第二十一章 金色の獅子


「そうか。ならばその旨、雨宮支部長がお戻りになったら直接伝えるといい」
「あっ、犀川准将?」
「戻るぞ、シラン少佐。閉じ込められたくなかったら、早く来なさい」
 踵を返して、魂の抜けたように突っ立っていたシランの背中を叩き、出口へ向かって歩き出す。橘は何も言わなかった。ただ犀川は、まるでその気になればいつでも檻から出られる獣が、今回ばかりは自分が立ち去るのを無言で見逃しているかのような、背後に絡みつく眼差しの威圧感にずっと心臓を握られ続けていた。
 重い鉄の扉の内側に、取り残されるところを想像したのだろう。シランは慌てて、大股に去っていく犀川の後を追いかけながら、一度振り返って橘を見た。
 その唇が、何かを言いたげに歪んで、結局言えずに背中を向ける。
 光の中に消えてゆく二つの影を見送って、橘は鉄格子から手を離し、足元の電報を拾い上げた。


 その晩、消灯時間もとっくに過ぎたと思われる頃、地下牢の鉄の扉がにわかに開く音が聞こえた。橘は横になって、暗い天井の隅に打ちつけられた鎖の根元を見つめていた目線を、ぐるりと巡らせた。
 ――面会の許される時間ではないはずだが。
 一体何が来たのかと、起き上がって目を凝らす。細く、背高な影が、何度も後ろを振り返りながら駆けるように入ってきた。金の髪を帽子に隠して、逆光を抜けたその青年は、
「……シラン少佐?」
「ああ、橘少尉!」
 良かった、まだ起きていて。まるで本でも返しに来たかのような、どこか場違いに温かい声でそう笑って、片手を上げた。思いがけない来客に、本部からの事情聴取か、あるいは看守による尋問かと身構えていた肩から力が抜ける。
 シランは戸惑いがちに「ああ」と返事をした橘の正面にやってきて、冷たい床に片膝をついた。扉から漏れる明かりを頼りにポケットを探り、取り出した鍵束のひとつを鉄格子の錠前に差し込んで、
「……は? 待った、何をやって……」
 ガチャン、と扉が音を立てて開かれたところで、橘は我に返って声を上げた。
「何って」
 ギイギイと唸る格子戸を引き開けようとして、シランは「あ、これ上げるのか」と眉を下げて笑った。看守には二人がかりで嵌められた扉だが、蜂にとっては両手が自由なら一人で上げられる重さだ。よいしょ、と言葉ばかりの掛け声に合わせて、扉が外される。
「君の役に立とうと思って」
 格子戸を壁に立てかけて、シランは振り返り、そう答えた。目の前にあった縦の線がすっかり消え失せた視界に、橘は唖然として、夢でも見ているんじゃないのかと瞬きを繰り返した。
 だが、どうやら夢ではなさそうだ。
「お邪魔するよ。ああ、中はずいぶん暗いんだね」
「俺の役にって……少佐、貴方は自分が何をしているか、分かっているんですか?」
「見えるかな。僕、蜂にしては夜目が利かないのだけど……」
「こんなことが知れたら、いくら貴方といったって……!」
 鍵束を光に翳して見比べ始めたシランから、橘は咄嗟に身を引いた。シランが自分を自由にしようとしているのは、もはや明白だった。自由と言えば聞こえはいいが、囚人のそれは脱獄というのだ。脱獄を幇助した罰は、逃げた囚人と同等に重い。
 この人はそれを、分かっているのか。人が良いとか、そんな言葉で片づけられる問題ではないのに。
「俺は確かに、この鎖を外してほしいとは願いましたが。貴方にこんなことをさせるつもりで言ったわけでは……!」
「橘少尉」
 差し出された手を振り払おうとした手の、揺れた鎖が掴まれる。諭すような声音に遮られて、橘は反射的に顔を上げた。エメラルドの双眸が、それを待っていたようににこりと緩む。
「だめだよ、遠慮なんてしたら」
「少佐……?」
「力になりたいって言う奴が目の前にいて、鍵まで持っているんだ。黙って利用してほしいな」
 喉元まで出かかっていた数多の言葉が砕かれて、はっと引き攣れた息と一緒に、橘の胸へ落下していった。シランは冗談めかして「ね?」と首を傾げたが、そこに冗談など一滴も含まれてないことは、彼の目を見れば十分に伝わってきた。
 証拠に、彼はすぐさま一つ目の枷として右手首のそれを選ぶと、鍵束につけられた六つの鍵を次々と試して、あっというまに解錠してしまった。
 右の腕が、重力から解放されたみたいに軽くなる。
 橘は次に、足元に屈んで右足首の枷を外しているシランを見下ろして、にわかには信じられない思いで右手を握ったり開いたりした。
「よし、開いた。あと三つだ」
 重い金属の音を立てて、枷が転がっていく。鎖を引きずる音が派手に響いて――あまりに大きな音がして驚いたのだろう――慌てて止めたシランが、あっと声を上げた。
「落としちゃった」
「え?」
「わ、どれを使ったんだったかな……」
 鍵の束が床に落ちて、一山の枯葉のように広がっていた。拾い上げたシランが、参ったなぁと呟く。使った鍵を手の中に押さえながら錠前を開けていっていたのだが、今のでどれが使用済みだったのか、分からなくなってしまったらしい。
 ええと、と適当な鍵を左足首の枷に差し込んでみるが、なかなか回らない。橘は少し迷ってから、上体を屈めて、シランの手元を指差した。
「これか、これか、これです」
「え……」
「他の三つは、どれも使用済みの鍵です」
 シランの目がガラス玉のように丸くなる。橘はこれくらいの暗闇でも、さほど問題なく見ることができたので、彼の使った鍵を三つとも覚えていたのだ。
 ありがとう、助かったよ。嬉しそうに礼を言われて、何と答えたらいいのか分からず、いえ、と言い淀んだ。三つ目の枷が開く。左手、とシランが次の枷を催促する。
「その鍵」
「うん?」
「支部長だけが所持しているものでしょう? どうやって手に入れたのですか」
 押し黙っているには近い距離を埋めるために、橘は訊ねた。シランがああ……、と視線を下げて、少し言葉を探し、答えた。
「僕はあの人にとって、多分、本当に不出来な息子なんだけどさ」
「……そんなことは」
「いいんだ、期待に応えられていないのは自分が一番よく分かってる。でも、そんなんでも一応、愛息子だっていうのかな」
 外れた左手首の枷をそっと下ろして、シランは襟元に手を差し入れた。そうしてほら、と出てきた彼の指には、二重のチェーンにかけられた、
「支部長室の?」
 大人の手のひらほどもある、立派な鍵が光っていた。
「予備の鍵だよ。本来、支部の金庫に保管されていないとならない規則なのだけど、実はもう何年も僕が預かっている。支部長室の地下が、坂下に繋がっているのは知っているだろう? 自分が留守の間に何かが起こったら、お前のような足手まといはすぐ、そこから逃げるようにって……父が支部長になって間もない頃に、渡されたんだ」
 真鍮の蔓薔薇と蜂を模った中心に、東黎を象徴する深い緑のエメラルドがひとつ、心臓のように埋め込まれている。手にしてみるとずしりと沈み込むような重量があって、経年による真鍮の濁りが、尚更それを重く感じさせた。
 ここだけの話だよ、と苦笑を含んだ声が、頭の後ろで響く。ええ、と頷いた橘の首から、最後の枷が外れた。


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