数学の問題は考えれば考えるほど答えに近づいて行き、頭の中でなぞなぞを解読するみたいに不明点がクリアになっていくのが気持ちいい。
しかし女心というものは逆で、考えれば考えるほど泥沼にはまり分からなくなっていく。だって女子は自分の気持ちを顔に出さない技を身に付けているし、かと思えばちょっとした事に赤面するし、それに油断していると途端に壁を作られてしまうのだ。そう、今のように。
「苗字さん、ひと口いる?」
先ほど運ばれてきたハンバーガーを自分が口にする前にと苗字さんにすすめてみると、彼女は首を振った。喜んで飛びついてくると思ったのに予想外の反応で思わず「えっ」と声を出してしまった。初めて勉強を見るのを断られた、あの時を思い出す。
「…いいの?さっきこれも気になるって言ってなかったっけ」
「……いい…いらない、ありがと」
目も合わせずにもう一度ふるふると首を振られてしまい、その後は言葉を失った。どうしてだ、ほんの数分前まで「お腹すいたね」とにこにこ笑いかけてくれていたのに。
苗字さんはスズキさんのほうを向いて、彼女たちが頼んだロコモコをシェアし始めた。全くその変化についていけない俺は助けを求めるように隣のビーチベッドに座る太一を見ると、太一も首をかしげているようだ。
「俺、何かした?」
「さあ…」
小声で太一に聞いてみるが心当たりは無いようだ。それもそのはず、本当についさっきまで普通だったのだから。
「とりあえず食おうぜ、冷めるし」
「……」
そうだよな、ハンバーガーに罪は無い。もしかしたら俺の気のせいかも知れないし、ひとまず空腹を満たして気分を変えよう。そうして食べている間にも太一は何度か近くを行き来する店員の女性に目をやって、危うくバンズの間から流れ出たソースがこぼれるところだった。
「見過ぎだぞ、失礼」
「だってさあ…どうしよう会話したい」
「何を話すんだよ」
太一はどうやらあの女性に釘付けで、歳上かなぁとか大学生かなぁなどとぶつぶつ言っていた。
確かに海の家にぴったりの明るい女性、店のロゴが可愛らしくプリントされたティーシャツにスキニーデニムをはいており、目の前を歩かれればまあ必然的にそのお尻に目がいくほどには魅力的だ。しかしいくらその人が綺麗だとしても、俺は今せっかく一緒に居る苗字さんに何故いきなり素っ気なくされているのかが気になって仕方ない。
「……はあ…」
「おわっ、やべ」
頭を悩ませていると、隣でハンバーガーを食べていた太一が声をあげた。
何となく何が起きたのか想像出来たが一応目を向けてみる。…やっぱりとうとうハンバーガーの中身がいくつか落ちて来たようだ、彼の股の間にポトポトと。
「汚ねえな、ちゃんと食えよ」
「美味いけどちょっと食べにくいな…」
「食べるのに集中してなかったからだろ」
「うっせ。でも会話のきっかけゲット」
会話のきっかけ?どういう意味かと眉を寄せると太一は片手を挙げて「すみませーん」と店員を呼んだ。しかも、その女性が近くにいるのを見計らっての事だからずる賢い。
「どうされました?」
「ゴメンナサイ。おしぼり下さい」
やって来た女性に垂れてしまった可哀想なハンバーガーのソースやらを指さす太一の顔は、はっきり言って無表情。さっきまでニヤニヤしながら「あの店員かわいい」とか言っていたくせに器用過ぎるだろ。腹立たしくて羨ましい。店員は太一の座るビーチベッドが汚れたのを見て「すぐ持ってきます」と走っていった。
「な。」
「ドヤ顔すんな」
「連絡先教えてくんないかな…歳上だと思う?高校生には興味無いか」
「自分で聞けよ」
太一があの人に声を掛けるか掛けないか、連絡先を聞くのか聞かないのかなんて申し訳ないけど心底どうでもいい。左隣の苗字さんを見ると、一瞬だけ目が合った。あ、という顔を互いにしたと思われるが苗字さんはすぐに反対側、スズキさんのほうへ向き直ってしまった。
どうしてだ?さっきまでビーチバレーをしたり太一を埋めたりメニューを選んだりと楽しい時間を過ごしていたのに。ちょっと訳が分からなくなって俺も意固地になってきた。苗字さんが話しかけてくるまで会話を振るのは止めよう。
「3枚で足りますか?これしか無くて」
その時、店員の女性がウェットティッシュを3枚持ってやって来た。太一が受け取ってビーチベッドを拭こうとすると、その人が慌てて手で制す。
「そこは私たちがやるので!水着汚れてません?先に身体拭いて下さい」
「……あ…いや、水着は平気、っす」
綺麗系の店員が前かがみになり、座った太一の身体や水着を気にしている。これにはさすがの川西太一敗れたり、ポーカーフェイスはどこかに消えた。
その人は太一の水着は一切汚れていないのを確認すると、ビーチベッドの汚れた箇所だけを拭いてまた去っていった。
「…俺の身体が汚れてたら、あの人拭いてくれたと思う?」
「はあ?」
「ドン引きしないでってば」
そう言われても充分なドン引き案件である。しかし、俺は今少しだけ苛々していた。理由も分からず苗字さんの態度が変わり、素っ気なくされているせいで。だから俺も自分の意思とは反してこう言ってしまったのだ。
