第二十章 赤い花を愛した人


 衣擦れの音がゆっくりと、眠っていた意識を暗闇から引き上げる。一度目の瞬きで見えたのは、明るい霞。二度目の瞬きでそれが、真昼の淡い光だと分かった。
 欄間の雲の中を、雲一つない青空が流れている。
「あなたという人は、予想もしなかった無茶をしますね」
 墨染めの畳に、銀糸を織り込んだ羽織の裾を流して、弟切が両手で水差しを傾けた。弟切さん。自分が目覚めたことを確かめるように呼びかけた千歳に、彼は視線だけ流して、なんですか、と返事をする。
「来てくれたんだ」
「蘭鋳から、朝食を置きにいったらあなたが倒れていたと報告を受けまして。表の壁に仕掛けた六芒星の封が一角、壊れていました。魔術を使ったのですね」
 それも、手加減なしに。付け加えられた言葉に、千歳は無言で微笑みを返した。
 昨夜、弟切を呼び出す方法を考えていて、思いついたのだ。彼が以前にやってきたのは、千歳が食事を摂らなかったときだった、と。いずれは西華に差し出される番として、彼には恐らく、千歳の生命や健康を維持する何らかの職務が与えられていると思われる。蘭鋳もあのとき、ナーシサスではなく弟切に相談を持ちかけていた。
 それならば、不測の事態によって千歳の身に何かが起これば、駆けつけるのもまた弟切である可能性は高い。だから部屋に仕掛けられた封を使った。術者の体に衝撃を跳ね返して、反抗心を削ぐ封の特性を逆手に取り、自分で自分を攻撃したのだ。
 一か八かの作戦だったが、結果として、期待通りの収穫を得られた。倒れたときは布団には入っていなかったはずだから、弟切が運んで寝かせたのだろうか。全身を灼いたあの痛みは、すっかり幻だったかのように消えている。
 千歳は体の具合を探りながら起き上がって、弟切の差し出した茶器に口をつけた。
「体内の毒が薄れて、力が半減していたから良かったものの……あなたが全力だったら、無事だったかどうか分かりませんよ」
 白湯かと思いきや、白砂糖をほんの少し溶かした、甘みのあるお湯だ。用意していくらか時間が経っているのか、人肌に冷めていて飲みやすい。小言を聞き流して一気に飲み、千歳はおかわりをねだった。そうして弟切が呆れた顔で茶器を受け取ったところで、脚に被っていた布団を折り返して姿勢を正し、口を開いた。
「昨日、ナーシサス少佐が訪ねてきたわ」
 弟切の手元が、にわかに強張る。
「東黎はもうすぐ終わるんだって言ってた。次の満月が最後の日だって」
「ああ……」
「本当なのね」
 弟切の反応で、千歳は確信を得た。ナーシサスの言っていることは、やはり根拠のない脅迫ではなかったのだ。
 茶器が手元に返ってくる。千歳は両手で受け取って、手の中でそれを温めながら、
「どういうことなの? 何が起こるの?」
「さあ。私も詳しくは存じません」
「嘘」
「本当です。再建された新王都支部に研究者が集められ、何らかの西鬼の開発をしている。華蓮支部でも多くの兵士が下準備を手伝わされており、忙しくてかなわないという情報くらいしか、私のような末端には届いてきません」
「ナーシサス少佐は?」
「あの方は、東黎に関する情報の提供者として作戦に関わっているようです。なので私より、多少は内容をご存知なのでしょう」
 弟切の口ぶりには迷いがない。それが嘘の上手い彼の常なのか、本当に嘘をついていないから返答が早いのか、後者であると信じたい気持ちがいくらか大きいものの、千歳には判断がつけられなかった。
 これ以上の問答は、嘘、本当です、の繰り返しになるだけだ。どちらにせよ弟切は、作戦の存在は知っていた。それでも西華につき続けているのが、彼の答えなのだろう。
 千歳は寝間着の前身頃を片手で握って、問いかけた。
「強いほうについて生き残るために、西華に来たの?」
「はい?」
「ナーシサス少佐はそう言っていたわ。弟切さんも、同じなのかなって」
 もしもそうだったら何だか悲しいな、と思いながら訊ねた。いつだって全力を賭して共に戦っているつもりだったけれど、弟切にとっては、勝利の見えない無意味な毎日だったということだ。悲しくて、悔しい。視線を背けた千歳に、弟切がややあってからぽつりと答えた。
「……いいえ」
「え?」
「私はナーシサス少佐から、橘少尉の大切なものを奪ってみたくはないか、と持ちかけられて、彼についたのです。あなたと出会った日に――少尉にとってあなたがかけがえのないパートナーになった頃、君の手で奪わせてやる、と。私を反逆に突き動かした衝動は、ただそれだけです。この戦争の行方にも、我が身の末路にも、一切の興味はありません」
 風一つない静かな眼差しで千歳を見据えて、弟切は言った。千歳は呆然としてしまって、すぐには言葉が出てこなかった。彼の言っていることはまるで、西華についたわけでも、誰に従ったわけでもなく、
「ただ……橘少尉を裏切りたかった。そう言ってるみたいに聞こえるわ」
「その通りですから」
 弟切は言い訳もせず、視線を落とした。
「どうして?」
「報復のためです。私はそれを成さなければ、生きることも死ぬことも納得ができない、生き地獄にあるのです」
 震える声で辛うじて問いかけた千歳に対して、弟切の返事は、まっすぐに通っていて揺らがない。長い時間をかけて積み上げられた塔のような、細くとも天を貫く意志のある声だった。
 橘の何が彼をそこまで、復讐に駆り立てているのだろう。まるで昔の私みたいに憎悪を燃やして――そう思ったところで、千歳ははたと目を見開いた。
 まさか。
「弟切さん、貴方ってまさか……」
「何ですか?」
「ネリネの、恋人だった人?」
 弟切の眸が、大きく揺れた。間違いない。その反応で、千歳は確信を得た。思わず膝立ちになって茶器を置き、畳の上に歩み出る。鳥の子色の羽織を纏った肩に手を触れ、確かめるように掴んだ。
 この人が、ネリネの好きだった人。
「彼女から聞いたのですか。それとも、橘少尉から?」
 感情を押し込めた声で、弟切が訊いた。
「橘少尉からよ。あの人、ネリネの恋人を探していたの」
「は?」
「いいえ、きっと今でも探しているわ。会いたいと思っているはず」
「何を言い出すかと思えば……離してください、あり得ませんよ」
「あり得なくないの! お願い、会って話を聞いて。そうしたらきっと」
「会う? 恋人を殺した男にですか? そんなこと――」
「殺してないの!」
 正気の頼みとは思えませんね、という弟切の言葉を遮って、千歳の叫び声が部屋に響き渡った。唖然とした表情を浮かべて押し黙った弟切に、はっとして口を噤む。それから二度、三度と何から話すべきか迷って唇を開いては閉じ、ゆるゆると首を振った。


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