晩夏灯を色付ける

あんなにうるさく鳴いていた蝉たちも、お盆を過ぎると段々とその声の勢いが弱まってきてしまう。いつの間にか夏の終わりが近づいていた。
それでも昼間の暑さは変わらない。わたしはダイニングテーブルに体を預け、ヒンヤリとした感触を求めた。汗をかいたグラスの中で溶けかける氷がカランと音を立てる。だけど涼しげな音を聞いたってちっとも涼しくなんてならない。


「あんた、そんなにダラダラしてちゃんと宿題終わったの?」
「んー……ぼちぼち」


夏休みもラストスパート。宿題はまあそれなりに終わってる。二週間あれば終わらせることができるくらいの量だ。
母親は「それならいいけど」とカチャカチャ食器を洗っている。高校生になって宿題や勉強に関してはあまり干渉されなくなった。自主性みたいなものを大事にしてくれているのかもしれない。だけど、こうやって娘が毎日毎日家でダラダラと過ごしていれば心配にもなるだろう。


「誰かと遊びに行ったりしないの?」
「だって暑いし」


暑くても寒くても雨の日でも雪の日でも、いつだって会いたい人はいる。でもその人を独占できるような資格も、その人にわがままを言える資格も持っていない。
海に行ってから白布くんから連絡はない。わたしからも特にアクションを起こしていない。当日、家に帰ってきてから少しだけメッセージのやりとりをしたくらいだ。本当なら次の約束を交わしたかったけど、バレー部は相変わらずキツい練習を毎日やっているし、そんな中わたしに時間を割いて欲しくなかった。
こっそり練習を見に行こうかと何回も思った。だけど、そんな勇気は出ない。今度見つかってしまえば、きっと、もう彼は逃がしてくれない。


「暑くたって彼氏には会いたくなるものじゃないの?」
「えっ!?お兄ちゃん、何か言ってた?」


ガタンと椅子が大きな音を立てる。思わず立ち上がってしまった。カウンター越しに母親と目が合うと、一瞬だけ目をまんまると開いて驚いた顔をしたけれど、すぐに口元が緩んでくすくすと含み笑いに変わる。


「へぇ、名前にもついに彼氏ができたのね。お母さん会いたいな」
「ち、ちがっ!彼氏じゃないって!」
「えー?俺が会ったとき、本人が自分で彼氏って言ってたじゃん」


全力で否定しようとしていたのに、ついさっきまで寝ていたらしい兄が階段から降りてくる。寝ていたと思ったのは、髪がボサボサで寝癖まみれだったからだ。
Tシャツの裾に手を突っ込んでお腹をかきながら、ミネラルウォーターを一気に飲み干しているこの男。本当に厄介な相手に目撃されたものだ。おかげさまで母親のテンションはMAXだ。「なにそれ、詳しく聞きたい」なんて言い出して、兄も悪びれもなく事細かに話し始める。


「だからあれは!お兄ちゃんをナンパ男だと思って庇ってくれただけだから!友達でもそういうことしてくれるでしょ?」
「いやいや、ただの友達にしたって、俺、あんなに敵意向けられたんだぜ?向こうはお前のこと好きだろ」


背中をつぅっと流れる汗は夏の暑さのせいじゃない。火照る体を鎮めるためにグラスに入った麦茶を喉の奥に流し込む。まさか自分の兄にもナナちゃんと同じこと言われてしまうなんて。


「母さん聞いて。俺、名前の彼氏に殴られるかと思ったわ」
「あんたが紛らわしいことするからでしょ」


母親は口ではそんなことを言っているが満更ではないみたいだ。「優しくて格好いいのね。誰もがそう簡単に動けるものじゃないわ」と期待を込めて笑うので、ますますハードルが高くなる。
優しくて、格好いい。確かにそのとおりだと思う。だけど、ちょっぴり意地悪で怒りっぽい。
あ。違うな。怒らせちゃったのはわたし自身だ。誰だって、何の前触れもなく機嫌が悪くなった相手にはイライラだってするだろう。だから、わたしと正反対のあの女の人を、わざわざ聞こえるように褒めたんだ。
わたしが一歩踏み出すことが出来ない一番の理由は、きっと怖いからだ。白布くんは本当はあの人のように、活発で明るくて大人っぽい人が好きなのかもしれない、なんて。両想いだと思っていることが勘違いでしたと突きつけられるのがとても怖い。
でも下らない嫉妬で意地張って逃げてしまったわたしを追いかけてきてくれたのは白布くんだった。このまま自惚れ続けても傷つかないのかな。
自ら行動を起こすべきなのか、それとも何もしないべきなのか、わたしの心は振り子のように揺れ動いている。


