ルビー色の放課後

一匹の蝉が校庭で遠慮がちに鳴いている。まだ梅雨も明けていないというのに随分とせっかちだ。仲間たちはまだ土の中だろうに寂しくないのだろうか。
わたしはこの間の小テストを復習しながら顔を上げた。蝉の鳴き声をかき消すように運動部のかけ声が澄んだ青空に溶け込んでいく。完全にわたしの集中力は途切れてしまっていた。古い書物の匂いが漂うこの空間には、わたしの他に2、3人だけ。それも皆、もの寂しく離れた席に腰かけ俯いている。何をしているのかは分からない。わたしのように勉強しているのか、はたまた何かの物語を読み耽っているのか。
だめだ。これ以上続けても無意味だ。シャーペンを右手に持ったまま、ついつい周りを見渡してしまうわたしを誰かに叱ってもらいたいけれど、残念ながらそんな人はいない。仕方なく散らかしていた筆記用具類をかき集め、問題集をパタリと閉じる。それらをスクールバッグに詰め込みながら、わたしは無意識に溜息を吐き出していた。
エアコンの効いている図書室から出ると校内が暮れかかる日光で燃えるように赤々と染まっていた。むわっと立ち込める暑さと湿度でじとりと汗が滲み始める。早く家に帰って涼みたいとばかり考えながら足を早めて体育館の脇にある裏門に向かう。こちらから出た方が家に近いのだ。視界を追い越していくのも見慣れた風景だし、ダーンダーンと響くボールの音もいつもの日常のはずだった。
どこで間違えてしまったのか、今わたしの目の前では肩にスポーツタオルをかけた白布くんが汗を拭いながらわたしの行く手を阻んでいる。そうだった。この体育館で練習しているのはバレー部だった。今は休憩中なのだろうか。わたしに気づいたらしい白布くんがこちらをじーっと見ている。
昨日、職員室で怒られているのを見られてから少し気まずいなぁと思っていた。白布くんも気を遣ってか、教えるよと申し出てくれたし。しかも、わたし、それを断ってしまったし。道の真ん中に立つ白布くんをどう避けようかと考えながら足の速さを緩めると、遠慮がちに白布くんの口が開かれた。


「今帰り?」
「うん、ちょっと勉強してて」
「ふーん、そうなんだ」


そう言ってからスポーツドリンクを一口喉を鳴らして飲むと白布くんの唇はまた何か言おうと動き始めた。もう会話は終了して帰れるものだと思ったわたしは虚をつかれた気分だ。


「どこで勉強してるの?図書室?」
「うん」
「へぇ……」


わたしから話すことは特にこれ以上ない。白布くんもそれきり何も言わず手に持ったドリンクのボトルを見つめたままだったので、ここらで帰ろうと「じゃあ」と言いながらじゃりっと地面を踏みしめると白布くんは少し慌てたようにわたしに向き直った。


「本当に教えなくて大丈夫?」
「え?うん……」
「そっか」
「ありがとう。部活がんばってね」


まだ何か言いたそうにしている白布くんを振り切るように半ば強引に会話を終了させ手を振ると、白布くんも「うん」と片手を軽く上げた。表情から感情が読み取れないのは一年のときから変わらない。
白布くんの厚意は有り難いし、彼のことは嫌いでもない。自分一人でやり切ることが力になるなんてキレイゴト言うつもりもない。教えてもらわないとどうにもならないことだってあるのだから。
ただ特別仲が良かったわけじゃない”元”クラスメイトに出来の悪い科目を教えてもらうのは、正直気がひけるし、集中できないと思うのだ。白布くんもあのお説教の現場を目撃してしまったから、その話題しかないから、しょうがなく言ってるのだと思っている。





わたしは次の日も懲りずに図書室で数学の問題集を広げていた。ここにいるメンバーもほぼ昨日と変わりない。つまりそれが分かるくらいに、また集中できていないのだ。それもそのはず。だって、何故か分からないけれど、わたしの隣には白布くんが腰かけているのだから。
え?わたし、昨日断ったよね?今日部活はどうしたの?というか、ここ以外に席空いてるよね?
解きかけの問題の数式をタラタラと書き連ねながらチラリと白布くんを盗み見るとパチリと視線がぶつかる。ふ、と意地悪く口角を上げながら彼が笑うので、わたしは肩が跳ね思わずシャーペンを転げ落としてしまった。
今の笑みは一体どう意味なの?ホントに読めない。シャーペンを拾いながらもう一度白布くんを見ると、彼は既に世界史の資料集に意識を戻してしまっていたので、再び問題に取り掛かっていく。

