第二十章 赤い花を愛した人


「やめてください、理不尽な憎しみと初めに申し上げました。分かっているのです。あなたとネリネが入れ替わって、もしもあなたが橘少尉に殺されていたら、ネリネにとってそれは耐え難い苦しみでした。あなたの言う通り、彼女が西華の諜報員だったとすれば、私にだって彼女を助け出すことは困難だったでしょう。結局、何もかもが手に入った道などないのです」
「弟切さん……」
「ナーシサス少佐は――当時は大尉でしたね――あの人は、私とネリネが人知れず休日に会っているのを、偶然にも見かけたことがあったそうです。私と彼女の関係を知っていたと言って、取引を持ちかけてきました」
「それが、橘少尉の大切なものを取ろうっていう話?」
「ええ、そうです。葛藤の隙間に滑り込んだ、抗いがたい蛇の誘惑でした。私があなたを奪えば橘少尉に、私と同じ強さ、深さには到底及ばないが、同じ種類の悲しみを与えることができる。同時にあなたを断花≠ゥら引き離し、守ることもできる。復讐心が大義名分を得て正義に変わったような錯覚を起こし、気づけばナーシサス少佐に協力を約束していました」
 千歳は悔しさに涙ぐんで、唇を噛み締めた。どこまでも人の傷口に手を当てるのが上手い男だ。同じ口で橘の釈放を嘆願し、彼を牢から出したのもまた、ナーシサスである。弟切はその事実を知らなかったのか、先刻聞いて愕然とした表情を浮かべていた。そうやってあちこちで痛みに寄り添うふりをして、多くの人間の信頼を操っていたのだ。
 自分もまた、それに騙されていた一人であり、例外ではない。千歳は窺うように視線を上げて、弟切に訊ねた。
「信じてくれる? 私の言ったこと」
「それは……」
「橘少尉は、誰かを見殺しにできる人じゃない。貴方のことも私のことも守ってくれたみたいに、ネリネのことも、本当は守りたくて奔走していたのよ」
 歯切れの悪い弟切に焦って、千歳は尚も言い募った。手持ちのカードはもうすべて切ってしまって、あとは説得と懇願くらいしか、できることなど残っていない。彼が信じると言ってくれなかったら、次は頭を下げるつもりだった。
 そんな気迫をどこか、肌で感じ取ったのだろう。弟切は言葉を慎重に選びながら、口を開いた。
「信じられるわけがない、と申し上げた件については、謝らせてください」
「じゃあ……っ」
「ただし」
 すでに下げかけていた頭を跳ね上げた千歳に、待ったをかけるように手のひらを翳して続ける。
「私は今この瞬間までずっと、橘少尉を大罪人と思ってまいりました。橘少尉を憎んで生きてきたのです。息を吸うように、食事や睡眠を取るように、いつかあの人に苦しみを味わわせてネリネと私自身の魂を解放したい。そう考えて生活してきました」
「……そうよね。分かるわ」
「骨まで染み込んだこの考えを、すぐには切り替えられません。あなたの話を鵜呑みにして、もしそれが真っ赤な嘘だったらと思うと……っ、私までもがそれを信じてしまったら、ネリネがどれほど絶望するか」
 張りつめた糸を弾くように震えた声を聞いて、千歳は土下座でも何でもしてみせようと思っていたのに、思わずうん、と頷くので精一杯だった。弟切の心の揺らぎが、手に取るように理解できたからだ。ネリネを殺したのは、橘ではないのではないか? そんな考えが脳裏を過ぎるようになったばかりの頃、本当にその直感を信じてみてもいいのか、夜も眠れないほど悩んだ覚えが自分にもある。
 間違うのが怖くて、何度も考えるのをやめようかと思った。でもネリネだったら、誤解に彩られた復讐など望んでいないはずだと思い、真実を求める決意をした。結果として、千歳は橘と話して、彼の語ったことを信じた。
 弟切は受け入れる心構えもないままにすべてを聞いて、それも千歳という仲介を通してしか聞けていないのだ。表情や仕草には平静が戻ってきているが、今の彼の胸中は、嵐の後そのものだろう。
 どうしたらいいか。俯く千歳に、いくらか冷静さを取り戻した弟切が淡々と告げた。
「あなたの話を信じるには、証拠が必要です」
「証拠?」
「ええ。橘少尉が本当に、人を見殺しにしないお方だ、という証拠が」
 弟切は、なぜかじっと千歳を見つめた。戸惑って瞬きをすると、薄い唇が意を決したように開く。
「二週間後のタイムリミットまでに、橘少尉があなたを捜しに来たなら。すべてを信じると約束しましょう」
「え……っ、私?」
「蝶を一匹、飛ばして――薊さんの信じた〈橘少尉〉が本当の姿ならば、あなたのことだって、必ず救おうとするはずですから」
 そうでしょう? と問いかけられて、千歳は言葉に詰まった。考えてもみなかった条件だった。確かにそういう意味のことを言ったかもしれないが、
「無理よ。たった一人の花を捜して敵国に来るなんて、無謀すぎる。居場所だって、今どうしているかだって分からないのに」
「ええ、そうですね」
「それならっ」
「だからこそ、信頼を賭けるに相応しい」
 見殺しにしないのと、無謀なのは違う。そう言い返したいのに、弟切があまりに強く言い放ったものだから、千歳はそれを覆せるだけの言葉がすぐに返せなくて、泣きそうな顔でかぶりを振るしかできなかった。
「冷めてしまいましたね。蘭鋳に言って、温め直してもらいましょう」
 彼はこれにて話は終わったとばかりに、鳥の子色の裾を払い、膳を持って立ち上がった。そうして襖の右側、混沌とした地獄の戸を引いて外に出てゆく。墨で描かれた無数の雲が真っ二つに切られ、また戻る。
(二週間後、までに?)
 もしもこの戸が、あの墨よりも真っ黒な手袋を嵌めた手で、開けられることがあったなら。
 脳裏に思い描いた後ろ姿が振り返って、千歳、と呼んだ。何をしているんだ、早く来い――そう言いたげに。
(……いいえ、無理よ)
 手を伸ばせばそこに現れそうな鮮やかな幻に、千歳は丸めた膝を両腕で抱いた。固く目を閉じ、鼻先を膝頭へ押しつけて、瞼や鼓膜の内側から想像を追い払う。
 髪留めの滴が手の中から、きらりと零れて光った。
 翅が食い込んで、手のひらに跡が残るほどきつく、黒い蝶を握りしめる。千歳は昼食を持った弟切が再び戻ってくるまで、ずっとそうして、痛みで頭を空っぽにしていた。


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