零れ落ちるきらめき

朝から空を覆っているどんよりとした灰色の雲は、お昼を迎える前から我慢できずに雫をこぼし始めていた。昼食を食べ始める頃にそれは音を立てて本降りに変わる。きっとこの雨であの桜の花びらも落ちてしまうのだろう。季節は一歩先に進もうとしているのに、わたしの恋は完全に停滞してしまっている。
この三日間、瀬見さんとは目も合わなくなった。放課後、バレー部を見に行けばいつも休憩中には見上げてくれていたけど今はそれもない。メッセージのやり取りも怖くて出来ない。休みがないと聞いていたのに、川西くんと白布くんは来週の日曜日がオフだと言っていた。ただ単に忘れていただけなのかもしれない。でもわたしにはどうしても忘れていたようには思えなかったのだ。
いつも見ているから分かる。多分避けられている。わたし、何かヘマでもしたかな。何か怒らせるようなことしたかな。振り返ってみても心当たりがなくて、焦燥感だけが心の中で渦を巻いていた。


「ねえ、瀬見さん、変わった様子ない?」


藁にもすがる思いだった。
お昼を食べ終わっても友人たちと雑談する気にはなれず、早めに教室に戻ってきた。いつもどおり隣の席では川西くんと白布くんがパンを頬張っている。
その様子が、瀬見さんがわたしの作ったお弁当を頬張っていたときと酷似していたので、ぎゅっと胸のあたりを抑えるはめになった。


「あー、いや……」


川西くんは少し気まずそうにちらりと白布くんを見遣る。何か隠してる。こういうときだけ勘が鋭く働いてしまうわたし自身が憎たらしい。ごくんと喉仏を上下させながらパンを飲み込んだ白布くんはパックの牛乳を一口飲んだ後、躊躇せずに口を開いた。


「変」
「お、おい……」
「こういうのは隠してても仕方ないんだって」


慌てた様子の川西くんに白布くんは少しきつめの口調で返事をする。やっぱり。後輩の目から見ても変なんだ。瀬見さんのことをまだ何も知らないわたしでもいつもと違うことが分かるんだから、毎日一緒に過ごしている二人は尚のこと。


「何だかごめんね」
「なんで苗字が謝るんだよ」
「……なんとなく?」


理由もわからないけど何故かわたしのせいな気がした。ただの自惚れかもしれない。でも、もしそれで部活に何か影響が出てしまっているのなら本当に申し訳なくて。


「お昼一緒に食べた後何かあった?」
「え?」
「瀬見さん、あの日の放課後から何かにイライラしてるように見えたから」


あまり人の恋路に興味のなさそうな白布くんが今日は饒舌だ。川西くんも珍しく神妙な面持ちで頷いている。
あの日お昼を食べてから……お互いの教室に戻る前は、あの激写されてしまった写メをわたしに送ってもらって。そのときは笑顔で手を振ってくれていた。それから……。


「あ!」


ガタンと席を立つと川西くんと白布くんは少し驚いた顔をした。謝りつつもう一度自分の席に腰かける。ずっと危惧してたことが起こってしまったのかもしれない。あの日、組章を渡そうと思って部室棟へ向かったとき、タダシとついつい話し込んでしまった。瀬見さんに勘違いされたくないと思ってずっと気を張っていたのに、あの日のわたしは舞い上がっていたから。


「やっぱりわたしのせいかもしれない……」


俯いたわたしを二人が心配そうに見ているのが分かる。「何か出来そうなことがあれば言って」と言ってくれるのはとてもありがたい。だけど、迷惑かけたくないしひとまず自分の力で頑張ってみたい。やっと掴みかけた恋なのだ。


「ありがとう。とりあえず瀬見さんと話してみる」





二人にはそう言ったものの何か策がある訳ではない。体当たりでぶつかるしかなかった。あの日と同じように部活前に部室棟の下で待とうかと思ったけれど今日は生憎の雨で、屋根のないあそこで待つのは無理があった。だから、少し人目はつくかもしれないけど体育館の扉の前で待つことにした。
着替え終わった部員たちが体育館に足を踏み入れようとする度に、制服姿のわたしを怪訝そうに見遣る。こんなところで何してんだ、とばかりの視線に体じゅうが痛い。


「瀬見さん!」


湿気で張り付く制服を整えていると、部室棟から頭にタオルを被せ雨をしのいでいる瀬見さんが走ってきた。わたしの声に顔を上げ、久々に目が合ったと思えばすぐに苦々しい表情に変わり、わたしの眉も下がり眉になる。


