ロジックを解読せよ

毎日毎日新たな公式がじゃんじゃか出てくる数学の授業で頭を抱えているのは、わたしだけでは無いはずだ。このあいだ白布くんに教えてもらった公式ならば多少の応用問題にも対応できたのに、それ以降に習ったものは全く理解ができない。翌日の小テストではいつも通りの半分にも満たない悪い点数に戻ってしまい、先生にも呆れられてしまった。

放課後の図書室には数学や英語の参考書も並んでいるけれど、それら文章の羅列に目を通したところでわたしの脳が理解出来るとは信じ難い。先生も「数をこなすしかない」と言っていたし、何度も何度も問題を解いてみるしか無いのだろう。

それなのに白布くんの声と白布くんの言葉で説明された部分だけは、すっと頭に入ってきた。白布くんは人に教えるのが上手いのかも知れない。…けれどあれだけ断っておいて「ほかの問題も教えてください」なんておこがましいし、わたしのちょっとしたプライドも邪魔をして、今日もひとりで取り組もうかと図書室にこもっていたのだった。白布くんが音もなくやって来て、隣の椅子に腰掛けるまでは。


「………」
「………」


先日と同じように挨拶などもなく無言で資料集を取り出して、白布くんは世界史の勉強を始めた。(もしかして私の姿が見えてないのか?)
机の上には図書室で借りることの出来る伝記なんかも数冊ある。歴史上の人物のバックグラウンドまで頭に入れる気なのかこの人は。そのほうが世界史も良い点取れるの?わたしも今度読んでみようか……いやいやそんな暇はない。わたしが今最も優先すべきは数学だ。数学、数学。…どの公式から手をつければいいの?


「…白布くん。」
「なに?」


よかった。今日もずっと黙っていた白布くんは、わたしの姿かたちが見えないわけじゃないらしい。


「あの、そこに居られると…集中できない」


集中できたからといって、数学が出来るかどうかは別の問題なのだけど。少なくとも隣の彼ばかりを意識してしまうこの状態よりは良いはずだ。


「気にしないで。俺は集中してる」
「………。」


あなたの心配はしていないのですが。もう相手にするのはやめようと思い、極力隣に白布くんが座っていることを忘れようと努めた。
開いた教科書の参考問題と、昨日今日で習った新しい公式の解説が書かれた自分のノートを交互に見る。…きちんと起きて授業を受け、ノートは綺麗に写しているのに内容が全く分からない。これを書きながら先生はなんと言っていたっけ?写すのに必死で補足説明を聞き逃している気がする。

わたしは無意識のうちにペンを回していたようで、それが手からすっぽ抜けた。しかも思い切り回していたらしく、わたしの手元ではなくて白布くんの手元まで飛んでいってしまった。
げ、と思った時にはそれを拾い上げた白布くんが横目で見ながら、ペンをわたしに差し出していた。


「回さない」
「……ごめんなさい。」


ごもっともなお説教に恥ずかしくなり、もう家に帰って勉強しようと思いながらペンを受け取ろうとする。が、それは私の手に入ることなく、白布くんがペンを持ったままひょいと手を引いてしまった。


「え、ちょっと」
「返してほしい?」
「当たり前じゃん」
「……そう」


そう、って。それはわたしのペンなんだから、と言おうとしたら白布くんはかすかに笑った。


「俺の言う事聞いてくれたら返すよ」
「え?」
「いま勉強してたのってココだよな」


白布くんはわたしのペンを没収したまま、開いていたわたしのノートをとんとん突いた。そこは確かにわたしが今頭を悩ませていた問題だ。


「…そうだけど……」
「わかった。じゃあ黙って聞いて」
「え」
「だ・ま・って聞いて」
「………は、はい」


いつもより強い声に少々身体を震わせると白布くんは「ふっ」と吹き出したが、その後すぐに流暢な講義が開始された。白布くんが先日のように数学の問題を解説し始めたのだ。

わたしは彼の言うとおりそれを黙って聞いていたけれど、時折「わかる?」とか「ここまで大丈夫?」などと逐一確認を入れてくれ、その都度こくりと頷いた。だってほんとうに白布くんの説明の中には不明点が無かったから。


「…はい。ここまでで質問ある?」


ひととおりいくつかの公式について教えてもらったあと、最後のまとめで白布くんが言った。


「ありません……」


驚くほどに分かりやすく、このあいだ教えてくれた箇所の補足なんかも入れながら説明してくれたおかげで更に理解が深まったかもしれない。「ありません」というわたしの答えを聞くと白布くんは満足したように笑い、没収していたわたしのペンを差し出して言った。


