あのこの欠片

一、二週間前だったか、寮の談話室でぼんやりとテレビを見ていたら宮城ももう梅雨入りしたというニュースを耳にした。けれど、その日だけしとしとと雨が降ったかと思えばあとは晴れ間が広がる日ばかりで、あの気象予報士が言っていたことが本当に正しいのか疑わしいと思い始めていたところだ。ただ湿度が高いおかげでじめじめと地面から湯気が上がっているような感覚がして不快だな、とは思う。
今日もいつもどおり風呂から上がって談話室に寄り適当にテレビを見ていると、同じく風呂から上がったらしい太一が牛乳を片手に現れた。まだ身長を伸ばしたいとでもいうのか、腹が立つ。
見ていた番組が終わって天気予報に切り替わると、ほら、やっぱりな。明日も雨は降らないらしい。もう夏はすぐそこにきているのかもしれない。


「はぁー……」
「賢二郎どうした?そんな溜め息吐いて」
「……いや、別に」


一緒にテレビを見ていた太一は頬杖をつきながら俺に向き直った。ぼーっとしたような顔をしているくせに、的確なことを言ってのけるこいつのこと。きっと今、俺の心の内を読もうとしている。しかし、なんとか読まれないようにと平然を取り繕おうとすれば逆に力が入って眉間にシワが寄ってしまうのは俺の悪いクセだった。


「別にって顔じゃないけど?悩みがあるならお兄さんが聞きますよ?」
「お兄さんって何だよ」
「スタメン勝ち取った今のお前の悩みといえば……恋愛とか?」


おそらく当てずっぽうで言ったのだろう。図星を突かれて肩の揺れた俺を両手で指差しながら「ビンゴ?」と軽く目を見開いた。あまり不必要には人に干渉しない太一だが、今は俺が話し出すのを腕組みしながら待っている。
最近誰に似てきたのか人の心の内を暴くのが上手くなってきたようだ。そうだな。俺は、とりあえず話だけでも聞いて欲しかったのかもしれない。吐き出しさえすりゃ幾分楽にもなるだろうし、諦めもつく。


「俺、正直瀬見さんが羨ましい……」


太一はきょとんとしたのち、思案するように眉を密かに動かした。
そりゃそうさ。スタメンを勝ち取ったというのに何を羨ましがるのか、と思うのが普通の思考回路。
だがスタメンを瀬見さんから奪うことができても、瀬見さんには俺が持ってない才能があった。そして瀬見さんは全く諦めてなかったのだ。
もちろんあの人も悔しい思いをしただろう。なのに、それを後輩たちには見せることなく、ただ黙々と努力し続けていた。もうすっかり前を向いていて、俺の背中のすぐ後ろにいる。敵わないことなんてまだまだたくさんあった。技術的な面だってそうだし、三年生との信頼だってそう。気を抜いてしまえば一瞬で飛び越えられてしまうだろう。俺はたまたまスタメンになれただけだ。俺のプレースタイルがたまたま監督の好きなプレースタイルだっただけなのだ。
そんな瀬見さんには、あの人を陰ながら支えている女の子の存在があった。毎日のように練習を見に来て、かと言ってわーわー騒ぐわけでもない。ひっそりと見守ってくれる女の子がいるということは年頃の男子高校生にとってみれば羨望の対象だろう。
だからといって瀬見さんはそれに驕ることもなく、うつつを抜かすこともない。そうであれば俺だって少しだけでも心に余裕ができていたかもしれないのに。先輩の鏡のようなその人の前では、俺の幽かな恋が不憫で仕方なく思えてくるのだった。


「どういうこと?彼女持ちってところが?」


考えても分からなかったらしい太一は首を傾けた。はっきり言って俺も自分の気持ちをこうだと断言することはできないけどきっと太一の言うとおりなのだろう。先輩とクラスメイトの仲睦まじい様子を目にするのは嬉しくもあり、羨ましくある。俺も普通の男子高校生ってことだ。


「それもあるし……なんていうか、不器用そうなのに部活と恋愛を両立してるのは素直にすごいと思う」
「うーん……まあうまくいってるのは瀬見さんが優しいからってのもあるだろ」


そういう性格も俺にはないところだった。果たして自分は部活と恋愛を両立することができるのだろうか。そもそも相手の女の子と距離を詰める手段さえ思いつかないというのに。


「で、賢二郎の好きな女の子って誰?」


回りくどい言い方をしないのがこいつらしい。心なしか少し楽しげな顔をしているのが癪に触る。ムッとした顔を隠すことは諦めて席を立とうとすれば「待て待て待て」と腕を引っ張られ再び席に戻された。


