背中合わせの恋知らず

その衝撃を音で表現するならば、どくん、ちくり、ずきん、ぐさり、ごーん。という感じだ。ショックを表す擬音の数々、その全てを一瞬にして味わった気がした。

つい先ほどの出来事である。部活に向かうため着替えて部室棟を出ると、前方に苗字さんが立っているのが見えた。
まだウォームアップなんかしていないのに体温が上昇するのを感じ、必死に先輩らしい落ち着いた表情を作ってから歩き出そうとしたその時。彼らを見た瞬間俺の足は踏み出される事なくストップした。それどころか反対方向を向き部室棟の陰に隠れた。

思わず身を隠したのは初めてかも知れない。だって誰かを待っている様子だった苗字さんのところへ、スズキが駆け寄って行ったんだから。そして一言二言会話をするのみではなく、その場で話し込んでいるのが聞こえた。
耳をすませてみても会話の内容までは聞こえない。しかし確かにはっきりと、ふたりが時折楽しそうに笑い合う声が聞こえてきた。


「英太くん、英太くん」


そして気付けば部活が始まっており、あのおぞましい光景から俺を現実に引き戻してくれたのは、天童の脳天気な声であった。振り向くと彼の手には何故か、俺のクラスの組章が握られている。


「これ英太くんのでしょ」
「……俺?どうだろ…」


確かに俺は三年一組だが、組章はいつもブレザーに付けているはず。どこかで落とした記憶もないし、今朝着替えた時だって確かに組章は付いていた。


「英太くんのだよ。瀬見さんに渡してください〜って言われて預かったんだもん」
「……え」
「二年の女の子から」


今日俺は一体何度、身体をびくりと震わせるはめになるのだろうか。本日何度目かの驚きで肩を強ばらせた俺を天童は見逃さない様子であった。ひらひらと組章をかざしながら、俺の顔のパーツが1ミリでも不自然に動いていないかを観察しているのだ。


「英太くんの事探してるみたいだったけど、取り込み中ぽかったから預かってきてあげたよん」
「…取り込み中?」
「一組に居るじゃん?テニス部の爽やかくんが!そいつと仲睦まじそうだったの」


幸か不幸か、天童が持っている組章は俺のもので間違いないようだ。そして天童に組章を渡したのも苗字さん、天童の言う「テニス部の爽やかくん」は紛れもなくスズキの事である。

ふたりは仲睦まじく、していたのか?確かに俺から見ても仲が良さそうだった。俺と会った時には聞いたことがないような、高い声で笑うのが聞こえた。

スズキは三組の女の子を狙っているはず、しかし苗字さんはどうだろうか?スズキの話をする時に見せていた物憂げな顔とか、彼の話を避けたいような素振りを見たときは、まだスズキの事を好きなのかなとは思っていた。けれど最近は俺からもスズキの話をしなかったし、彼女もスズキの事なんか何も言わなかった。
苗字さんの中でスズキタダシは過去の人間になっているとばかり思っていたのに。頑張れば今度は俺が苗字さんの隣に居られる、その可能性があるものとばかり。


「…英太くん。棄てちゃうよ」


ずっと組章を持っていた天童がそう言ったので、やっと俺は受け取った。今は考えちゃだめだ、部活が終わってから考えよう。もやもやした気持ちを組章と一緒に、ポケットの中に突っ込んだ。


「そういや、お昼はどうでしたか」


それなのに、俺が一生懸命思い返さないようにしようと努めているのに、残酷な後輩が苗字さんの話をしてくるもんだから。


「どうって?」
「いやー、楽しく過ごせたのかなと」


川西は俺のためを思って様子を聞いているのだ。横で黙っている白布だって、これまで何度も協力の姿勢を見せてくれたではないか。「楽しかったよありがとう」それだけ返せば済む話、なのに、今となっては「楽しかった」なんて言葉にするのも辛いことであった。


「買い物行く予定って聞きましたし、良い感じなんじゃないですか」
「…今は部活に集中しろよ」
「え?……すみません…?」


きょとんとした川西の顔を見て申し訳ないと思ったが、それを口にするほどの余裕は出て来ず、踵を返して顔を見られないように歩いた。今日ずっと後輩たちを避け続けなければならないのかと考えるだけで、気がおかしくなりそうだ。





