第二十一章 金色の獅子


 暗闇に突如として、光の柱が現れる。
 ガコン、という鉄の扉の開かれる音に顔を上げて、橘は肩に纏いついた鎖を振り払い、入ってきた人影に目を凝らした。中肉中背の角ばったシルエットに、総つきの立派な外套を羽織っている。
 犀川だ。気づいた瞬間、扉が閉まって、面会用の照明がその顔を照らし出した。
「久しぶりだな、橘少尉」
「……どうも」
 そうでもないでしょう、という言葉を呑み込んで、短く答える。犀川は一昨昨日の夜にも、ここを訪れている。
 恐らく雨宮から、自分に代わって面会を任されているのだろう。真面目な男だ。〈厳重監視〉目的での収監者には三日に一度、上官が面会して様子を確認する、という軍規にぴたりと則って会いに来る。
 おかげで近頃、食事の回数ではなく、犀川の顔を見た回数でも日付を数えられることに気づいてきた。今日は二十一日目。橘が拘束されてから、ちょうど三週間だ。
 血清剤の影響が出てきて、鎖が重く感じる。引きずるように背筋を伸ばして、橘は犀川の後ろに控えている、もう一人の男に視線を投げかけた。
「珍しいですね、犀川准将。貴方が人を連れていらっしゃるとは。……ご無沙汰しております、シラン少佐」
 呼びかけられて、シランがびくりと肩を跳ねさせる。その様子だと、地下牢の囚人を見たのは初めてか。
 橘は浅く笑って、重たい首を下げた。初めて訪れた者は大抵、見知った人間が仄暗い闇の中で見世物小屋の猛獣のように繋がれている、この場所の光景に絶句する。
 彼のような人間にとっては、特に衝撃が強かったらしい。あ、と口を開いたきり、まともに挨拶もできないでいるシランの手から、犀川が細い紙のようなものを抜き取った。
「本当は夜に時間を取って、ゆっくり来ようと思っていたのだが、入り口の前でシラン少佐と行き合ってな。君にこれを届けたくて、うろうろしていたようだ」
 鉄格子の間からそれを差し入れて、犀川が言う。シランは橘と目を合わせて、申し訳なさそうに視線で詫びた。
 大方、一人でこっそり届けに来ようと思ったが、看守に面会を断られて途方に暮れていたのだろう。地下牢の囚人には、例え将校であっても、雨宮と担当上官――今回の場合は犀川――以外は、事前に面会の予約をしないと会うことができない。滅多に使われることのない場所だから、そういうルールを知らない者も結構多い。橘とて、二年前に収容されるまでは地下牢の規則など目を通したこともなかった。
(電報?)
 鎖の限界まで近づいて手を伸ばし、橘は犀川の手から一枚の紙を受け取った。羽根のように白く軽いそれは、弱った蛍光灯が放つ光の下で、ぼんやりと真珠色に輝く。両手で折り目を開いてみると、中にはたったの一文、片仮名が美しい記号の羅列のように刻まれていた。
 ――ワタシハ カレンナ クロイチョウ。
「今朝、香綬支部へ君宛に届いた電報だそうだが、見ての通り差出人もなければ意味も分からない。軍の支部宛に、こんな電報を送りつけてくるとは……送り主に心当たりはあるのか?」
 犀川は十中八九、どこぞの飲み屋の女からだろうとでも決めつけている口ぶりで、呆れたように問い質した。プライベートな関係を職場に持ち込むのは感心しない、そう言いたげに大袈裟な溜息をついて腕を組む。シランが一層、居心地悪そうに犀川の後ろで視線を背けた。
 だが橘は、犀川の言葉もシランの様子も、目にも耳にも入ってはいなかった。
「……千歳だ……」
「ん?」
「千歳……あいつからの電報だ! 華蓮にいるのか!」
 ガシャン、と鎖が引っ張られて軋みを上げた。橘が片手で鉄格子を掴んだのだ。
 犀川が一瞬、檻の中で吼えた獅子を見たように、全身を竦ませた。それから我に返って、獅子が檻を破れないことを思い出し、咳払いをして諫めるような口調で訊ねた。
