くぐる夏の輪

「はぁ……」
「賢二郎、そんなに溜息ついてたら幸せ逃げるよ」
「あのな、太一。溜息つくと副交換神経が優位に働いてリラックス効……」
「わーわー!真面目な答えは望んでません」


土日に厳しく指導しすぎたせいか、俺の言葉はもうたくさんとばかりに太一は耳を塞いだ。話題振っといてこれかよ。いや、こいつなりに心配してくれたのか。しかし太一に心配されるほど試験の出来が悪かったわけではない。苗字さんの出来が気になるのだ。
先ほどの数学の試験を以て期末試験一日目が終了した。問題をざっと見た限り、最後の二問を除いては基本問題や簡単な応用問題ばかりだったので、あれだけ勉強していればおそらく赤点は免れているだろう。
けれど苗字さんの出来の悪さと言ったら……好きな女の子のことをこんな風に言いたくはないが、彼女は壊滅的に数学が出来ないのだ。心配にもなる。図書室で無理矢理隣に座ったものの、どうすればイライラせずに優しく教えられるのか心のうちで頭を抱えてしまった。教えるのは性に合わないと、太一を教えて身に染みて実感しているのだから。
しかし、それも杞憂に終わることになる。苗字さんは、問題が分からないと拗ねた顔でペンを回したり、問題とは関係ない文字をうねうねと書き連ねてみたり、可愛くて仕方がなかったのだ。資料を読むふりをしながら笑いを堪えることに全力を尽くしてしまった。「分かんないだろ?」と聞いたときの「どうして分かったの?」と言いたげな表情は、「見れば分かるだろ」と言いたい反面、全てを許してしまいたい衝動に駆られるような。そんなあどけない少女のような顔をしていた。一年のときは気づかなかった苗字さんの素を目の当たりにして、俺はさらに彼女の魅力に囚われてしまったらしい。
けれど、可愛いからと許してしまっては赤点を逃れることはできない。どうにかして苗字さんの力になりたくて(というか、ただ単に仲良くなりたいという下心からだけど)、持てるだけの知恵を振り絞ったのだが……出来はどうだったのだろう。


「俺もまあまあ手応えあったし、苗字さんも大丈夫じゃない?」
「太一は当てにならない」
「ひでえ」


俺ってそんなに分かりやすいのか?太一は俺の考えていることをことごとく的中させやがる。
土曜日にも苗字さんの勉強がちゃんと進んでいるかそわそわしていると「そんなに気になるなら一緒に勉強しようって言えばよかったのに」と正論を吐かれたし。だからイラっとしてついつい厳しめに指導してしまったのだ。俺だって、それが素直に言えりゃ苦労はしない。
だって毎日毎日親切の押し売りをされてみろ。土日くらいは俺から解放されたいと思うのが普通だ。自分で言ってて悲しいけれど。
そう考えていると、また、自然と溜息が漏れ出す。好きな子がいる、と彼女本人に宣言したものの、どうやってそれを「あなたです」と知らしめばいいのか。
空調の効いた教室とは違って蒸し風呂状態の廊下には、生温い風と蝉たちの大合唱が充満している。うるさい。聞いてるだけで暑苦しい。これでは窓を開ける意味がない。
日に日に夏休みが近づく度に、暗中模索する気持ちが俺の憂鬱を増幅させている。何故って、夏休みに入ってしまえば、苗字さんと会える機会が減ってしまうからに決まってる。連絡先さえ聞けていないというのに。このままじゃ夏休みの間にまたスタート位置に戻ってしまいそうで焦りが生まれる。


「セミうっせぇ」
「それ、瀬見さんが聞けば泣くぞ」
「……ホントだな」


太一の冗談に思わず口角が上がる。白鳥沢バレー部恒例、夏のジョークだ。瀬見さんは毎年、蝉の不満をぶつけられてはうんざりしながら一つ一つ律儀に対応していた。


「お?賢二郎、想い人がこっちに向かってきてるぞ」
「え?」


その言葉に、自分のつま先ばかり見ていた視線を上げると、涼しげに髪を一つに結わえた苗字さんが慌ただしく駆けてきていた。まとめられた髪の束がゆらゆらと尻尾のように揺れている。