「来週末、花火大会あるでしょう?」
「うん」
「お母さんね、昔着ていた浴衣、綺麗にしまってあるんだけど、それを娘に着せてデートに送り出すことが夢だったの」
「うん」
「もしその彼と行くことがあるなら、よかったら教えてほしいな」


言っても聞かない二人から逃げるため階段に足を向ければ、背中から母親の声が飛んでくる。
毎年この時期に行われる花火大会。夜空を彩る色鮮やかな菊型は、夏の終わりを告げる花だった。わたしも家族と行ったり、友達と行ったりしたことがある。そこで、きれいに着飾った浴衣の女の子が幸せそうに男の子に寄り添って歩いているのを見ると「いつか自分も」と憧れを抱いていた。


「もしも。行くことがあったらね」


曖昧に笑って誤魔化せば、母親はにっこりと穏やかに微笑んで手元に視線を戻した。カチャリとお皿同士がぶつかって、水の流れる音がする。


「流行なんて関係ない、かわいらしくって大人っぽい浴衣だからその彼もイチコロね」


おそらくわたしが白布くんに想いを寄せていることはバレてしまっているのだろう。だてに人生経験してない。
でも浴衣を着たからといって、白布くんが他の女の人に見向きもしないくらいの魅力が本当に湧き出てくるのかも分からない。親ってみんな親バカでしょう?
そのまま階段を上がって部屋に向かおうとすれば、「待て待て」と言いながら通せんぼする兄に行く手を阻まれる。


「大丈夫だ。兄ちゃんの見立てではあいつはお前に惚れている。お前に足りないのは勇気だけだ」
「うるさいな。分かったから退いてよ」


自覚して勇気が出るなら苦労しない。わたしだって憧れだけじゃなく、実現したい。好きな人と行く花火大会を。だけど、どうにもこうにも誘い方が分からない。そのために部屋でじっくり考えるんだってば!
兄を押し退けると「あっ」と悲しそうな声が漏れたが、それには聞こえないふりをする。タイムリミットは長いようで短いのだから。





学校へ向かう途中にあるブロック塀から黄色い花びらが見え隠れしている。姿勢を正して少し覗き込めば、重たげに首をもたげた向日葵がたくさんの種を抱え込んでいた。
夏が終わっていく過程を実際目にしてしまうと心にぽかりと穴が空いたような気になる。そして同時に焦りも生まれた。
夏休み最後の一週間は、午前中だけ課外授業がある。でも希望者のみだ。夏休み前に行われたアンケートで、参加不参加を問われ、その結果により課外授業のクラスは科目ごと習熟度別に分けられる。
特別勉強が好きなわけじゃない。やらなくちゃいけないだけ。それに白布くんの姿を見れるかもしれないというほんのひとさじの期待。
学校に着けば自分が向かうべき教室がピロティに貼り出されていた。数学以外は中級クラスだけど、数学はもちろん初級クラスだ。期末試験の結果だけ良くても一つ上のクラスにはいけないらしい。でも仕方ない。無理して一つ上のクラスで授業を受けてもついていけなければ意味がないのだから。
自分の名前を確認し、混み始めたピロティから離れる瞬間に白布くんの名前を探す。だけどそんな一瞬では見つけることができなかった。課外授業、申し込んでいるのだろうか。部活を優先しているのだろうか。それくらいメッセージでやりとりして聞けば良かったのに、やっぱり勇気が出なかった。わたしってなんて意気地なしなんだろう。