「なぜそれが、薊上等兵からだと言えるのだ? 彼女を示すものなど、どこに記されている」
「最後です。黒い蝶……!」
「それが薊上等兵のことだと?」
「いえ、これは暗号のようなものです。俺と彼女だけに共有された、とある暗号……」
 短い電報の中に織り込まれた情報が、橘には立体的な像を前にしているかのように浮かび上がって見えた。華蓮は西華の東部に位置する都市だ。新王都支部が建設される以前は、東黎と最も近い支部を抱え、いわば東黎でいう香綬支部と同じ立ち位置にあった。そして黒い蝶は、ネリネの髪留めだ。橘とネリネの過去を、そして今は千歳と橘を繋ぐ、真実の共有者であることを暗喩する髪留め。加えて、あれは飛ばない蝶である。つまり千歳は華蓮のどこかにはいるが、身動きの取れない状態にあって、自由に飛び立てない。
 それらの情報をすべて、戯言のような恋文に落とし込んで。西華からここまで、検閲の目を掻い潜らせて届けたのだ。
「犀川准将、雨宮支部長はどちらに?」
「三日ほど前から黎秦だ」
「お戻りは」
「さあ、伺っていない。向こうでの軍議が済み次第帰る、とは仰っていたから、一週間程度ではないか? それが何か?」
「華蓮に行きます。この鍵を外していただきたい」
 一分の迷いもなく、橘は「行く」と言い切った。咄嗟に「そうか」と答えそうになってしまって、犀川がはっと口を押さえた。
 嘆願や希望ではなく、それは決定だった。千歳がどこかに囚われている、という可能性が高まったことが大きかった。囚われているということは、生かされているという意味でもある。西華は千歳に利用価値を見出したのだ。それならば何らかの方法を――恐らく弟切と契約を結ばせるなど――取って、彼女を生かし続けるだろう。
 心臓が篝火になったように、橘の胸に、炎が燃え上がった。その炎は地下牢の薄闇をものともせず、行くべき道をまっすぐに照らして、瞼の裏に今は遠い後ろ姿を映し出す。必ずそこへ行くからな、と語りかけるように、橘は笑いを浮かべた。
 生きている、という希望がある限り、この決意は変わらない。三日後でも、一ヶ月後でも、一年後でも――鎖が外れたなら、必ず華蓮へ行く。髪も爪も人ならざるもののように伸び、地に足をつく感触さえ忘れるような、長い年月を閉じ込められ続けたとしても、だ。
(無駄だ。自由になった瞬間、俺は行く)
 ギリ、と鎖が千切れそうな摩擦音を立てた。鉄格子を掴んだ橘の手は、今にもそれを砕くと錯覚させるほどに、握り締めた力で白い皮膚が張り詰めて、骨と血管の凹凸が浮き出している。
 花である犀川には、その手にどれほどの力が潜んでいるのか想像がつかず、耳の裏を冷たい汗が一筋流れた。彼はそれが、橘から見える場所でなかったことに感謝した。彼は今まで橘を、恵まれた能力を持っていながら、それを振り翳すことによって集団の秩序を乱す、放浪の若い雄獅子のような存在だと思っていた。
 だが、悟った。橘は橘なりに、秩序というものに収まるぎりぎりの立ち位置を心がけていたのだ。鋭い牙は隠せなくても、仲間内に無用な恐れを抱かせることはないよう、どんなに吼えても食事をする姿は見せない。そういう、一定の線を設けていた。
 今の彼は、言う通りにしなければこの檻を壊してお前を食らってでも進むという、恐るべき本性を眸の奥にちらつかせている。
 ――下手なことを言えば、鎖を外すか、噛み殺されるかの二者択一に追い込まれかねない。
 犀川は固唾を呑んで、平静を装ってきっぱりと告げた。


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