「白布くん!!」


彼女は俺の目の前で急ブレーキをかけるようにキュっと靴底のゴムの音を鳴らしながら止まった。何故だか俺の両手は彼女の両手にガッチリとホールドされていて、訳が分からない。予測不能の出来事に開いた口が塞がらない。本来の彼女ならこうやって簡単に異性の手を握ることはないだろうに、興奮していることが目に見えて分かる。


「あのね!数学、出来たよ!」
「お、おう」
「白布くんが教えてくれたおかげだね!」
「……赤点は回避出来そう?」
「もちろん!白布くんの魂が宿ったシャーペンも使ったし!」
「はぁ」


苗字さんは掴んでいた手を離し、顔の横でピースサインを作った。手が離れてしまったことは残念だけど、今まで見たことのある彼女の笑顔の中でも、一位二位を争う程のニコニコとした華やかな笑みは、俺の体温を上昇させていく。
しかしまあ、俺の魂はいつの間に分散して苗字さんのシャーペンに取り憑いたのだろうか。思わず首を傾げる。もしそうなのだとしたら、苗字さんといつでも一緒だなんて、その魂羨ましすぎるだろ。


「また、テスト返ってきたら報告するね!」
「……楽しみにしてる」


嵐のようにやってきて、嵐のように去っていった彼女。少し季節を先取りしてしまった夕立のようだ。みずみずしく潤して過ぎ去ったはずなのに、熱は一向に冷めない。だってほら、今更ながら顔が熱い。


「ほぉ。恋ですな」
「言ってろ」


太一は赤くなっているであろう俺をからかうようにまじまじと見下ろしてくる。だけど、ここで怒ってしまえばこいつの思うツボだと思い、何とか我慢する。そして、片手で顔を扇ぎながら大きく一歩を踏み出すと、太一は口笛を吹きながら後ろをついてきた。
ったく。わざわざ教室まで迎えにきた上、監視までしなくたって逃げずに帰ってお前の分の試験対策だってなんだってやってやるさ。からかわれたって、俺の背中を押してくれたのは太一なんだからこれでも感謝してるんだ。


◇◆◇


期末試験の結果が返ってくるごとに、教室を埋めつくしていたテストの話題は、次第に夏休みの予定の話題へと変わっていく。祭りの日はいつだの、新しい海の家がどーだの、どこの夏期講習に行くだの。わいわいがやがやと話を展開させるクラスメイト達はすっかり解放されたような爽快な顔をしているけれど、わたしはいまいちその話題にも乗れないし、気分は晴れやかではない。
だって、やっと、次の授業で待ちに待った数学の試験の結果が返ってくるのだ。終わった後はあんなに自信満々だったのに、日が経つにつれて不安とプレッシャーが増してくる。これで赤点を取ってしまえば、補習で夏休みが一週間おじゃんになる。それに、白布くんに合わせる顔がない。
大丈夫、大丈夫なはず。両手を祈るように握りしめて目を閉じているとチャイムが鳴って、教室は徐々に静けさを取り戻していった。心臓は試験のときのようにドキドキと大きい音を鳴らしていて、何となくきゅうっとお腹が痛むような気さえする。


「テスト返すぞ。平均点は67点」


教室に入ってきた数学教師が開口一番に言った。
67点って結構高くない?いつもどうだったっけ?中間試験はギリギリ赤点を免れたというレベルだったので、そんな平均点だなんて気にしてなかったのだ。
クラスメイトの名前が次々と呼ばれていく。返却された答案用紙を見て、クラスメイト達はおそらく一喜一憂しているだろうけど、わたしにはみんなの様子を窺う余裕はない。閉じていたままの目をうっすらと開けてみると固く握りしめていた両手が白くなっていたので、慌てて力を緩め指先をさすった。


