転がり続けて星になる

月と金星のランデヴー。

川西がそんな洒落た事を、何の理由も無いのに男に向かって言うわけが無かったのだ。あそこで川西が俺と苗字さんを残してドアを閉めた理由も、それより前の言動も、すべての辻褄が合ったのは彼女の姿が見えなくなってからだった。


「………川西…」
「はい」
「うわっ!」


背後から突然川西の声が聞こえた。
気づけば先ほどのドアが再び開いており、川西と白布が顔を覗かせていた。そして辺りを見渡すと、ドアが閉まっている間に起きた出来事を察知したようだ。ここに俺ひとりしか立っていないのを見て、あまり良くない事があったのだと思ったらしい。


「瀬見さん、すみません。余計な事だとは分かってたんですけど、俺たち…」


川西が申し訳なさそうに言った。申し訳ないのは俺のほうである。


「……いいよ。」
「え」
「謝んなよ。余計な事なんかじゃない」


色々と力を貸してもらったのに、俺はまだ自分から動けていない。本当のことを知るのが怖くて逃げていたのだ、その結果自分だけでなく苗字さんの気持ちも踏みにじる事になってしまうとは知らずに。


「俺が馬鹿だったんだから…」


こんなに情けない男は小説でも漫画でもなかなか出てこない。もし登場したとしても、そいつは必ず自分の力で抜け出すだろう。俺みたいに勘が鈍くてどうしようもない奴だって、これまで後輩に世話を焼かれてきた俺だって。


「追いかけてくる」


声をかけると、川西たちは無言で頷いた。そして俺は、まだ冷えきっていない身体を全部使って彼女の走り去ったほうへ駆け出した。
空を見上げれば夕日が沈みかけて美しいグラデーションを描いている。その中で月と金星はまだ、互いに引かれあいどんどん近づいているようだ。その距離が一番近くなるまで、あと少し。





恐らくバス停に向かっているであろう苗字さんを探して走り回るが、別の場所に寄っているのかなかなか見当たらない。ついにバス停に到着してしまった。まさかもうバスに乗ってしまったのか。

ポケットから携帯電話を取り出して、「苗字さん」と登録されている画面を出す。あと指一本動かせば電話を発信することが出来る。彼女と連絡先を交換してからというもの、この動作を何度試し、何度諦めた事だろう。今が実行する時だ。これが最初で最後になったとしても。


「……出ろよ…出ろ…」


呪文を唱えながら電話を発信した。発信中の画面に変わったが、もしかしたら永遠にこのままなんじゃないかとさえ感じた。
俺のような男に愛想を尽かして、もう会いたくないと思われているかも知れない。どうしてすぐに追いかけてこなかったと叱咤されているかも知れない。そう思われて当然だ。でもどうか挽回のチャンスが欲しいんだ、この1回だけで構わないから。

しかし、とうとう電話には応答されることなくツーツーと虚しい音が鳴った。


「瀬見さん」


その、延々と繰り返される電子音に絶望しかけていた時のこと。


「…苗字さん?」
「なんで…」


何でこんなところに、と小さな口で発音しようとしていたらしい。しかし俺と目が合うと途端に視線を外し、バス停からまだ数歩離れた場所にいるのにそこから動かなかった。


「…バスが来るまで話しませんか」


あの日、初めてバス停まで彼女を送った時と同じ言葉を投げかけた。苗字さんは少々戸惑ったようだけど小さく頷いて、しかし、まだ俺との距離を縮めようとはしなかった。


「…ごめんなさい。私、いっぱい迷惑なこと…」
「迷惑なこと?」


これまで苗字さんから受けた言葉やされてきた事について、迷惑だと感じたことは一度も無い。一体なんの話をしているのかと聞こうとしたが、苗字さんは続けた。


「でも、あれは本当です。スズキタダシとはもう何も無いって事は…」


語尾が消えそうになりながら言われ、俺は自分の女々しさに目眩さえ覚えた。情けない。桜の木の下で一緒に写真を撮ってくれた女の子が、俺の下らない勘違いや意地のせいで、悲しそうな顔で俺への気持ちを告白するのを聞くのは。


「苗字さん」
「…は…はい」


俺が名前を呼ぶと、苗字さんはぴくりと肩を揺らせた。何か不穏なことが起きるのを感じ取ったかのように。でも今度こそそれは違う、俺が全部悪かったんだと言わなければならない。