「…まあ確かに綺麗だったよな、活発で明るくて大人っぽくて?」
俺は自分でも驚いた。綺麗よりは可愛い系で、活発ではなく大人しい苗字さんとは真逆の事を口にしてしまったから。しかも苗字さんに聞こえるくらいの音量で。
その瞬間、苗字さんが突然立ち上がり彼女の座っていたビーチベッドがぐらりと揺れた。
「名前?どうしたの」
「トイレ行ってくる」
苗字さんはぼそっとした声でスズキさんに答え、俺たちのほうは見向きもせずに背中を向ける。それにもちょっとムカついてしまったけど、俺は何も言わないでおく。代わりに太一が苗字さんに声をかけた。
「トイレの場所分かる?賢二郎について行ってもらえば」
「いらない!」
そう吐き捨てて、苗字さんは大股で歩いていってしまった。その背中をしばらく無言で見送る俺たち。
「………何なんだよもう」
「賢二郎、俺分かっちゃったかも」
「わたしも」
しかし太一とスズキさんは互いの意見が一致しているらしく「やっぱり?」と顔を合わせた。ふたりが何を考えているのか分からずに突っ立っていると、太一は遠くにいる先ほどの店員を指さした。
「たぶん、賢二郎があのオネーサン褒めてるのが気に食わないんだ」
そんな嘘みたいな事ってあるのだろうか。ドラマかよ。俺があの人を褒めていたから嫉妬して機嫌を損ねたという事か?
「…そんな漫画みたいに分かりやすい事あんのかよ」
「名前は昔から、漫画みたいに分かりやすい子だよ」
スズキさんは苗字さんと中学の時から友だちだと言うので、恐らく間違い無いのだろう。
苗字さんは分かりやすい子。そう言われれば合点がいった。確かに苗字さんの態度が変わる直前に、太一との会話の中であの店員を「綺麗系」と言ってしまったような…だって太一が「あの店員かわいい」とか言うからついつい見てしまったわけで…
「…太一のせいじゃねーか…」
「それは違うだろ!俺は本気であの人綺麗だなって思ったんだからさ。賢二郎さっきの嫌味入ってたろ?」
「………」
返す言葉もないので無言で反応すると、「無反応も反応のうち」と捉えたふたりは俺の背中を「いってらっしゃい。」と押した。
◇
苗字さんが本当にトイレに行ったのかは分からないが、海に着いてから遊びどおしで一度もトイレには行っていない。あの海の家から一番近いトイレを見つけてしばらく近くで待ってみたが、苗字さんは出て来なかった。中に篭っているのか、そもそもトイレなど行っていないのか。
俺が他の女性を褒めたから機嫌が悪くなるってどういう事だよ、そんな事があるのかよ。そんなに嬉しい事が。もしもそれが本当なら、あの態度を怒ればいいのか喜べば良いのか分からない。
「…もう、付いてこないでってば!」
その時、苗字さんの声が聞こえた。声を荒らげているようだ。辺りを見渡すと、トイレを挟んだ反対方向から苗字さんとひとりの男が歩いてくるのが見えた。
「何でだよ、冷たいな」
「冷たいとかじゃないし、友達が待ってるんだから」
「友達って可愛い子?」
「やめてってば!」
そんなことを話しながら歩いてくる苗字さんの顔は嫌悪感一色で、変な男に声をかけられ付きまとわれているのがすぐに分かった。
その瞬間俺は、さっき苗字さんに感じたのとは違う怒りを覚えた。お前誰だよ、苗字さんに気安く話しかけてんじゃねえよ、軽々しく腕なんか掴んでんじゃねえよ。
「…何してるんですか?」
「ん?」
低く声をかけると(意識的に低くしたのではなく、自然と自分でも聞いたことのないほど低い声だった)、苗字さんと男は同時に俺に気づいた。
「……し…白布くん」
「その子、俺の連れなんですけど」
「連れ?」
男は目を真ん丸くして驚いていた。そして俺の姿を上から下まで舐めるように観察する。なんだよ、俺が苗字さんの連れじゃおかしいってのかよ。釣り合わないとか?ふざけんな。
「なんだよ、一緒に来てる友達って男かぁ」
「ちょっ…」
苗字さんが憤慨したように口を開いたがそれより先に俺が動いた。
ずかずかとふたりに近寄って苗字さんの腕を掴み、ぐっと自分のほうへと引き寄せる。そして相手の男には思いっきり強く言ってやった。
「友達じゃなくて彼氏なんで」
この際俺たちがただの友達であるとか苗字さんが素っ気ないとかはどうでもいい。変な男が苗字さんに馴れ馴れしく接するのがとても嫌だったし憎たらしい、それだけだ。
「………しっ…しら…白布、くん…え?」
「え、彼氏なの?」
「そうですけど何か!」
どうだ、これならもう引き下がるだろう。…そう思って言ってやったのに、そいつはぴくりとも動かない。それどころか先程丸くなった目を更に丸くして苗字さんに明るく言った。
「彼氏が居るなんて聞いてないぞ」
「なっ、そんなのいちいちお兄ちゃんに報告するわけないじゃん!」
そうだそうだ、そんなの兄貴に報告するわけないだろ!と心の中では途中まで乗っかってしまった。お兄ちゃんって、お兄ちゃん?