「苗字」
「は、はい」


立ち上がれば、思った以上に椅子がガタンと大きな音をたてたので焦ったけれど、教室は意外とざわざわとしていたので悪目立ちはしなかったようだ。ほっとひと安心。


「よく頑張ったな!これからもこの調子でな」


たかが校内の定期考査。なのに、指先は微かに震えていた。受け取った答案用紙には赤文字で75点と大きく書かれており、一瞬だけ全ての音が遠のいた。
嘘!?本当に?夢じゃない?
大袈裟かと思われるかもしれないけど、今までのわたしからは考えられない点数で、じんわりとまぶたが熱い。
今すぐ白布くんに報告したい。席に戻ってポケットから携帯を取り出したけれど、ふと、彼の連絡先を知らないことに気がついた。
ああ、こんなことなら前もって連絡先聞いておくんだった。この喜びを持て余しながら残りの授業、堪え抜けるだろうか。
お礼、したいな。何がいいだろう。白布くんのこと、何も知らないや。ここは無難にご飯でも誘ってみようか。
そんなことを考えながら頬杖をついて窓の外をのぞき見る。ニヤける口元を隠すことは忘れない。外はすっかり夏空で、綿菓子のような雲がぷかぷかと浮かんでる。梅雨明け宣言はまだのはずなのに、透きとおるような青は夏の到来を告げていた。


「名前、赤点回避おめでとう!褒められてたじゃん」


授業が終わると友人のナナちゃんがわたしの席までやってきて、悪戯好きの女の子のように笑って言った。実は白布くんに教わるまではナナちゃんに少し教えてもらったりしてたけど、自分の出来の悪さが彼女に迷惑をかけてしまいそうだったので、なるべく自力で頑張ることにしたのだ。
時折、「教えなくて大丈夫?」と気にかけてくれていたけれど「何故か白布くんが教えてくれてるから何とかなりそう」と言うと、二マリと笑ってそれっきり心配されなくなってしまった。


「そうなの。白布くんのおかげかな……あっ、もちろんナナちゃんも!」
「わたしは何もしてないよ。白布サマサマだね」
「ううん、そんなことない。ありがとう……それにしても、どうして白布くんはあんなにしつこく教えてくれたのかなぁ」


ずっと疑問に思っていたことを口にすれば彼女は驚いたように目をまんまると開いた。


「え?そんなの名前のことが好きだからに決まってるでしょ?」
「へ?」


考えてもいなかった一言に、体の動きが止まる。でも……白布くんは好きな人いるって言ってたし、それをまさか本人に言ってしまう理由なんて、恋愛偏差値の低いわたしには思いつくはずがない。


「白布くん、好きな人いるって言ってたよ?」
「だから名前でしょ!そうじゃなきゃ、誰が毎日毎日好き好んで数学が壊滅的に出来ないあんたの隣に座るのよ」


息を吐くように毒づいたナナちゃんの言葉がグサリと胸に突き刺さる。
だけど確かに、言われてみればそうかもしれないと思い当たるフシはある。というか、フシだらけだ!
今の今まで、わたしはただ、変な男の子だなと思っていただけだった。教えてもらってたのに失礼なのは重々承知だ。
自意識過剰じゃなかったの?意識すれば段々と全身が熱を帯びてくる。それは夏の暑さだけでは説明できない種類の熱さだった。


「よい夏休みを!」


むふふと楽しそうに笑いながら席に戻っていったナナちゃんを、涙目で見つめる。
待って待って、どうしたらいいか聞かせてほしい。むしろ、ずっと隣にいてアドバイスしてください。
放課後、白布くんの元へ報告に行くつもりだったわたしに彼女はとんでもない爆弾を落としていったのだった。





手汗で湿りつつある答案用紙を持って四組へと向かってはいるけれど、心なしか足が重い。一体どんな顔して会えばいいのだろう。うんうん唸ってはみたものの、答えなんて見つかるはずがなくて、さらに顔がしかめっ面になっていく。
四組の教室の扉に手をかける頃には、わたしの眉間はシワだらけ。とりあえず扉を開く前に親指でぐいぐいと皮膚を伸ばした。