どれくらい時間が経ったのだろうか。体感的には長く感じられた時間も顔を上げてみればまだ15分ほどしか経っていなくて、頭を抱えた。まず、今解いている問題の解き方が考えても考えても分からないし、白布くんが隣にいる理由も分からない。
うんうん唸っていると隣の白布くんが呆れたように溜息をついてわたしの方に体を向けた。


「手止まってるけど?」
「……休憩中なの」
「分かんないんだろ?」
「……」


聞いてくるあたりが意地悪だ。わたしが数学苦手なのは十分知っているはずなのに。けれど教えてもらうことを拒否してしまっているわたしが彼に聞けるわけがないのだ。もうここまでくれば意地みたいなものなのだ。じとりと睨み上げると「貸して」と言いながらノートを取り上げられる。


「こういう問題のときはこの公式をこうやって使うんだけど……」


さらさらと流れるように数式が綴られていく。いつもの授業では呪文のように訳が分からないものが白布くんの手によって意味あるものに変えられていく。まるで魔法だ。


「すごい……白布くん、すごいね」


ポカンと口を開けて感動していると、一瞬だけ目が合った白布くんは心なしかいつもより顔色が良く見えた。ほんのりと頬のあたりがピンク色だ。
それでも口を真一文字に結んだままの白布くんはぶっきらぼうに「この問題も似たような問題だから解いてみて」とシャーペンの先で問題集を突っついた。

白布くんに教えてもらってから調子がいい。あれだけでコツが掴めてしまったようで、スラスラと気持ちがいいくらいテンポよく問題が解けてしまう。
しっかり集中してたみたいで、気がつくと図書室にいたはずの生徒たちの人数が減ってしまっている。
一回休憩挟んでもうひと頑張りしようかな。うーん、と伸びをして隣の白布くんに声をかける。別に一緒に勉強してるわけじゃないんだけど、何となく勝手なことが出来なくて……教えてもらったし。


「ちょっと飲み物飲んでくるね」


つんつんと彼の程よく引き締まった腕をつつけば、白布くんは弾かれたように資料から顔を上げ、わたしもその勢いに驚いてしまう。そういえば、わたし、男の子の腕を直接触ったことなんて高校に入学してからほぼなかった気がする。急に恥ずかしさが込み上げてくる。なんてことしてしまったんだ。だから白布くんもこんなに驚いてしまったんだ。


「あ…え、と……急に触ってごめんね」
「……いや、こちらこそ…」


何だか居心地が悪くなってそそくさとその場から去ろうと思ったけれど、白布くんも席を立ち始めわたしの頭にはハテナがたくさん浮かんでいた。


「休憩、行くんだろ?」
「え?うん」


何故か白布くんの後ろをついていく羽目になる。おかしいな、わたしが言い出しっぺのはずなのに。
そのまま自販機の前までくると二人でジュースを購入して近くのベンチに腰かけた。なるべく端に寄って座ったはずなのに、白布くんは気を抜けば腕同士が触れ合いそうなくらい近いところに腰を下ろしてしまった。
何を話せばいいのかわからず、居心地の悪さを誤魔化すように勢いよくパックにストローを差し込む。


「う、わっ….…」


ジュースの飛沫がブラウスまで飛び散ってじんわりとオレンジの水玉模様が出来ていく。冷静に考えればこうなることくらい分かるはずなのに、わたしは少なからずともこの状況に動揺しているんだろう。慌ててハンカチを取り出して拭き取ったけれど、まだ淡く残ってしまっている。


「苗字さんって案外ドジだな」
「そんなことないもん」


誰のせいだと思ってるの。頬をふくらませば、白布くんは困ったように眉尻を下げた。今日の白布くんは表情豊かだ。同じクラスだったときはこんな表情の変化には気づかなかった。