「…お兄ちゃん?」
これも漫画展開、俺が「変なナンパの男」だと思っていた相手は苗字さんの親族だったというのか。なんだ、それなら安心だと終わりたいがそうも行かない。俺は好きな女の子の兄貴に向かってとんでもない態度を取ってしまったのだ。
「…お兄さん?」
「兄です。名前の」
「うそ…」
「偶然そこで会って…お兄ちゃん、ナナちゃんの事気に入ってるから会いたがってついて来てさ。やめてって言ってるのに」
苗字さんが呆れたように喋っているのが俺の耳にはまだ届かない。兄貴に嫌われたら終わりだ。例え俺たちが両想いだったとしても。
けれど苗字さんのお兄さんは特に怒った様子が無く、むしろ興味深そうにしていた。
「まさか彼氏に会えるとは思わなかったけどなあ」
「かっ、彼氏…じゃ…俺は」
「そういう事なら邪魔しねえのに!俺も彼女候補が待ってるから戻るわ」
そう言ってみせると彼女のお兄さんは、颯爽と反対方向へ歩いていった。苗字さんとは違ってとても賑やかそうな人だ、怒られなくて良かった…じゃなくて。
「…ごめん。俺いま…勝手な事言った」
「彼氏ですってやつ?」
「うっ、うん。ごめんホントに…」
なんと言って詫びれば良いのだろうか。親族に失礼な態度をとった事、突然腕を引っ張ってしまった事、彼氏だと名乗ってしまった事。
冷や汗をかいてしどろもどろになって無意味に頭をかいたり頬をかいたりする俺を見て、苗字さんは首を振った。
「…いいよ、咄嗟の嘘だもんね」
咄嗟についた嘘、それで間違いない。苗字さんを変な男(お兄さんだったけど)から護るための嘘。俺は彼氏じゃなくてただの同級生だ。
苗字さんは「嘘だもんね」ともう一度呟き、太一たちの待つ海の家へ歩き始めた。ちょっと待て、まだ聞きたいことがあるのに。
「苗字さん」
呼び止めると苗字さんは立ち止まった。そのまま振り返らないが言わせてもらう事にする。
「俺、何かした?」
「え?」
「さっきから…なんか…機嫌損ねてるみたいだったから」
俺がほんとうに何か失態を犯したせいなのか、それとも太一やスズキさんの言う通りなのか。それが聞きたくて、未だに振り返らず立っている苗字さんの後ろ姿を見つめる。
「あ…あれは…」
やがて苗字さんが詰まりながら言った。
「あれってもしかして、俺が他の女の人を褒めたから?」
我慢出来なくて太一とスズキさんに言われた事を聞いた。すると苗字さんが勢いよく振り返って、真っ赤な顔を隠しもせずに口をぱくぱくと動かしている。ちいさな金魚みたいで可愛らしい、と今は言わないほうが良いか。
「……ッ分かってるんなら…いちいち聞かなくても良いじゃんか」
だって必死に俺と目を合わせないよう目線を泳がせ、自分の気持ちがバレないように誤魔化そうとわざとらしく身振り手振りを激しくしている。でも「分かってるならいちいち聞かなくても」と言っている時点でほぼ確定と言える、と思う。
「…白布くんが、あの人のこと綺麗とか大人っぽいとか…それ聞いてわたし、すっごいイライラして…何で一緒に居るのに他の人のこと褒めるのって思ったら」
途切れ途切れに聞こえてくる嫉妬の言葉は全く醜くは思えない。むしろとても綺麗な響きだ、もっと聞きたい。
このままここで告白してしまうか、解放的な真夏の空の下で太陽に見守られながら?我ながらロマンチックなことを思いついてしまった。
「………苗字さ…、」
「なんてね。戻ろっか!」
が、声をかけようとした時には苗字さんは歩き始めていたのである。
それを力ずくで引き止める勇気がどうして出てこなかったのか、この時の俺を殴りたい。「嘘じゃなくて本当の彼氏にしてくれませんか」と言うには、絶対に今がベストタイミングだったはずなのに。
20170906/リサコ