただろうか?
しかし、お姉さんはやがて観念したように肩を落とした。


「…大学生じゃないよ。高3」


高校3年生。思ったよりも歳が近くてどくりとした。この人、俺と1歳しか違わないのか。1年早く産まれただけなのに、俺の知る女子の誰よりも大人っぽくてスタイルが良くて綺麗で可愛い。それなのに飼い犬のネーミングセンスはダサイだなんてギャップが最高だ。


「俺の一個上っすね。お名前は?」
「えー…」


必ず名前を聞いて帰る、そうしなきゃここから一歩も動きたくない。じっとお姉さんを見下ろしていると視線を泳がせていたけれど、突然ポチがきゃんきゃんと足元で鳴き始めた。


「…ポチも名乗れって言ってます」
「言ってないよ!」
「言ってます。俺の名前だけバラしやがって、って怒ってますよポチは」


なあポチ、お前だけポチという名前を勝手にバラされて理不尽だと思うよな。心で語りかけるとポチは大人しくなり、かすかに頷いたように見えた。やべえ、俺って動物と会話できんの?


「…苗字名前。」


お姉さんはため息とともにやっと名前を教えてくれた。苗字名前さん。名前さん、か。


「名前さん」
「ちょ、いきなりファーストネームはやめてもらえませんかね!それにポチは女の子だから」
「え、そうなんですか?」


ポチっててっきり雄の名前だと思っていたら女の子だったのか。女の子ならもっと可愛らしい名前をつけてあげればいいのに、俺だってもう少しまともな名前が浮かぶし。そう思うと勝手に顔がにやけていた。


「…なに笑ってるの?」
「なんでもないです」


「女の子にポチは無いでしょ」と突っ込むわけにもいかないので(嫌われたくないし)適当に誤魔化すと、名前さんはむすっとした表情で俺を見上げた。この身長差だから女子と話をする時には必然的に上目遣いをされるんだけど、こんなに強気な目で見られたのは初めてでぞくぞくしてきた。


「いつもこのへん散歩してるんですか」
「まあ…」
「わかりました」


俺がそうと言うと名前さんは「しまった」という顔をしたが、もう遅い。行動範囲を特定できればこっちのものだ。
この辺りは住宅街で、少し向こうは駅前だから、名前さんの家は駅よりも手前に違いない。人通りが多い場所を散歩するのは嫌だろうから駅のほうには行かないはず、という事はやっぱり散歩コースは駅よりも白鳥沢学園側の、この近辺に限定される。


「次は俺の事、覚えててください」


また来るので、と伝えると名前さんは「さあね」と言ってポチのリードをくるくると弄った。そういう仕草のひとつひとつが俺の心を熱く激しく燃え上がらせるのだ、もう夏は終わったというのに。


「じゃあまた、ポチ」


俺は名前さんではなくポチのほうに手を振って、学校に戻るために走り始めた。
後ろのほうからポチが可愛くきゃんきゃん吠えているのが聞こえる、俺と離れるのがそんなに寂しかったか。でも安心してほしい。俺はお前の飼い主に会うためにこれから毎日ここを走ると決めたのだから。

20171022/リサコ