部活を終えてからも寮に戻ってからも、日が明けた翌日の朝練も、俺は川西と白布を避けつづけた。ふたりは明らかに俺の様子がおかしいと気付いているだろう。けれど仕方がないのだ。こんなに格好悪いこと、まだ自分の中で整理がついていないのに他人に話せるわけがない。
朝練が終わってから「お疲れさまです」と声をかけてきた白布に無言で頷くのみで返し、足早に部室を出た。


しかし部活以外にも俺を苦しめるものは存在していた。それも1日じゅう、朝から夕方まで俺の前に座り続ける男が。
スズキはご機嫌なのか、普段はいちいち頻繁に振り向かないのに、俺が席についたことに気づくと身体ごとこちらを向いた。


「あ、組章ちゃんと受け取ったんだな」
「…おう」


苗字さんが天童に組章を渡した時、スズキがその場にいたというのを思い出す。苦々しい気持ちを顔に出さないように堪えながら、鞄から筆記用具を取り出した。
その俺の前でスズキは昨日のことを喋っている、苗字さんが俺の組章を持っていた事、俺が出てくるのを一緒に待っていたらしい事、なかなか姿を現さない俺に痺れを切らして通りがかりの天童に声をかけた事を。


「……ふーん…」


昨日、苗字さんはスズキと待ち合わせていたのではないのか?俺に組章を渡すためにあそこに居たのか?どちらにしてもスズキと楽しげに会話していた事は変わらない。俺に入り込む場所なんか無いんだ。


「瀬見って名前と仲いいの?最近」


俺の気も知らないスズキからはこんな質問が飛んでくる。チェーンソーで心をずたずたにされるような気分だ。


「…そういうスズキは?苗字さんとどうなんだよ。別れてから」
「俺?」


どうにか切り返しの質問をしてみると、スズキの表情が明るくなった。そして昨日の苗字さんとの時間を思い出しているのか、とても嬉しそうに言ったのだ。


「それがさあ、名前が前よりよく喋ってくれんの。だから話が弾んでさ」


ほら見ろよ、スズキと苗字さんは今にもよりを戻しそうな雰囲気じゃないか。とうとう不機嫌な顔を隠せなくなった時、ちょうどホームルームが始まってスズキが前を向いてくれた。


それから昼休みまでずっと虚ろだったが、満腹になると多少マシな気分になる自分にも嫌気がさした。飯食ってご機嫌になるなんて簡単すぎるだろ。…ぜんっぜんご機嫌じゃないけど。
そのまま午後の移動教室の用意でもしようかと思っていたら、ポケットの中で携帯電話が震えた。


『こんにちは。服装検査は大丈夫でしたか?』


つい昨日の昼間までの俺なら飛び上がって喜んだかもしれない相手からのメッセージ。幸い通知画面を見た段階で気付けたので、既読にはなっていない。だって読んだことが知られたら、返信しなきゃいけないから。
いったん気付かないふりを決め込んで、どのように返すか、または無視をしてしまうのか考えよう。





放課後の部活では後輩たちとあまり関わらずに済み、一番落ち着く自分の部屋で大の字に寝転んだ。

あの子はスズキのことを好きなんだ、と一瞬でも考えるだけで苦しくなるのは俺の心が弱いからか?何か別のことに集中すれば気が紛れるのだろうか。

すがるような気持ちで携帯電話を手に取ると、未読のメッセージが1件来ていた。…昼間からずっと未読にしている、苗字さんからのメッセージだ。今日の服装検査で俺が引っかからないようにするために、昨日わざわざ届けようとしてくれたのだ。お礼の返事だけ送って、それで終わりにしよう。

こうして俺が悩んでいる今だって、もしかしたらスズキと電話をしているかも知れない。あの可愛くて、俺の周りの誰も真似出来ないような透き通る声で笑っているかも。


『ありがとう。大丈夫だった』


だからと言って淡白すぎる返事では苗字さんが嫌な気持ちになるかも知れないし、考えた末この内容で送信した。これで終わりだ。せいぜい『良かったです』と返ってくるぐらいだろう、なんなら無視してくれて構わない。返事が来るたびに苦しい思いをするのは御免だ。


