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二章 緋色の国王
第十一話 サンティッシモ
「満足するな、熱狂するな、孤独を好め」
ヴェルヴェットの師は、酷く変わり者で有名だった。
人嫌いの象徴とも言える人間で、口を開けば文句ばかり。赤茶色の眼光は鋭く、眉間には常に皺が寄っていた。先のひんまがった鉤鼻は彼の性格を如実に表している。
そんなだから、大衆受けはすこぶる悪い。そこら辺の居酒屋にいればただの捻くれ科学者で終わったろう。
しかし生涯通して綴られた反戦論は、その名を不朽のものとするに相応しいものだった。
彼は生前、やや飛び出ている赤褐色の瞳を見開き、よくこう語っていたものだ。
「他人の思考に合わせているようでは、新しいことなど何も産み出せない」
科学者にとって大切なもの。それは想像だと彼は語る。
科学者と芸術家の間に明確な区別はない。各々の領域で「正」と唱えられた法則へ従うことに、何も相違は見られないと言うのだ。
しかし何かの枠の中に収まることは、思考の固定化を生じる。それを打破するためには「正しい」法則へ抗い、全てを疑うことが必要だ。
――満足するなと告げたのは、ここから来ているのだろう。
満足してしまえば疑うことをしなくなる。既存により充足した人間は安楽を保つことへ専念し始め、保守的、防御的になるのだ。
「五感で感知できるもの全て疑い、一般概念に囚われぬことだ。よいか、私の言葉さえも疑うのだぞ」
この点でヴェルヴェットの師は懐疑主義を辿る。
しかし、間違っても拒絶の意は含めてはいけない。拒絶し受容を拒めば、有用なものまで排してしまうかもしれない。
加えて拒絶の根底には「恐怖」という感情が潜んでいるが、理由もなく漠然と恐れれば悟性が失われてしまう。
だから、わざわざ自分から思考を失いにいくのは最も愚かしい行為だ、と口酸っぱく赤髪の弟子へ言い聞かせていたものだ。
お陰でヴェルヴェットは皮肉屋となってしまったが、後悔はしていなかった。
侵略戦争を経て、民衆の熱狂に包まれた経験をした今なら分かる。師は決して、科学のことのみを語っていたのではなかったと。
「思考が嫌なら熱狂しろ」
熱狂は無知を、無知は恐怖を生み出す。
大衆は次第に思考することを忘れ、熱狂のみに支配されていく。
そうすれば為政者の思うまま。真実を見極める心は時として国王の自由を奪うが、大衆を熱中させることに成功すればひとまずの心配は取り去られるだろう。
したがって、恐怖政治において恐怖が武器と認識されるならば、熱狂もまた国王の武器だった。
ゆえに師は恐怖と熱狂をどちらも避けるべきもの、つまり同列のものとして扱った。
しかし人間という生き物はその二つに偏りがちだ。だからこそ彼は、「大衆」と言う名の人間達が嫌いだった。
「戦争を起こすのは為政者ではない。熱狂と言う快楽に包まれた大衆だ」
国民は戦争を扇動した為政者こそが悪だと言うだろう。
しかし、惑わされたにしろ賛同したのは他ならぬ国民だ。
国の要が国民だと主張するならば、国の罪もまた国民のものだ。それをただ一人に被せるのは罪逃れに過ぎない。
「そもそも、扇動は熱狂により育まれるものだ。恐怖と熱狂が対であるように、この二つもまた切り離せぬ関係にある」
だからこそ熱狂に浸かってはいけない、現実から目を逸らしてはいけないのだ。
「可愛いヴェルヴェット、孤独を好め。友人を作るなと言っているのではない。大衆に交わり、思考を忘れるなと言っているのだ」
狂気は伝染する。いかに洗練された人間であろうと、確固たる信念がなければ拒むことは出来ない。
だから我々は授けられる熱狂に抵抗し、思考において孤高を保つべきだ――そう告げた彼の言葉は、世界中を震撼させた。
熱狂に耽る大衆は覚醒し、「エレットリ=アストゥーラ」の名は大陸全土で異色の反戦論者として広まった。
だが、皮肉なこともあるものだ。エレットリの思考は、レダン国内で起きた反乱論拠として用いられた。
