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ペン先と紙が擦れる音が響く。歴史とは人の動き、先人達の痕跡を辿る作業だ。
たかが歴史、されど歴史。過去の失敗を知らずして現代の成功はない。
法則的に繰り返される歴史を紐解き、二度と同じ間違いを犯さぬために学ぶ。それを怠る者は何度でも失敗するだろう。
数学や科学同様、将来を担う子供達には欠かせぬ学問だった。
そうして彼女が様々なことを語っているうちに、二時間程経過していた。
視界の端で、欠伸をする生徒を認める。ヴェルヴェットは本を閉じて、今日の纏めに入った。
「クァージと周辺国の侵略戦争は、断続的に行われてきた。数年平和な時期があれば、突如他国が侵入してくると言った具合にな」
ヴェルヴェットと視線が合うと、生徒達はぴんと背筋を伸ばす。彼らは、世界の動きを肌で体感した貴重な子供達だった。
「幸い、ベネディスク王朝に代わってから我々は未だ内乱と言うものを経験していない。しかし未来は、どうなるか分からない」
クァージ商人には裕福な家系が多かった。この時世、勉強も学べて思考する機会も与えられるなどなんと幸福か。
しかし生活に苦を覚えずとも、戦争の経験は深く記憶に残る。その記憶を葬り去るようなことは決してあってはならない、と続ける。
「侵略戦争が終わった今、次に危惧されるべきことは内乱だ。だが忘れるな、私の下で『何を』学んだかと言うことを」
室内は静まり返っていた。
ヴェルヴェットは子供達の中で何かが変わったのを感じ取った。奥に秘めた意味が伝わったのだ。満足して口許を緩める。
彼女は手を打ち鳴らし、解散を告げた。途端、教室は騒がしくなった。
ヴェルヴェットは白衣の汚れを払い、本を小脇に抱えた。すると、くくいっと袖を引っ張られた。
怪訝に思い振り返ると、そこには先ほど発言した少女二人が、真剣な表情を浮かべて立っていた。
小綺麗な格好をしたほうが、「少し宜しいでしょうか」と口を開く。
「私達、ずーっと議論していることがありますの。なかなか決着つかないから、是非ご意見をお伺いしたくて」
「そのお……エレットリ博士は、本当に殺されちゃったのかってことなんですが……」
気弱そうな少女が俯いた。
ヴェルヴェットが捻くれ科学者の弟子であることは百も承知。その上で質問するには多大な勇気が必要だろう。
ヴェルヴェットは胸の疼きを感じながらなるほどと微笑を浮かべた。そして、「先に、お前達の意見を聞かせてもらえるか」と問う。
すると、最初の少女が語気を強めた。
「私はスペンニトーレ様もエレットリ博士も生きていらっしゃると思います!」
「スペンニトーレ将軍も?」
大富豪の娘は大きく頷いた。
確かにスペンニトーレも行方知れずの一人だ。レダン北方の大監獄へ収檻されたと聞けば、人知れず抹殺されたとも聞く。確率的に師よりは生きている可能性が高かった。
対して彼女の師の場合、自らレダンへ赴かずとも命を狙われていたに違いない。
だからこそ当時、ヴェルヴェットは必死に止めたものだ。反乱軍率いる女帝の魂胆など、端から見ても明らかなのだから。
――しかし、彼女の師は行ってしまった。
「……残念だが、師は帰って来ないと思う。二度と母国の地を踏めないことを分かった上で、私に家名を継がせたんだろう」
将軍のことは分からないが、と付け足される。
すると先生の言葉に彼女は萎れてしまった。少女達に真実を告げることは残酷だが、余計な夢を抱かせるほうが耐えがたい。
と、大人しい性格の教え子が首を傾けた。
「……先生。もう一つ、聞いて良い?」
縦に頷くと、少女は落ち着かない様子で手を組んだ。
「先生は……ギルドが反乱を起こすと思っていますか?」
ヴェルヴェットは思わず息を飲んだ。
反乱の話は広まっていると言えども、学者界の域においてだ。民間には未だ広まらず。
ならば親の話を小耳に挟んだのか。商人の血を引いているだけはあると改めて見直した。
そして、どうかな、と呟かれる。
「今日の昼までは有り得ないと思っていた。だが……全面的に否定は出来なくなった」
「どうしてですの?」
大富豪の娘が素早く口を挟んだ。ショックから完全に立ち直った訳でない。強い好奇心に逆らえなかったのだ。
ヴェルヴェットは何とも言い様がなく、曖昧な笑みを浮かべた。
こればかりは真意を告げることも憚られる。真か偽かも分からぬことで、不用意に恐怖を与えるべきではない。
すると少女も力ない笑みを返した。引き際と言うものをよく分かっている子だ。
ヴェルヴェットが返答を拒否したことを汲み取り、軽く会釈をして、お嬢様気質の友人を引っ張って行った。
赤髪の科学者は、一人、また一人と去りゆく教室で独り立尽くす。世の中は新しい熱狂を求めて動いていた。
抑え切れぬ反発は滑らかな水面に波紋を作る。巨大なうねりは幼い子供達の目に見えるところまで現われていた。
恐怖は棄てろ。
師の言葉が蘇る。しかしヴェルヴェットが人間である以上、恐怖を抱かぬということは、死ぬなと宣告されることと等しかった。
彼女は浮かぬ表情のまま、物音一つしない教室を後にした。