今日の課外授業の終了を告げるチャイムが響くと、皆、夏休みを最後まで満喫しようと素早く荷物をまとめ始めた。お昼からどこかへ出かけたりするのか、それとも家でマッタリ過ごすのか。わたしもそれに負けじとペンケースをスクールバッグに詰め込んだ。シャーペンは敢えて片づけない。おまじないをかけるようにぎゅっと握りしめて胸ポケットに突き刺した。
白布くんのおかげで初級クラスの数学は乗り切れそうだった。先生の言ってることが難なく分かるし、練習問題もすらすらと解けた。白布くんの魂が宿ったシャーペンはまだまだ効力が続行中だ。どうせならわたしの恋を導いてくれる力も宿っていたなら、なんて縋った結果、それはわたしの胸元に居座っている。
席を立つと一組へと駆けていく。通り過ぎる風はほんの少し涼しくて、うなじをじんわり湿らせていた汗が蒸発していく。白布くんがいるとしたら一組に違いない。上級クラスは一組だから。
人の流れに逆らって目的のクラスへと辿り着くと、ぽつりぽつりとまだ座っている生徒がいる。その中で見つけたわたしの心を乱してしょうがない男の子。白布くんは今のわたしの位置からは一番遠い、対角線上にいた。窓際の一番後ろという、とびっきりの特等席はわたしの席だ。
どくどくと脈の速さは勢いを増す。白布くんが居たということに加えて、わたしの席に座っているという事実。下手したら心臓が口から飛び出そうだ。わたし、机きれいにしてたっけ。椅子も大丈夫だったかな。
そろりそろり近づいていく。白布くんはノートをパラパラとめくって、簡単に今日の復習をしているみたいでわたしには気づかない。こんな小さな努力の積み重ねが勉強でもバレーでも結果を残していくのだろう。素直に尊敬する。
白布くんのノートにわたしの影が差す。肩にかけたスクールバッグを握りしめて、声を出そうとした瞬間に白布くんが勢いよく顔を上げた。そこへ一風。夏休み前の湿っぽいものとは違うからりとした風がわたしと白布くんの前髪を揺らした。ほんのり秋の気配。でもわたしの夏は、まだ終わっていない。スクールバッグを肩にかけ直すと見せかけて、さりげなく胸ポケットのシャーペンに触れる。どうかわたしに勇気をください、と願いながら。
白布くんの瞳は驚きの色で染まっている。長い睫毛を震わせてぱちぱちと二回、瞬きをした。


「苗字さん!?なんで?」
「そこ、わたしの席なの。忘れ物しちゃってて……」
「え、ごめん!」


もうっ!そんなことが言いたいんじゃないのに。
案の定、白布くんは慌てたように机の上に置いていた筆記具を抱きかかえ、隣の席へ移動した。
自分の席に用があったんじゃない。白布くんに用があったのに、そんなことも言えないなんて、相変わらずなんて馬鹿なんだろう。何かうまく言い訳を考えなくちゃ。
視線を落とし、思考を巡らせ立ち尽くす。一向に動こうとしないわたしをちらりと見た白布くんはノートから顔を上げ、怪訝そうにわたしの顔を覗き込んだ。


「とりあえず座れば?」
「うん」


白布くんはわたしが椅子に腰掛けるのを確認したあと、また手元のノートに意識を戻した。
絶対に変な奴だと思われてるに違いない。白布くんがこちらを向いていないことがせめてもの救いだと思った。忘れ物と言った以上探さないとさらに怪しまれてしまう。とにかく振りでもいいから探さないと。
けれど、どんなに腕を突っ込んでも机の中は空っぽで、血の気がさっと引いた。しまった。中身は全部持って帰ってるんだった。


「探し物は見つかった?」
「えーと、……ないみたい」


腕を突っ込んだままぴたりと動きをとめたわたしに、白布くんはまたもや不思議そうに顔を上げ頬杖をついた。
わたしは探すのを諦め(むしろ諦めるきっかけをくれた白布くんに少し感謝した)、腕をひき抜く。そして、緊張している気持ちをほぐすためにぐーっと伸びをした。馬鹿げた芝居を終わらせることができて一安心だけど、肝心なことがまだ言えてない。


「苗字さんも課外授業申し込んでたんだ?」
「そうなの。数学は初級クラスだけど」
「だろうな」


頬杖をついたままノートをパタンと閉じた白布くんが、口角を上げて意地悪く笑う。
本当のことだけど少しむっとして頬を膨らませれば「そんな顔しても怖くないし」と今度は柔らかく目を細めた。むしろ、と続けたので次の言葉を待っていると、「なんでもない」と顔を背けられてしまった。ほんのりと耳たぶが赤いのが気のせいなんかじゃなければいいのに。


「今日部活はないの?」
「課外授業あるときはそれに合わせて午後練なんだ。だから大丈夫」
「そうなんだ。今週の土曜日も部活ある?」
「もちろん。たくさん練習しないと、越えなきゃいけない壁はまだまだあるから」
「そっか……」