「俺ってどうしようもなく鈍感だし、馬鹿だし、気も利かねえし…自分でも嫌になるくらいだけど」


本当に嫌だった。ウダウダしている俺を見かねた後輩が協力してくれるという有難くも情けない状況とか、スズキが楽しそうに苗字さんの話をするのも、嫌で嫌で仕方が無かったのだ。


「でも自分の気持ちに嘘つくのは、もっと嫌なんだ」
「え……」


それまで俺と目を合わせないようにしていた苗字さんの目が、やっと俺の顔を捉えた。揺れる大きな瞳に気持ちも声も吸い込まれそうになるのを堪えて、俺は静かに深呼吸をした。


「俺、苗字さんが好き」


出会ったのはほんの偶然だったし、今まで見せてきた俺の姿はとても魅力的だったとは思えない。
でも間接キスをした時の紅潮した様子や、一緒に昼休みを過ごした時にお弁当を作ってくれた事、写真を撮った時に恥ずかしそうにはしゃいでいた顔、今こうして「信じられない」と言う目をしているのも、全部俺のものにしたいって思ってしまったのだ。


「……せ…え?」
「スズキとの仲を応援してるとか嘘なんだよ。何で俺じゃなくてスズキなんだってずっと思ってた」


スズキとは何の因果か席が前後だし、あいつの背中を見るたびに苗字さんの事を思い出した。その都度「あの時ああ言えば良かった」などと反省したり、「でもスズキの事が好きなら…」と一歩踏み出せない自分に嫌悪していた。


「……瀬見さん、でも…ほんと、ですか?」


苗字さんはまだ動揺していた。それもその筈なんだが、これが嘘である筈が無い。


「こんな嘘つけるかよ…」


今度は俺のほうが目線を外してしまった。格好悪い顔を見られたくなくて。どこを見れば良いものか視線を落として泳がせていると、苗字さんが拳をぎゅっと握るのが見えた。


「…私もです。瀬見さんに会った日からずっと好きでした」


そして、その拳が震えるくらいに強く握ったまま言った。

俺に会った日、偶然若利に2年へプリントを配るように言われた日。
白布と川西の居る教室の椅子を借りて、その椅子が実は彼女のものだった。その時の俺と来たら、慌てて椅子を元に戻して教室を後にしたっけ。そして放課後、ばらまいてしまったプリントを偶然一緒に拾ってくれたのが苗字さんだ。この日のどこに、俺のことを好きになるポイントがあったんだろう。


「マジか……?」


にわかに信じられなくて思わず聞いてしまったが、苗字さんは頷いた。


「だから、瀬見さんのクラスにあの人が居るって知って…元カノだって事が瀬見さんに知られて、最悪だって思いました」


あの時の事は俺も鮮明に覚えていた。まだ苗字さんを特別に意識はしていなかったものの、スズキの正直で脳天気な「元カノ」という台詞が彼女を傷つけているのではないかと気になったのだ。
でもスズキは、別の意味で苗字さんにダメージを与えていたらしい。だって苗字さんはあの時すでに俺のことが、


「好きです」


過去のことを走馬灯のように思い返している俺を、苗字さんの一言が現在へと引き戻した。
嬉しさで色んなものがこみ上げてきて「俺も」としか返せなかったが、苗字さんはそれでも充分といったように花が咲いたように笑った。桜の下で見たのと同じ笑顔だ。

その笑顔に何とか応えようと口を開きかけた時、エンジン音が聞こえてきて、同時に車のライトが近づいてきた。


「…あ、バス……」


苗字さんの乗るべきバスがきたようだ。もっとたくさん話したいのに「バスが来るまで」と言ってしまった手前、引き止める口実を探すのに時間がかかる。
その間にもバスはどんどん近づいてきて、バス停にきっちりと停車させてしまった。乗り口のドアが開く。前のドアからは数名の乗客が降車した。運転手は苗字さんが乗るのを待っているが、苗字さんは動かなかった。


「……乗りたくないです。まだ」


彼女は足を踏み出さないどころか俺の服をぎゅっと掴んで、この場から離れるのを拒んだ。


「…次のバス、待とうか?」


俺が言うと、苗字さんはこくりと頷いた。胸がいっぱいになり、このままずっと時間が止まればいいのにと願う。バスの運転手は俺たちが乗車する気配が無いのを見て、とうとうドアを閉めて発車させた。

遠ざかるエンジン音の響く中、ピンク色だった空はいつの間にか青みがかった暗い色に移り変わっていた。しかし真っ暗だとは思わなかった。輝く月と金星がすぐ隣同士で、今にも互いの手が届きそうなところだったから。

20170602/リサコ