「ご清聴ありがとう」





翌日の小テスト。魔法にかかったようにわたしの手は止まることなく動き、プリントは解答の数式で埋まり尽くしていた。

前回と同じように白布くんが教えてくれた要点が余すことなく役に立ち、先生からも「今日はどうした?」と驚かれる始末。白布くんの説明を聞かされるための人質にされていたペンを見つめながら、このペンに白布くんの魂が宿ったおかげなんじゃないか?などとおとぎ話みたいな事が頭に浮かぶ。

一応今回もお礼を言うべき…なんだよね。前みたいに白布くんが偶然一組に来てくれれば良いのだが、今日の昼休みは彼の姿は見えなかった。





しかし、放課後になり図書室の中に入るとどきりと心臓が飛び跳ねた。今日は白布くんが先に座って勉強しているではないか。

テストが近づいている事もありちらほらと他の生徒は居るものの、彼の隣以外にも空いている席は多々残っている。わざわざ白布くんの隣に座ることもない。けれど何度か隣で勉強し、教えてもらった箇所が小テストに出て結果を残せたこともあり、わたしの足は自然と白布くんの隣に向かっていた。

机に開いた本に視線を落とした白布くんは、視界の中にわたしの足が入ったことで少しだけ顔を上げる。が、私と目が合う前にまた目を伏せてしまった。それでも彼が小さく喉を鳴らしたのが聞こえて、少なくとも拒否はされていないだろうと判断し椅子を引いた。

机に筆箱とノート、数学の教科書を並べて勉強の用意を始める。最後に本日行われた小テストを広げると、ようやく白布くんがはっきりとこちらを向いて言った。


「……昨日。余計なお世話だと思った?」


昨日、この図書室で。当然のように隣に座ってきた白布くんが突然数学の問題を説明してくれたのだ。最初は正直「なんだこいつ」と思ったけど、その成果は目に見えて現れた。


「ううん。凄く分かりやすかったし今日も小テストでいい点取れた。教えるのうまいね」
「…そんな事ないよ」


白布くんはそれだけ言って再び自分の勉強に戻った。あれれ、と思ったけどそもそも一緒に勉強する約束なんかしていないんだし当たり前か。わたしもわたしで数学を何とかしないといけないのだ。集中して取り掛かろう。

…と思っているのに、いきなり一問目からつまづいてしまい頭が真っ白になった。
それでも一応勉強がはかどっているふりをするために、ノートに適当な文字とか線を書いていく。白布くんに「こいつ全然だめじゃん」と思われるのが恥ずかしいのと悔しいのとで、とりあえず「滞りなく進んでいます」というのを装っていたけれど。


「分かんないんだろ?」


とうとう白布くんに勘づかれ、先日と同じ台詞で声をかけられた。


「……分かりません」
「貸して」


白布くんがわたしのペンを手に取り、広げた教科書をふたりの真ん中へ寄せた。ふたりして1冊の教科書をのぞき込むことになったので、顔が近づいてどきどきする。白布くんの色素の薄い髪がクーラーの風で揺れるのを気にしないように、必死に耳を傾けた。


「…これ。これだけは絶対覚えて」
「う、うん」


しばらく白布くんの説明に聞き入り、今日も今日とて一から十までを理解することが出来た。
白布くんって自分の勉強する暇あるんだろうか。しなくても出来そうだな、だって今教えてくれたところは恐らくどのクラスも最近習ったばかりだし。白布くんは「はい」とわたしにペンを返してくれて、やっと自分の勉強に戻っていった。


「ありがとう」


わたしの勉強が進んでいないことに気づいて声をかけてくれたお陰で、今日もまたひとつ公式を身につけることが出来た。
そのお礼を告げても白布くんは顔をこちらに向けることは無かったけれど、まつ毛がしぱしぱと動いたので目を動かしているのは分かる。拳を口元に当てて「べつに…」と呟いた彼は残念ながら表情を見せてはくれなかった。まあどうせ白布くんはいつもポーカーフェイスだから、見えたところでいつもどおりの顔なんだろうけど。





翌日、また翌日とわたしが図書室で勉強していると白布くんが隣へやってくる日が続いた。
もうわたしは彼を拒んだりすることは無かったけど、やはり男の子が横にいるのはとても緊張する。それでも数学で壊滅的な点を取るか、緊張しながらでも白布くんから教わって良い点を取るかを天秤にかければどちらを選ぶかは簡単な話であった。

テスト前、最後の金曜日。あとは土日を挟んで月曜日からテスト本番だ。土日も図書室にきて勉強するかどうかは正直迷っていた。だって家の近くにも図書館があるし、ここまで来るのに電車の乗り継ぎだって必要だから。

今日もかりかりとペンを走らせる音が響く中、わたしたちは互いに意識を向けあっているような気がした。少なくともわたしの意識は白布くんに向いている。今、質問してもいいのだろうか。それとも話しかけたら邪魔だろうか。