「ごめんって。真面目に聞くから」


表情は先ほどとはあまり変わっていないが、まあいい。吐き出してしまいたいと思っていたのは自分自身だ。
頬杖をついてゆっくりと空気を肺の中から追い出していく。テレビの中では、今年の夏、ビーチに新しい海の家ができるとやらで特集が組まれていた。


「一組の苗字さんって知ってる?」
「いや……ごめん。知らない……と思う」
「一年のとき同じクラスだったんだ」


記憶を遡って苗字さんが誰かを思い出そうとしているらしい太一は顎を触りながらぼんやりとテーブルを見つめている。きっと彼女は目立つタイプではないから、知らなくても仕方はない。それに俺は彼女と特別仲がいいわけではない。ただただひっそりと俺が勝手に想いを寄せているだけだった。


「どんな子?」


どんな子と言われてぱっと答えるのは難しいけれど、控えめな笑顔で、柔らかで話しやすい雰囲気を纏った女の子だった。ツンケンとした態度しか取れない俺にも毎日「おはよう」と声をかけてくれ、たったそれだけのことで意識してしまった単純な俺はこいつに笑い飛ばされるかもしれない。


「……親しみやすいかんじ」
「仲いいの?」
「いや、連絡先すら知らない」
「へぇー、賢二郎にしては純な恋愛してるじゃん」


俺にしては、とはどう意味だろうか。こいつに俺はプレイボーイに見えるのだろうか。そんなわけあるか。誰だって好きな女の子に嫌われたり、怖がられたりしたらへこむだろ。そう考えたら、自分の行動に慎重にもなる。


「で、何に悩んでるわけ?」
「諦めようかなと思ってたところだよ。瀬見さんみたいにうまくできる自信ないし」


俺の言葉に驚いたらしい太一は背筋を伸ばしながら「賢二郎も人の子だったんだな」と切れ長な目をさらに細めた。失礼なやつ。俺だって人並みに自信をなくすことだってあるさ。
口をへの字に曲げたまま背もたれにどかりと体重を預け、天井を仰ぎ見る。切れかかった蛍光灯がときたまチカチカと点滅しているのが鬱陶しくて瞼を閉じた。


「それにクラスが離れて会う機会もなければ話す機会もないし、どうしようもないだろ」


クラス替えから二ヶ月以上が経つ。その間交わした言葉はゼロ。姿を見かけた回数は二桁をも超えない。それでも色褪せることのなかった小さな欠片は、すっかり研ぎ澄まされて鋭利なものに変わり果て、それはちくちくと心臓を刺し続けていた。


「瀬見さんみたいに、って思わなくていいだろ」


太一の強い言葉に目を開くと同時に頬に冷たい感触がして思わずびくりと震えた。「ん」と差し出されたのはパックの牛乳で一体どこにもう一つを隠し持っていたんだと訝しげに見つめると太一は「まあ飲め」と顎をしゃくった。


「賢二郎には賢二郎の良さがあるよ。お前なりに精一杯やってると相手にはちゃんと伝わるもんさ」


パックについた水滴を拭うついでに、自分の頬にもついてしまったそれを手のひらで拭い去った。が、これではまるで涙をふいているようではないか。
何となく気恥ずかしくなりストローを突き刺して一気に牛乳を吸い上げると、喉を通って冷たいものが腹に溜まっていく。その度に不思議と心は軽くなっていく。
太一は飲み終わった後のパックをぐしゃりと握りつぶしながら鋭い視線をぶつけてきた。


「だから諦めるなんてらしくねえこと言うなって」


……らしくない、か。
同じポジションだからかついつい瀬見さんと自分を比べてしまう節があった。それは、まだちゃんと自分に自信を持てていない証拠なのだろう。でも、瀬見さんは瀬見さん、自分は自分、だ。何故当たり前のことを忘れていたのだろうか。いつもこいつに気づかされる。


「そうだな。悪い。手間かけた」
「いいや、なんのこれしき」


太一は潰したパックをからからと両の手のひらで転がしたあと、ゴミ箱へシュートをするように投げた。それは放物線を描きながらすとんとゴミ箱へ吸い込まれていく。


「さてさて、消灯時間も近いしぼちぼち寝ますか」


「明日も早いしな」と腰を上げた太一に倣って、俺もパックを握りつぶしながら席を立った。
自室に戻って布団に潜り込み、目を閉じると思い出されるのは好きだと自覚した瞬間のこと。遠征で受けられなかった授業のノートを隣の席だった苗字さんがきれいにまとめてくれていたのだった。「見にくいかもしれないんだけど」と、少しはにかみながら渡されたルーズリーフには『白布くんへ』と女の子らしい文字で書かれ、おまけに俺の似顔絵まで書かれていた。切り揃えたアシンメトリーの前髪に、一文字に結ばれた口。どう見ても俺で、顔が熱くなったのを覚えている。もっと愛想よくしてれば弧を描いた口元で似顔絵を書いていてくれたのかもしれない。
そのちっぽけな後悔のおかげで、あのとき、俺はちゃんとお礼を言えたのか、情けないけど覚えていない。ただ、まともに話をしたのはそのたった一回ぽっきりだった。だからこそ、この出来事を忘れることができなかった。