「スズキに誤解されるぞ」


瀬見さんはふっと笑顔になったかと思えば、同時にわたしの心を抉る言葉を発した。わたしの心は悲鳴を上げながらも諦めが悪いので、口を開こうと俯きかけた顔を上げたのに、そこには笑顔なのに苦しそうな瀬見さんがいて。
違う。そうじゃない。タダシとはもう何もない。声を張り上げてそう伝えたいのに、呪いにかけられているようでうまく声を発することが出来ない。咄嗟に瀬見さんのTシャツの裾を掴んで、なんとか絞り出すように掠れた声を出す。


「話が……」
「ごめん、部活あるから」


やんわりと解かれた手は行き場所がなくて、仕方なく近くにあったスカートを掴んだ。遠ざかる足音が雨の音にかき消される。掴んだスカートは湿気を含んで重さを増している。冷たい雨は、さっきわたしの手を振り解いた瀬見さんの熱い指先の温度を残酷に強調させながら降り止むことを知らなかった。
馬鹿だなぁ。こんなところで話しかけたら迷惑この上ないだろうに。部活前に集中していただろうに。
ザァザァと勢いを増す雨に紛れて聞こえてくるボールの弾む音が、自分勝手なわたしの後悔を増長させていった。





早く誤解を解かなくちゃ。そう思ってもあのときの瀬見さんの苦しげな表情が忘れられなくて行動に移せない。目尻を下げて目は三日月型を描いているのに、眉根を寄せた切なそうな顔。振り解かれたときに触れた体温はわたしの涙腺を溶かすような熱さで。
会いたい。迷惑かけたくない。触れたい。怖い。誤解さえ解ければ、元のわたしたちに戻れるはずなのに。自分の手で掴みたかったわたしの恋は、追いかけても追いかけても逃げ水のように追いつくことができない。
先日の雨とは打って変わって透き通るような高くて青い空が広がっていた。初夏の陽気を思わせるような日差しが、窓際に座るわたしたちの腕をちりちりと焼く。


「苗字!」


お弁当の包みを広げてウインナーをお箸でつまんだ瞬間に、教室の扉から川西くんがわたしを呼ぶ声が聞こえ、ウインナーはつるりんと元の場所へ収まった。
自分の教室ではないここへ、わたしに用があって来たらしい。いつも友人のクラスでお昼を食べているわたしを見つけるのは大変だったんじゃなかろうか。川西くんは堂々と他の生徒を分け入ってわたしのところへ辿り着くとわざとらしく笑顔を作った。


「ごめん、苗字借りてく」


川西くんが強引に腕を掴んだので、慌ててお弁当を抱え込むと為すがままに引きずられていく。一緒にお昼を食べる予定だった友人たちは、囃し立てるような声を上げているけどわたしと川西くんは別にそんな仲じゃない。
連れてこられたのは、瀬見さんと一緒にお弁当を食べた中庭で、ベンチにはパンを腕いっぱいに抱えた白布くんが待ち構えていた。一体何事だろう。
座るように促され、ベンチに腰かけると川西くんがわたしの隣に座ったので二人にサンドイッチされるような形になってしまった。


「単刀直入に聞くけど、瀬見さんと話出来てないよな?苗字も最近部活見に来てないし」


川西くんが言った言葉に肩が跳ね上がる。そうか、その話を聞くためにこんな状況に仕立て上げられたのか。
風に揺れる桜の木がザワザワと音を立てて、わたしの胸中を表してるかのようだ。あの日ピンクに彩られていた木はすっかり青々としていた。
こくりと頷くと川西くんは息を吐いた。


「瀬見さん、ずっと落ち込んでるしイライラしてるんだよな。本人はバレてないと思ってるみたいだけど」
「生理前の女子みたいだ」


白布くんの発言にぎょっとしていると川西くんも同じことを思ったみたいで、長い足で白布くんのつま先を踏んづけた。じとりと川西くんをわたし越しに睨んだ白布くんも小さく息をつくと「何があったか聞きたい」と言ったので、戸惑いつつも口を開いた。


「瀬見さんが勝手に勘違いしてるわけだ」
「勝手に、というか……わたしの行動が紛らわしかったから」
「とにかく、誤解を解けばいいんだよな」


にっと笑った川西くんは頼もしいようなそうでないような。だけど、今のわたしに頼れるのはこの二人だけだった。「作戦を練ろう」と三人で顔を寄せ合う。川西くんが言うにはこうだ。
わたしが部活を見ても見なくてもどっちでもいいから、とりあえず部活が終わる頃体育館の裏口に来てほしい、と。そこにどうにか瀬見さんを誘導するから二人で話をしろ、ということだ。
任せるしかない。わたし一人では作れない、誤解を解くための絶好のチャンスだ。力強く頷くと二人は頑張れよと言わんばかりにわたしの肩をポンと叩いた。