「どこが分かんないの?」
「え、」


しかし、白布くんはわたしが言う前に質問したい雰囲気を感じ取ってしまったようだ。解いていた現代文のプリントから目を離すと、わたしの開いた数学のノートを覗き込んだ。


「……ここ。」
「ん。ちょっと待って教科書開く」


白布くんはノートの問題を確認すると、教科書からその問題について詳しく書かれているページを探し始めた。

こうして白布くんが教えてくれるのはとてもありがたいし、分かりやすくて嬉しいのだが、その都度彼の勉強の手が止まるのは良くないんじゃないだろうか。
それに白布くんははっきりと「好きな子が居る」と言っていた。それならわたしと毎日過ごすのは時間の無駄というか、わたしじゃなくてその子に教えてあげたらいいのに。…もしかしてわたしのあまりの出来の悪さに、優しい白布くんは仕方なく教えてくれているのかも?

最初のころは執拗に勉強を教えたがる白布くんに気味悪ささえ覚えていたけど、今は別の意味で気分が乗らない。


「………聞いてんの?」
「あっ、ごめん…」
「数学は1日目だろ。集中しないと」
「……」


そうだ。数学のテストは1日目。それまでに頭に詰め込まなければならないことは沢山あるのに、せっかく教えてくれているのが右から左になっていた。白布くんの強い指摘と視線のせいで冷や汗が流れてしまい、なんと答えるか迷っているうちに目線が泳ぐ。どうしよう、怒ってる?

しかし白布くんはそんなわたしの怯え方を見てはっとした顔をし、少しだけ前のめりになった身体を起こした。


「ごめん。俺が勝手に教えてんのに説教みたいなこと…」
「いや、違うから!そうじゃなくて」


白布くんに謝らせてどうする。誤解を解くためにわたしは顔の前で両手を振った。


「わたしが教えてもらうたびに、白布くんの時間奪ってる気がして…それに」
「それに?」
「…白布くん、好きな子居るのに毎日わたしと居ていいの?」


そう言うと、白布くんは目を丸くした。そんなこと聞かれるなんて思わなかったとでも言いたげに。私と目を合わせたまま何度か瞬きをして、やがて表情を変えずに言った。


「………いいけど。」
「え?いいの!?」
「うん」


白布くんが小さく頷いて、さらさらの髪が揺れる。本人が「いい」と言うならいいけど本当に大丈夫かな、その「好きな子」がもしも図書室にきてわたしたちの隣り合う姿を見た時に「あ、白布くんと苗字さん付き合ってるんだ」なんて勘違いされたら大変だろうに。そんなのは大きなお世話だろうか。


「…じゃあ。週末がんばって」
「うん。ありがとう」


空がすっかり夕焼けに染まったころ、わたしたちは図書室を出た。いつも白布くんは寮に戻り、わたしは校門へ向かうのだが、今日はなんだかどちらとも足が動かない。「テスト頑張ろうね」とか声をかけたほうが良いかな。


「……あの、白布く」
「土日はどこで勉強すんの」
「え。」


白布くんがわたしの言葉を遮った。どこで勉強するのって、自分の部屋か近所の図書館に行く予定だ。学校まで来るという選択肢も捨てきってはいないけれど。
でももしここで「登校する」と言ってしまったら、白布くんは土日の時間すらもわたしのために割いてしまうかも知れない。


「……家の近くに図書館があるから、そこで友だちと勉強する予定…」


ほんとうは約束していないけど「友だちと」という色をくわえて伝えると、白布くんは「そっか」と低く呟いた。
残念がっているのかな、わたしが学校にこないことを知って。白布くんの声は、わたしにそんな自意識過剰な思いをさせてしまう声だった。


「………じゃあ。」
「じゃあね。…あ、白布くん」


一歩足を踏み出そうとした白布くんの身体がぴたりと止まった。さっき彼に遮られた言葉を最後に伝えて別れよう。


「テスト頑張ろうね!」
「………」


また、白布くんは予想外といったような目でわたしを見た。それから口を開いて、また閉じて、何度か返事を言おうと試しているかのような動きが繰り返される。最終的にぎゅううと唇が結ばれたあと、ぼそりとこのように聞こえた。


「…おう。頑張ろ」


白布くんはそれだけ言ってすぐに寮へ歩き出してしまったけれど、その短い言葉でわたしの心にもエールが送られたような気がする。白布くんに教えてもらったところをとことん復習して、絶対に平均点を大きく上回る点をとろう。
良い点をとったあと、それを白布くんにどうやって報告しようかな。まだテストを受けてもいないのに、帰りながらそればかり考えていた。

20170720/リサコ