「ドジだし、頑固」
「頑固……かな?」


確かにそれは友人からも言われたことがある。一度決めてしまったことはなかなか譲れない。人の話はなるべく聞き入れようとは思っているけど納得するのに時間がかかってしまうのだ。
「うん」と返事をした白布くんはいつもの凜とした白布くんとは違って、どこか落ち着きがなくそわそわとパックを持つ指を動かしている。


「苗字さんって彼氏いる?」


意を決したようにパックをぎゅっと握った白布くんは予想だにしない言葉を発した。白布くんも恋バナとかするんだ。彼も普通の高校生だったのかという安心感と、握られたパックから何も飛び出してこなかったことに安堵しながら肩の力を抜くと、白布くんはまた口を真一文字に結んでわたしの方を向いた。


「いないよ」
「そうなんだ」
「白布くんは?」
「俺もいない」
「そっか」
「うん」


続き、どんな話しようか。そんなことを考えながら手元に視線を落とすと、いつの間にかパックを握りしめる白布くんの手が緩んでいて几帳面にそれが折りたたまれていた。


「でも好きな子はいる」
「え?」


好きな子がいるってわたしが知ってしまってもいいの?思わず白布くんの顔を見たけれど、さっきまで雲に隠れていた太陽が出てきてしまい、逆光になって表情がよく見えない。だけどこちらを向いていることだけは分かった。


「その子、彼氏いないらしくって。だから俺、頑張ることにする」
「そうなんだ。応援してるね」


何でそれをわたしに宣言したのだろうか、よく分からない。力強い声にたじたじになりながら何とか返事を返すと、再び雲に隠れた太陽のおかげで満足そうに口角を上げる白布くんを認識できたので、わたしの返事は間違ってなかったのだとこっそり胸を撫で下ろした。





翌日、白布くんにちょうど教えてもらったところが小テストで出題され、おかげさまで今までとは比べ物にならないくらいの出来栄えだった。わたしは返却された答案用紙を見て無表情を装いながら内心ガッツポーズをかました。
この結果はわたし一人の力だけじゃ出すことが出来なかった。一言だけでもお礼を言いたい。だけど、わたしは白布くんの新しいクラスを知らないでいた。だって、二年生になってから最近まで一言も喋ったことなかったのだから。
だけど考える間もなくその機会は訪れた。昼休みに白布くんが一組に顔をのぞかせたのだ。いつだったか一組に来ていたときに一緒にいた飄々とした背の高い男の子も隣に立っている。おそらくその子もバレー部なんだろう。


「あっ、白布くん!」


今度は小テストでいい点が取れた喜びを包み隠さず満面の笑みで白布くんに近づけば、彼が少し唇を噛み締めたように見えた。そこ以外無表情なのはデフォルトだと思うから気にならない。


「あのね、白布くんのおかげで小テストでいい点が取れたの。ありがとう」
「そっか、よかったな」
「うんうん」


お礼だけを伝えたかったのでその場から離れようと爪先の向きを変えようとすると、背の高い男の子が白布くんの脇腹を肘で小付いてるし、白布くんも何か言いたげだ。


「どうしたの?」
「あ、いや……苗字さん、良ければ期末テストの数学も教えるよ?」


最近の白布くんは何だかおかしい。わたしにやたらと勉強を教えようとしてくる。ただの”元”クラスメイトのわたしに。何回か断っているのにも関わらずめげない彼の意図が読めなくて、段々と気味が悪くなってくる。


「……うーん、前も言ったけどそれは大丈夫だから。気持ちだけで嬉しいよ、ありがとう」


白布くんはそれっきり黙ってしまったけれど、横に立っている男の子はニヤつく顔を隠しきれていなかった。


「ねえ、よく分からないけど白布くんものすごく笑われてるよ」
「は?」


ドスの効いた声を出した白布くんが隣の男の子を見上げ、その子の爪先を踏んづけると「ッテ」と微かに呻き声が聞こえてきた。そんな白布くんのことを怖いと思う感情は不思議と湧き上がってこなくて、むしろ年相応の高校生の男の子なんだと思ってしまうわたしは一体何目線で彼を見てるのだろう。微笑ましい光景についつい笑みが零れてしまう。


「またね」


手を振って自分の席に戻る。このときのわたしは調子に乗って苦手の数学を克服できたと勘違いをしてしまっていた。新しく習ったばかりの公式を使う今度の小テストで散々な結果を出して再び青ざめることを知る由もなかったのだ。


20170711/ララ