昼休みを告げるチャイムが鳴ると、しばらくして瀬見さんがうちのクラスに顔を覗かせる。これも最近では日常となってしまった風景だ。瀬見さんが人の良い笑顔を見せたと思えばクラスメイトの女の子が慌ただしく弁当を持って駆け寄っていく。二人を取り巻く空気は花が飛んでいるように甘ったるく、気を抜けばそれにあてられてしまいそうだった。
そして大概、この日常を一緒に過ごすのは太一だ。二人を見つめるその目は、キューピッド役を果たしたからか満足気に弓なりに細められているのもいつものこと。
ただいつもと違うのは、飯を早く食えと急かされることだった。適当なことをくっちゃべりながらまったり過ごす昼休みも今日はお互い無言で惣菜パンを口に詰め込んでいく。牛乳でそれを胃に流し込んで、二人同時にパックを置けば太一は突然立ち上がり「行くぞ」と俺の腕を掴んだ。


「行くぞってどこへ?」
「一組に決まってんだろ」
「は!?」


言ってる意味が分からない。何故用もないのに一組に行かなければならないのか。いや、引きずられながらも予想はつく。おそらく苗字さん関連のことだ。
一体何をするつもりなのか、余計なことをして迷惑かけたくはないし目立つのもごめんだ。だけど、もしかしたら会えるかもという期待が段々と膨らんでいく。


「絶対に余計なことするなよ」
「何もしない何もしない。見るだけだって」


念を押すように低い声で唸れば、両手を上げながら歩みを緩めていく太一。一組に近づくと次は移動教室のようで、教室から出てきた教科書を持った生徒たちとすれ違う。ああ、この調子だと苗字さんはいないかもしれない。彼女は一年のときも早め早めに行動していたのだから。
期待が外れたときのショックを和らげるために、彼女がいなかったときのことを想像しながら一組の扉の前に立つ。
「いる?」と頭上から声を降らせる太一に応えるため見上げようとした途端に「あれ?白布くん?」と遠慮がちな懐かしい声が俺の鼓膜を震わせた。


「久しぶりだね」
「……ああ」


相変わらずのこの空気。何となくふんわりとあったかくなるかんじ。だけど、俺は言葉を交わすのが久々すぎて動きがぎこちなくなっている自覚があった。それでついつい余所余所しい態度を取ってしまうのだ。


「どうしたの?」
「いや、バレー部のやつに言いたいことがあって」


咄嗟に嘘をついた俺を、隣にいる太一が笑っているのが分かる。顔を背け、ぷるぷると震えているのだ。いつもなら肘でど突いてやるのに今日は苗字さんの前だから我慢してやる。あとで彼女に感謝しろ。


「そうなんだ。じゃあまたね」


きれいに微笑んだ顔の横で華奢な手のひらがひらりひらりと揺れる。そして彼女はそのまま友人たちと教室を出て行った。手を振り返そうと少し浮かせた自身の手のひらは行き場所がなくなり、太一の背中を思いっきり叩く。
バシンと気持ちのいい音が鳴ると、間髪入れずに太一の呻き声が漏れた。


「太一。俺、忘れられてなかったみたいだ」
「おー、よかったな。それより、背中痛いんですけど」


涙目になりながら背中を丸める太一は俺の顔を覗き込むと、口元をにやりと緩ませた。本来の俺なら腹が立って仕方がないこの表情も今の俺には何にも気にならない。それもこれも苗字さんに感謝しろよ、マジで。


「お前、そんな顔できたんだな」
「うるせーよ」


「嬉しいならもっと嬉しそうな顔しろよ」と覗き込み続ける太一の顔を押しのける。折角苗字さんの笑顔が拝めたというのに、男に顔を近づけられて上書きされたらたまったもんじゃない。


「俺、本気出すわ」


本当に男という生き物は単純だ。ただ名前を呼ばれて微笑まれただけで、何でも出来そうな気がするのだから。


「それでこそ賢二郎!よっ!日本一!」
「だからうるせーって」


ふざける太一の尻にヒザ蹴りをくらわせながら、にやける口元を手の甲で押さえる。でもまあ、なんだかんだこいつのおかげかな。調子のいい太一に感謝の意味を込めてあとで何か奢ってやるとしようか。


20170625/ララ