『お疲れ様です!良かったです』


だけどこんなときに限ってすぐに返事が来てしまうのだ。さらにたて続けに送られてきた次のメッセージで、俺は一瞬息が止まった。


『次のお休みはいつですか?』


俺の休みなんか聞かなくてもいいんじゃないのか、俺と買い物に行って何が楽しいんだろう?スズキとの仲が戻ってきたんじゃないのか?この子は何がしたいんだ。

もやもやは段々と苛々に変わってきて、けれど苗字さんに当たることも出来ず、ひたすら自分の頭をかきむしった。どうすればいい。俺はもうメッセージを既読にしてしまった。どうすればいい?


『ごめん、しばらく休みは無いらしい』


この一文を送るまで30分もの時間を費やしたなんて誰にも言えない。一気に疲労感を感じてしまい、その日はそのまま眠ってしまった。





有難いことに、翌朝起きたときには『そうなんですか!部活頑張ってください』というメッセージだけが来ていた。これなら返信しなくても違和感が無い。
そのまま苗字さんとのやり取りをせずに、川西や白布とは俺が明らかに避けまくったおかげで、大した会話をすることもなく朝練から午後の練習までの1日が過ぎた。


しかしいつまでもそうして過ごすのは難しいらしい。


「瀬見さん」


夕方、部室で話しかけてきたのは白布だ。いつにも増して不機嫌そうにしているのは何故だろう、川西の視線も感じるということは彼女が関係している事だろうか。


「…どした?」
「来週の日曜は部活休みですよね」
「?…ああ。そうだけど」


部室の壁にかけられたカレンダーにも俺の部屋のカレンダーにも、来週の日曜日には『体育館使用不可』の文字がある。だから肯定系で答えたのだが、すぐにまずい事をしたと気付いた。


「覚えてたんですね。苗字さんは瀬見さんに、しばらく休みが無いって言われたらしいですけど」


白布の言葉には隠しきれていない刺がある。隠す気もないのかもしれない、俺が彼女を嘘をついたと分かったのだから。


「…そうだっけ」
「俺は単に瀬見さんがオフを忘れてるのかと思って、来週末が休みだって教えてあげました」
「…は?なっ、何で」
「何でって、普通でしょう」


そう言われて俺はたじろいだ。そうだ、こいつのした事は親切で普通のことだ。誤った情報を正しただけ。


「……何か、あんた変ですよ」


ついに白布が俺のことを「あんた」呼ばわりしたせいで、傍観を決め込んでいた川西が慌てて寄ってきた。


「えーっと…すみません。白布は喧嘩売ってるわけじゃ無いんですけど」
「売ってるよ」
「売ってんのかよ。フォローが台無しだわ」
「まあ、べつに瀬見さんの気が変わったんなら仕方ないと思いますけど?俺らにまで変な態度取られるのは腹が立つんでやめてください」


白布の言い分はもっともであった。そして、白布の言葉の中に今後俺がどのように動くべきかのヒントを見出した。これだ。これしかない。


「…そうだな。実は俺、気が変わったんだよ」


俺はもう苗字さんの事を好きではなくなった。そういう事にすればいい。

そうすれば白布や川西に要らない気を遣わせることも無いし、こいつらが苗字さんへ俺の話をする事も無くなるだろう。そして俺のことをだんだんと忘れた彼女はスズキと上手くいく、俺はその進捗をスズキから聞けばいい。


「………は?」


しかし、白布は未確認生物と遭遇でもしたかのような顔でこう言った。


「だから!協力してもらったのは有難いけど…もう大丈夫だから。ごめんな」
「はい?」
「瀬見さんそれって、」


比較的冷静な川西が話しだそうとしたので、俺は力任せにロッカーを閉めて聞こえないふりをした。そのまま部室のドアまで歩き、「じゃあお先に」と声をかけて部室を出た。

これで俺は元どおりの俺だ。好きな女の子はいない、バレーボールと勉強を頑張るごく普通の高校三年生。
部室棟から一歩踏み出すと外はまだ明るく、日が長くなり始めていることを実感する。今日はそれに加えてなんだか生暖かい空気を感じる。明日は雨が降りそうだ。

20170522/リサコ