外へ通じる扉をくぐると磯の香りが鼻腔をくすぐる。夕飯時のようだが、未だしばらく太陽が沈む気配はない。
頬を撫ぜる初夏の風は生温かく、張り詰めた心をほぐしていった。
クァージ国は大陸の北に位置せども、西より吹く温風により温暖な気候を保っていた。レダンと同じく、四季にも富んでいる。
「……レダン国か」
そこまで考えて、彼女は歩みを止めた。
思えばレダンとクァージは共通点が多かった。文化も似ているならば仲良く出来て良いだろうにと思う。
しかし、接点が多いほど諍いは生じるものだ。それは国を纏めるのが人間である以上仕方ないことなのかと諦めを交え、彼女は嘆息した。
そして足を踏み出すか踏み出さないかの刹那、
「どーしたヴェラ! 溜息なんか吐いちゃって!」
幸せにげるぞーと陽気な声がこだました。
聞いたことがある声。否、あるなんてものではない。
ヴェルヴェットはこの声を幼い頃から嫌と言うほど聞いている。
首を回すと、思った通り。丸屋根の上で見知った黒髪が光を浴びていた。
短髪の男は赤茶色の瞳を細め、遥か上空から眩しい笑顔を振りまいた。
「んな浮かない顔してないで、俺と一緒にディナーと洒落こもうぜ」
こんな日に限って出会うとは。彼女は予期せぬ出会いに言葉を失っていた。
すると男は困ったようにイガグリ頭を掻いた。屋根の上で跳躍すると、恵まれた運動神経を生かし軽快に着地する。
仕事後なのか。頬に泥が付いていた。それがまた妙に似合うのだ。貴族と言う位置にいるくせに不思議な男である。
華麗な着地の感想を述べる間もなく、ヴェルヴェットは勢いよく肩を叩かれた。
「しっかり者のヴェラちゃんがぼんやりしてるなんて、珍しいな」
「……今度その呼び名口にしてみろ、解剖するぜ」
景気づけにしては痛い。
彼女は肩を擦りながら相手を睨み付けた。と、昼時より彼女を悩ませていた本人――ギルド長フィリップは、白い歯を見せて笑った。
「何だ、割りと元気そうだな」
「どういう意味だ」
屈強な身体をした男は、心配して損したと笑みを零した。居酒屋の一件をディスから聞いたそうだ。
「だからさ、愛しのヴェラちゃんが落ち込んでんじゃないかと思って飛んで来たんだ」
「ディスのやつめ……余計なことを」
彼のことだ。大袈裟に話したに違いない。
だが彼女は、思考の整理が付くまでフィリップには会いたくないと思っていた。
ディスは性格が悪いにも程があるのではなかろうか。その人生の大半を嫌がらせに費やすとは暇なものだ。
しかし、腹黒青年は盲点を突く天才でもあった。昼の議論とて正直受け入れ難いものがあるが、お陰でヴェルヴェットは目が覚めた。
「別に、どうってことはない。それよりお前、仕事サボって来たんじゃないだろうな」
「おいおい、疑り深いな。残りは報告書だけだから、大丈夫だって」
でもヴェラちゃん心配だったから優先したんだ、と恥ずかしげもなく告げる様は、到底天下のギルド長に見えまい。
「……こんなのが国の要を支えているなど、世の中間違ってる」
「なんか言ったか、ヴェラちゃん?」
「気のせいだ」
ヴェルヴェットは次第に恥ずかしくなって来た。昔の名残と言えど流石にちゃん付けは頂けない。
「というか、その呼び方、恥ずかしいを超えて腹立たしいから止めろ」
「でも可愛いぞー?」
「三十路を過ぎた大の男に言われても、全く嬉しくない」
むしろ寒気がすると告げる。
するとフィリップは「それもそうだ」と脳天気に笑った。
その細められた赤茶色の瞳は、捻くれ科学者を連想させた。
フィリップは国王の従兄弟であるが、それと同時に彼女の師とも血縁関係にあった。
一方ヴェルヴェットも師の家名を継いではいるが、血の繋がりはない。事実上、アストゥーラ家は師の消失で断絶している。
だが、元々師の家はフィリップの家や王家と共に、前王朝の分家であった。
四百年を経た現在では血も薄れてしまったが、赤茶色の瞳だけは脈々と受け継がれている。
その懐かしい色を見て、不意にヴェルヴェットは目頭が熱くなった。
「……なぁ、フィリップ」
額に手を当て、細く息を吐く。大きめの声で呼び掛けたつもりだったが、実際に彼女の口から出たのは囁き声だった。
弱々しくて少し掠れて。認めたくないと思えば思う程に胸が疼く。
確信した途端涙が溢れ、小さく蒸せた。
「お前は……私の師が今もなお生きていると思っているか?」
生徒の前では否定したくせに、何を口走っているのかと過ぎる。
ヴェルヴェットは、論理矛盾ばかりの自分が嫌だった。
しかし、見苦しくもがきたくなかっただけなのだ。潔く諦めて格好付けて振る舞ってるだけ。
すると幼馴染みは片手を腰に当て、鼻先を掻いた。そして戸惑い気味の微笑で、「さてな」と静かに首を横に振った。
「だけどヴェラは、そう思ってんだろ?」
願っていた賛同が得られなかったにも関わらず、ヴェルヴェットは曖昧な状態が酷く心地良かった。
「だから一緒に、祈ってやるよ」
柔らかな声と共に、懐かしい色はそっと閉じられた。
続く
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