ネモフィラ外伝 星影十夜
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語り部の声に嗄れた声が重なった。
カイザが勢いよく振り向くと、白髪頭の老人――入国管理部の長官が佇んでいた。
彼はいつも通り襟を伸ばし、皺一つ見られないスーツを着込んでいる。しかし衛兵に両脇を固められ、囚人の如き有り様であった。
「あぁら! その声はカストルね」
リリスが憎々しげに呟いた。キースは上手くやったらしい。カストルと呼ばれた長官は、悔しそうにカイザを睨み付けた。そこにかつての白髪頭の好好爺〈こうこうや〉は見る影もなかった。
「長官、貴方はレダンと隠密に取引をしていたのかい」
「ええ、しておりましたねぇ」
「どうして」
すると、不機嫌そうな表情が歪んだ笑みに変貌した。狂気。この言葉が相応しい。
「どうして、ですと? 女帝がお望みだったからです。他に何がお有りで!」
「……そう。君は、レダンのスパイなんだね」
彼の口振りからして、そうとしか言い様がなかった。そしてカイザの言葉は核心を突いていた。
放たれた台詞と時を同じ長官の唇が捲り上がる。カイザは、彼を囲む空気が微かに震えたように思えた。
その異変を、牢内の囚人達も感じ取ったようだ。静かに見守っていた罪人が弱々しい悲鳴を上げ始める。窓のないはずの室内を風が駆け抜けた。その中心で、長官が静かに口を開いた。
「カイザ王子、魔科学〈ヘカテ〉と言うものをご存じでございますか?」
「レダンの独自技術だと言うことは知っているよ」
この部屋で、何かが起きていた。
突然腰を曲げる衛兵。彼らは呻き声を上げて崩れ落ち、その槍が硬い床に衝突した。金属音が緩く反響する。張りつめた緊張感が漂っていた。しかしカイザは何もしていない。――ならば老人の仕業なのだろうか。
カイザは自身の危険を察知し、素早く愛剣を取り出した。こんな辺境だ。キースの助けは期待出来ない。彼が二本の剣を構えたのに合わせ、白髪頭の男が懐に手を入れた。
「水晶を媒体とした一種の科学ですよ。ヘカテを使えると言うことは、レダンの人間にとって、限り無き誉れなのです」
皺だらけの手の中に小さな水晶が光っていた。それも普通の色ではない。真っ白なのだ。水晶と聞くと思い浮かべる水みずしさはなかったが、異常なまでの色彩に寒気がした。
カイザは用心深く後退る――と思うや否や、王子は勢いよく檻へ叩き付けられていた。
「ぐぁ……っ!」
瞼の裏に閃光が走った。息が出来ない。見えないものに喉元を締め付けられる。
カイザはあらんかぎりの力で抵抗した。しかし首を締めている正体を掴むことは出来なかった。
「カイザ王子!」
扉の向こうでリリスが悲鳴をあげていた。背後の檻に収監されていた囚人も狂ったように騒ぎ立て、不協和音にざわりざわりと鳥肌が立った。
「なん……なんだ……ヘカテって、のは……」
剣でも拳でもない。水晶一つでこんなことが出来るなど、まるで魔法であった。
レダンの人間はこんな人間ばかりなのだろうか、父王はこんな人間達と戦ったのだろうか、後から後から戯言が浮かんでは消える。
しかし、それでも。彼は剣を握る手を離さなかった。朦朧としながらも、見えざる力と対向する。
このとき、カイザに希望は見えていなかった。生きる。その願望にしたがっていただけ。けれどそれが幸を奏したということは記すまでもない。
――それは、全くの突然だった。
堅牢な部屋に突如はなはだしき轟音がこだました。何かが破裂したような、という形容が正しいだろうか。意識が遠のく中、カイザは大きな銀色の塊が眼前を横切っていったのを認めた。
それは一直線に長官の元へ。齢八十を超える老人は交わす暇もなく衝突し、塊ごと壁へ叩き付けられた。
その途端金属音が反響し、多少なり歪んでいたが、かつて扉としてリリスを外界から隔てていたものだと解った。
老人は壁伝いに崩れ落ちた。白髪から滴り落ちる、血、血、血。裏切りにまみれた薄汚れた身体からとめどなく、逃げるように流れ出る。
彼は苦悶の表情で身動き、その拍子に砕け散った水晶が飛散した。
「ごほっ……げほっげほっ」
長官の集中力が途切れたせいで、不可視の力も消え失せたようだ。カイザは胸いっぱいに澱んだ空気を吸い込んだ。さっきから何が起きているのか、正直まったく理解出来ていなかった。
カイザは辺りを見渡し、不可解な状況把握に努めた。
「語り部さん」
その女性は、鉄の扉が嵌め込まれていた場所で腕組みをしていた。瞳に怒りの炎を灯らせ、静かに佇む。火事場の馬鹿力と言うやつか。こんな女性が扉を蹴り破るなど、誰も予想だにしなかったに違いない。
リリスは個室から抜け出、カイザに一瞥をくれた。そして友人の無事を確認すると、冷たい足音を反響させ、老人へと歩み寄った。
「カストル、この二年で随分と老けたわね」
「ふふ、わたくしも年でございますからね……」
衰弱した老人は、最早動く気力もないようだ。痛みに耐え、息を切らし、虚ろな瞳だけを動かす。
リリスはその様を嘲るように見下ろし、赤く染まった襟首を掴んだ。
「は! 良い気味だわ。忠誠心も何もない、女帝の捨て駒にはぴったりな格好よ」
吐き捨てるように告げ、殺気を込めて睨み付ける。憎しみ、怒り、そして悲しみが綯い交ぜになった二色の瞳は、それだけで人の命を奪えそうな野獣染みた鋭さを併せ持っていた。
「あの夜、貴方はゲヘナ様を裏切った。そして、オラクル様にさえ刺客を差し向けた」 相手は何も言わない。濁った瞳を宙に漂わせながら、語り部の話に必死に耳を傾けていた。
「ねぇ、貴方の密告で、アリアドネ反勢力の人間が一体幾ら死んだか知ってる? ……知らないわよね」
――貴方は、すぐにシザールへ逃げたから。
するとカストルは、弱々しく喉を震わせた。
「逃げたのではありません。女帝のご命令でした」
言い訳とも取れる反論に、語り部の柳眉が逆立った。震える拳が握り締められる。
それを見て、始終を見守っていたカイザは素早く立ち上がった。
怒りに飲まれたリリスは勢いよく腕を振りかざす。だが、老人が殴られる寸前。彼女は穏やかな声に静止を掛けられた。
「それ以上は、止めてあげなよ」
はっと我に返り、面を上げるリリス。カイザはゆっくりと首を振り、苦々しげに微笑んだ。
「この長官はもう十分君から報いを受けたと思うよ。これから後は、国王と法廷に委ねるべきだ」
言葉を慎重に選んで、紡いでいく。
「さあリリスさん。君はもう、自由なんだ」
彼は敢えて、「自由」と言う単語を強調した。姫君を探しに行きたいなら行けば良い。こんなやつに構っている必要はないのだ。
すると、黒と橙色が微かに揺らめいた。彼女は王子の手を振り払うと、憮然たる表情で立ち上がった。語り部は、最後の最後に、力の限りカストルを睨み付ける。そして小さく礼を告げると、彼女は顔を伏せたまま走り去ったのだった。
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