瀬見さんと一緒にバス停まで歩いたときより、ほんの少し日が長くなったような気がする。西の空にはまだピンク色の夕もやが立ち込めていた。
指定された裏口につくと、部員たちの賑やかな声が漏れ出している。ひとまず全体練習は終わったようだ。結局、わたしは練習を見に来なかった。何となく、瀬見さんの邪魔になるような気がして。
誤解を解くと言っても、言いたいことはあまり頭の中でまとまっていない。急にことが進んだのだ。午後からの授業は全く集中できなかった。
その辺の段差に腰かけると、コンクリートの冷たさがひんやりと体じゅうを駆け巡る。緊張しているわたしには心地いい。段々と群青色が濃くなる空を見上げていると、シューズが床を擦る音が近くで聞こえ、それが近づくにつれわたしの鼓動も早まっていく。


「今日、月と金星のランデヴーが見れるらしいですよ」
「何だそれ?」


川西くんが瀬見さんを誘い出す言葉に噴き出しそうになる。川西くんは緊張を解くのがうまいなぁ。確かに、空には細身の月のすぐ隣に金星が輝いていた。
キィっと扉が開く音がして、わたしは思わず立ち上がる。


「え?どこだ?」


空を見上げる瀬見さんはわたしには気づいていない。「あの……」と声をかけると、わたしを確認した瀬見さんが、目を見開いて息を飲んだのがうす暗い中でも分かった。それと同時にバタンと扉が閉まったので、ビクリと後ろを振り返った瀬見さんは「あいつ……」と独り言ちて、はぁと盛大なため息をついた。


「五分だけ時間をくれませんか」


そう言えば、瀬見さんは先ほどわたしが座っていた辺りに腰を下ろし「座る?」と隣をポンポンと叩いた。気が引けたけど、わたしもそこへそっと腰を下ろす。一人分のスペースをあけることを忘れずに。


「何?」


少し冷たい声のトーンで挫けそうになる。でも、頑張らなくちゃいけないんだ。ぎゅっと拳を握りしめる。


「瀬見さん、わたし、スズキタダシとはもう別れました」


瀬見さんがわたしの方を向くのが分かったけど、反応が怖くてそちらを向けない。握った手を開くとしっとりと汗をかいていた。


「でも、苗字さんはまだスズキのことが好きなんだろ?協力するけど」


協力ってことは瀬見さんはわたしのことは何とも思ってないのかもしれない。心臓が押しつぶされる心地がする。それでも。それは真実じゃないから。


「好きじゃないです」
「じゃあ何でスズキとあんな楽しそうに喋っていたんだ?」
「あれは……」
「それにいつもスズキの話題になると浮かない顔して。それが好きな証拠じゃねえの?」


弁解の余地はないとばかりに捲し立てる瀬見さんはいつもの瀬見さんじゃないみたいだった。いつもの?わたしは瀬見さんの何を知っているのだろう。そこにはイライラを隠しきれていない瀬見さんがいて戸惑ってしまう。だけど、それも瀬見さんなんだと思った。こんな状況の中で。


「違います!それは好きな人に勘違いされたくないと思ってたからです!」
「え?」
「だって、わたしが好きなのは、せ……」


わたしだって譲れない。そんな想いがわたしを熱くして、つい瀬見さんの名前を言いそうになったところでふと我に返った。思わず告白してしまうところだった。かっと体中の血液が沸騰する。このまま誤魔化してしまおうか。視線を泳がせながら最終的に焦点を瀬見さんに合わせると、真剣な眼差しでこちらを見つめていて、ごくりと喉仏を上下させたのが見えた。
ああ、もう誤魔化せない。


「桜の下で一緒に写メを撮った人が好きなんです……」


嘘はついてない。消え入りそうな声で伝えると、立ち上がってお辞儀をする。そして地面を蹴り、その力強い眼差しから逃げるように駆け出した。背中から瀬見さんの「おい!」と言う声が聞こえてきたけれど、もう後戻りは出来ない。
さよなら、わたしの恋。どんなに近づいても、決して寄り添うことができないのは、あの月と金星みたいだったね。


20170527/ララ