訪れた沈黙を皮切りに、何度も頭の中で行ったシュミレーションどおりに言葉を紡いだ。だけど、分岐はバッドエンドの方だった。そう言われてしまえば、もう、わたしの方から切り出すことはできない。次を見据えて歩き出しているのに、わたしの欲で台無しにしてしまうのは嫌だ。
わたしが何も言わなくなったせいで再び沈黙が二人を包み込む。その中でわたしだけが負のオーラを纏っているかのように空気が重い。白布くんはそれに気づいたのか、じっとこちらを見ながら口を開いた。


「土曜日に何かあるわけ?」


こんな誰かの目に触れてしまうようなところで誘ってしまえば、ひやかされるかもしれない。そう思って周りを見渡したけれど、いつの間にか教室はわたしたちだけになっていた。


「あのね、期末テストのお礼、まだ出来てなかったから一緒に花火大会でもと思って、」


恥ずかしさと緊張から握りしめた手が小刻みに震える。平然を装おうとすればするほど、声が上ずってしまう。
白布くんの反応が怖いけど気にはなる。伏し目がちだった視線を恐る恐る上げてみれば、鳩が豆鉄砲をくらったような顔でわたしを見つめていた。
や、やっぱり急にこんなこと言い出して変だと思ったよね。これだと白布くんへのお礼にもならないし、むしろわたしへのご褒美でしかない。


「あっ、いや、何がお礼になってるんだって話なんだけど、」
「苗字さん、それ名案」
「えっ!?」


全く予想外のことを言われて、今度はわたしが驚く番だ。さっきの白布くんの表情が鏡に映ったかのような顔をしているに違いない。言い出しっぺのわたしの驚きように白布くんも「苗字さんが言い出したのにそんな驚かなくても」と噴き出した。そして彼は少し間を置いて、慎重に口を動かし始めたので、わたしもそれにつられて姿勢を正す。


「部活、夕方に終わるから一緒に花火見に行こう?お礼は浴衣姿見せてくれるだけでいいから」
「……そんなのでいいの?」
「そんなのって、女の子の浴衣姿なんてご褒美でしかないだろ」


そうだよね。特別わたしの浴衣姿が見たいってわけじゃないよね。花火大会行けば、かわいい浴衣姿の女の子たくさんいるだろうし。部活ばかりやってる白布くんには目の保養になるのかもしれない。
一緒に行けると舞い上がった瞬間に撃ち落とされて、わたしはあからさまに肩を落とした。それを確認した白布くんは笑いをかみ殺すようにぐっと唇をひき結んでいる。


「って太一なら言うんだけどさ」
「うん?」
「苗字さんの浴衣姿は俺にとっては特別だから」
「え?」


一体どういう意味?わたしの足りない頭では、白布くんの意図が全く分からない。
いいや、違う。分からないふりがしたいだけだ。だって、これ。自覚してしまえばわたしの恋心がとめどなく溢れ出してしまいそうで。
じわじわと全身が熱を帯び始める。それを冷ますように両手で頬を包み込んでいると、白布くんは荷物を片付け始め、スクールバッグを肩にかけ立ち上がった。


「じゃあ部活だからそろそろごめん。また連絡する」
「うん」


片手を上げ背を向けた白布くんにわたしも軽く手を上げてひらひらと揺らした。
よかった。二人の会話が終わってしまうことは残念だけど、この赤くなってるだろう顔をこれ以上見られなくてすむ。段々と落ち着いてきたため、安心しながらわたしも席を立とうと椅子を引くと「あ、そうそう」と思い出したかのように白布くんがこちらを振り向いた。口元はゆったりと弧を描いていて、勝ち誇ったような目をしていたので本能的に身構えてしまう。


「今日ってもしかして俺に会いに来てくれた?」
「な、んで!?」
「机の中、空っぽなの知ってるし」


防御してもむなしく、引いたはずの体の熱さが一気に戻ってくる。声にならない声を上げるように、口をぱくぱくと動かしていると白布くんは涼しげに微笑んで「じゃあ土曜日に」と教室を出ていってしまった。
わたし一人になった教室は、わたしの熱さが伝播してなのか熱気がこもっている。うまくいくことを願っていたのに、いざうまくいってしまえば、それはそれで胸のざわめきが大きくなる。だけど、この熱さとドキドキは心地よくて癖になりそうだ。
頭を抱え込むように机に突っ伏して、土曜日のことに想いを馳せる。
お母さんに浴衣、出してもらわなくちゃ。それから、可愛い髪型も研究しとかなくちゃ。熱い熱いわたしの夏はまだまだ続くんだから。


20170930/ララ