春眠暁を覚えず(鬼道/無印)
「(ねっ、むぃ…)」
桜咲き乱れ、麗らかな春の日。
ほの暖かい陽気に名前は否応無しに夢の中に引きずり込まれようとしていた。
抗おうと試みているものの、既に取っている数学のノートは式が罫線よりも
上に行ったり下にズレたり酷い有様だ。
「(うぅ、枕…おふと…ん…、恋しすぎるぅ…)」
下に垂れてくる瞼が憎らしい。
黒板を睨みつけるようにして耐えている表情は
きっと教壇から見れば何にそんなに怒っているのかと思われるに違いない。
それでもなりふり構っていられなかった。
何故なら今現在の隣の席は鬼道有人。名前の恋人その人だからである。
好きな相手を隣にして授業中に居眠り…
なんてだらしない姿だけは絶対に見られたくない。
酷い顔をしていても横からなら枝垂れる前髪で彼からは見えないと信じて、
名前は数学教諭の催眠術を凌ぎ切るべく強めに下唇を噛んだ。
▽
「ん…んぅ…?…、…、…っ!!?」
「…すまない、起こしたか名字」
人の気配に薄っすらと目を開けると、
制服のポケットに手を入れた鬼道が名前を覗き込んでいて思わず肩が跳ねる程驚いた。
と言うかそもそも目を閉じている意識がなかった。
何がどうなっているか飲み込めずにいると『目が覚めたか?』と鬼道が聞いてくる。
もしかしなくとも夢の世界に旅立っていたらしい…失態過ぎて声が出ない。
「うぅ…やってしまった…!私はいつから寝てたんだろう…」
「今までは起きていたが?俺が着替えが済むまでの間と10分少々くらいじゃないか?」
あの数学の時間から全く記憶がないが、授業も部活もきちんと目を開けて活動していたらしい。
もはや気力だけで起きていたのか、我ながらそういう所だけは根性があると思う。
「夜に寝られていないのか?」
「日が変わる前には寝てるし、健全な生活送ってると思うんだけどな…」
「まぁ、この気候だ。眠くなるのも分からなくはないが、
あんまり続くようなら病院を紹介しよう。
お前の事だから気になって仕方なくなるだろう」
「見透かされ過ぎて恥ずかしい…」
「何だ今更」
可笑しそうに笑う鬼道が眩しい。
赤がかった橙の西陽が彼の優しさを可視化しているようだった。
春の夕暮れはこんなにも穏やかなものだったろうか。
寝ているの見られるのはちょっと…いや、かなり抵抗があったが、
こんな風に彼と過ごせたのだから今日寝落ちた分は帳消しだと思いたい。
「(…って思って油断してたらまた眠くなって来ちゃった…、
うぅ、駄目駄目!寝ちゃ駄目だ私…!)」
「ーーー…名前、まだ眠いか?」
「…えっ!?いや、そんな事はにゃっ…、…無いよ!?」
「(噛んだ…)…そうか」
「(あぁあ聞かなかった振りしてくれてるけど流し方が露骨ーーー!!)…うん…」
好きな人の前で寝ぼけて噛むなんて土があったら埋まりたい。
そう考えるこの間も瞼がまた重くなってきて悔しい。
せめて会話している時くらい意識を保ちたくて目立たない程度に唇を噛む。
「…今日は送ってやる。袴田が来るまで休んでおけばどうだ」
「いやいや、そんな大丈…!」
「家に帰り着くまでに車に撥ねられるか階段から転げ落ちそうで心配だ。それと…」
鬼道がすっと指を伸ばし下唇をむぎゅ、と押せば歯からそれが離れる。
いきなりの事に名前は目をパチパチとさせた。
「…昼前から思っていたが、黒くなって跡が残るぞ。
噛む癖をつけるのは止めておいた方が良い」
「っ…(見られてた…!)はぁ…何か今日格好つかない事ばっかりしてる…」
「そう言う日もあるだろう。完璧ばかりではいられないさ」
少しくらい欠けていたり隙がある方が可愛げがあって良いんじゃないか、と鬼道は言う。
逆にそんな所も受け止められる相手じゃなければ一緒になんていられないと。
確かにそうなのだが、もし緩々な線引きで相手の許せない範囲を
知らずに超えてしまったら…?
考えると背筋が凍りそうだ。
誰しも大好きな相手に嫌われたくなんてない。
だからやっぱりだらしない所は極力見せたくないと思うのは、乙女心ではないだろうか。
「そう、かなぁ…」
「まぁ、俺個人の意見だ。お前の考え方もあるだろうから押しつけはしない。
だが疲れた時には気を抜ける人間が傍にいる事は忘れるな」
「鬼道君…」
俺がいる、無理はするな、と伝えてくれている。
ありがとうと言えば『礼には及ばん』と返ってくるがそれでもここは感謝する所だ。
どうやって生きてきたらこんな風に優しくなれるのかな、なんて幸せに浸っていると
遂に眠気がピークに達してきてしまう。
「…ふぁ…、話してるのに、眠くなるなんて…もう…本格的に病気、だな…ぁ…」
「別に耐える理由もないだろう」
「ん…変な顔してたら、…ヤだ、から…」
「そうか」
グラグラとしてくる視界に目が回るような感覚を覚える。
机に突っ伏すと絶対に寝てしまうので体を起こそうとするが
横に傾いて倒れこみそうになった。
見かねた鬼道が自らの肩へ頭を寄りかからせてくれたのだが、
安定した代わりにもう下と上の瞼はくっつく寸前だ。
一緒に居られて嬉しい時間の筈なのに
眠気と戦う事に意識を取られるなんて残念過ぎる。
「変な顔というが…涎垂らすくらい幸せそうなお前の寝顔を見ている時間は、
俺は結構好きなんだがな。穏やかになれる気がする」
「−−−…。
−−−…!!?」
聞き捨てならないワードを耳にしてがばっと体躯を起こす。
「よだ…っ!!?」
「どうした、寝ないのか」
「えっ?あの、…え…??」
「気付いてなかったのか?口元を拭いたから起きたんだと思っていた」
「…!!!」
そう言えば寝起きに見た鬼道はポケットに手を入れていた。
あれはハンカチか何かを仕舞っていたのか。
しかし触られたから起きた訳ではなく、それらしい感覚も口元にはなかったはず。
それも気になるが寝顔もじっくり見られていたらしい事実に頬が焼けそうになる。
人前で寝まいと我慢している姿を目にしているのなら起こして欲しかったものである。
「え…待って、鬼道君…!…あの、涎って本当に…??」
「しっかり目が覚めたようだな。さて、じゃあそろそろ校門に向かうぞ。
袴田が着く頃だ」
「答えになってないよー!ホントに本当!?鬼道君ーー!!」
結局、名前の危惧している事の真偽は分からない。
本人の名誉の為か、はたまた名前に警戒されて彼の言う穏やかな時間を削られるのが嫌なのか。
ただ鬼道はいつもの意地悪そうな笑みを浮かべ、答えをはぐらかすのだった…−−−。
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(2019/4/7)
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