今から丁度十三、四年前か。史上最大のクーデターから数年後、二回目に生起した反乱の指導者――現在の女帝は、「国王は熱狂を用いて民衆を支配している」と説き、諸候を唆〈そそのか〉した。
そして、再び反旗は翻された。
しかし、彼らは気付いていなかった。それさえも、熱狂の内で育まれたものだと言う事実に。
エレットリは酷く悲しんだ。己の考えが都合良く解釈され、争いの根拠になっただけではない。未だ彼らは目を覚まさないからだ。
危険に晒された時、レダンを守ったのは誰か。
勝利に酔い痴れて、ロンメル先帝を英雄に祭り上げたのは誰か。
戦火が去り興奮が鎮まった時、人々はふと我に返る瞬間がある。そして熱狂の最中繰り広げられていた思考に嫌気が差し始める。
すると今度は別種の熱狂を求め、用済みだと言わんばかりに、命を救ってくれた人間さえも葬り去ろうとするのだ。
ヴェルヴェットの師は稀に見る優れた人物だったが、それゆえに不幸だった。
エレットリ博士はその後、本業であった科学研究を止めた。そしてレダンへ赴き、自らの口で本来の意味を説いて回ったと言う。
しかしアリアドネ戴冠後、突如姿を消した。理由は言うまい。ただ、一言。彼の言葉は支配者にとって目障なものなのだ、とだけ記載しておく。
それだけ、彼が世界に与えた影響は大きかったのだ。
家名を継いで四年、その思考は今でもヴェルヴェットの行動指針であり続けている。
そしてこの先も、変わることはないだろう。
「先生、手止まってまーす」
ヴェルヴェットは生徒の一言で我に返った。今は授業中だったらしい。机に歴史の本が置いてある。
目の前で、商人の子供達不思議そうに首を傾げていた。
「アストゥーラ先生、具合悪いの?」
「すまない。考えごとをしていた」
さて授業を開始するぞ、とヴェルヴェットは本を開いた。
本日最後の授業は現代史である。教本には彼女の師の著書を使っていた。
第三章の副題は、クァージとレダンの関連性。レダンと聞くとどうしても腹黒青年を連想してしまう。
彼女は昼に悶着あっただけに、あまり良い気分ではなかった。
「知っての通り、クァージ国とレダン国は古くより水面下で抗争を繰り広げていた。隣国同士は利害関係が生じやすいからだ。さて、それが表立って現われたのは――分かる者はいるか」
「はい。クァージ歴一二七五年、旧王暦で言うと四〇一年。ラウロ七世の時代です」
「そう、激しい戦いが続いた。だがラウロ七世率いる軍は敵国に敗退。捕虜となり、王位は息子が継いだ」
ヴェルヴェットは黒板に走り書きをしていく。
「この時、王と共に捕虜となった将がいたのは有名な話だ。名はスペ――」
「はいはい! 先生、私その方分かりますわ! スペンニトーレ様です!」
教室の後ろから黄色い声が上がった。無理もない。スペンニトーレ〈抹消する者〉は英傑として名高い。
不思議なことに本名は歴史に残っておらず、謎の多い人物だが、クァージの人間が「オルペー門の戦い」と聞けば、十中八九彼を連想しよう。
教本には、最後まで忠誠を貫いた誇り高き人物とも記されてある。
捻くれ者エレットリがそこまで称賛するのだ。女性の憧れの的だった。
師の古い友人だったとかで、ヴェルヴェットを含めクァージ国家に縁が深い人物であることには間違いない。
「相変わらず好きだな。しかし……数年後、歴史上最悪の大事件が起きた」
分かる者はと言いながら視線を走らせる。
すると俯き加減のヘレナが彼女の目に入った。これくらいなら分かるはず、と指名。
「ええ?! えーと……ふ、不死鳥のなんだか事件……だったような……」
「馬鹿ね、ヘレナ。『不死鳥の憂鬱事件』ですわよ! 」
先ほどの少女の囁きが聞こえる。すると、ああ、と納得の返事が返った。
「あ、えと、王位を継いだ息子達がフォイエクス団に虐殺された事件……です」
「ああ、そうだ。それにより四〇五年続いた前王朝は断絶。結果、現在のベネディスク王朝が成立し、今に至る」
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