「うおっ?」
「わぁっ!?」


すーはーすーはーと深呼吸して、落ち着いたところにこれだ。ガラリと勢いよく開いた扉の向こうに現れたのは目的の人物で、静まっていた心臓が跳ね上がり、再び暴れ出す。


「しっ、白布くん!」
「苗字さん、もしかして……ダメだった?」


ぼやける視界で涙目になっていることは明らかだ。そして、曇っているであろう表情からどうやら白布くんはわたしが赤点を取ってしまったと解釈したらしい。気を遣ってくれたのか、語尾はわたしたち二人だけにしか聞こえない囁くような声だった。


「ち、違うの!これっ!」


依然、頭の中が整理できていないわたしは何と言えばいいのか分からないので、とりあえず平均点を上回ることの出来た答案用紙を白布くんの顔の前にちらつかせた。
髪の毛と同じ色をした色素の薄い瞳がぱっちり開いたなぁと答案用紙の影からのぞいていると、白布くんはそれをわたしの手からひったくるように奪い取ってしまった。


「苗字さん、すごいじゃん!よく頑張ったな」
「白布くんが……根気強く教えてくれたおかげだよ、ありがとう」


答案用紙で顔を隠していたのに、それを奪われたことで困惑の表情が露わになってしまう。なるべく急いで普段の顔を作り上げたけれど、うまく出来ているだろうか。いつものポーカーフェイスをくずして自分のことのように喜んでくれる白布くんの顔をまともに見ることができなくて、さらさらと揺れる前髪ばかり見つめていた。


「それでね、あの……お礼にご飯でもご馳走したいなって思ったりしたんだけど、どうかな?」


言おうかどうしようか迷っていた言葉。本当にわたしのこと好きだとしたら、思わせぶりだと思われるかもしれない。だけど、それがわたしとナナちゃんの勘違いだとしたら、恥ずかしいことこの上ない。
それに、わたしの頭でお礼として考えつくのは、食欲旺盛な男子高校生にご飯をご馳走するというありきたりなことだけだったのだ。
毎日毎日わたしにつき合ってくれていた白布くんのことだから、きっと了承してくれるだろうと思い込んでいた。だけど、彼は思案するように口元に手を当てたと思ったら、表情を気難しげなものへと変化させてしまった。


「ごめん。これからそういう時間取れそうにない。部活に専念したいんだ」


予想していなかった答えなのですぐに返答することが出来なくて、今のわたしはきっと間抜け面だ。
何だろう、これ。押してダメなら引いてみる作戦?いやいや、だけど白鳥沢のバレー部といったら強豪校で有名だから白布くんの言ってることは本当なのかも。
完全にわたしの心臓の動きは白布くんに掌握されている。


「……そうなんだ。じゃあまた夏休み明けにあらためて、」
「待って!」


踵を返そうとしたら腕を掴まれ身動きできない。掴まれている腕から広がる白布くんの熱がわたしの体温とまざって発熱してる。


「お礼のこと、何か思いついたら連絡するからとりあえず連絡先教えてくれない?」
「……うん」


真剣な顔で見つめられると、「うん」という二文字しか発することが出来なかった。ポケットから携帯を取り出した白布くんに倣ってわたしも携帯を取り出し、言われるがまま操作していく。新しく電話帳に『白布賢二郎』という名前が現れて、それが無性にくすぐったい。


「また連絡する」
「うん、部活頑張ってね」


白布くんの体温が名残惜しい。離されてしまった手の温度を寂しく思うこの気持ちは何だろう。どちらかといえばクールだと思っていた白布くんが、部活に熱い男の子だと知ってから何だか胸が震えるのだ。
どうせ今年もいつもと代わり映えしない夏を過ごすと思っていた。だけど。
もしかしてもしかすると、たった一度の、忘れることのできない十七才の夏が降り注ぐことになるのかも。
なんて、遠ざかる白布くんの背中を見つめながら淡い期待を抱いたのだった。


20170807/ララ