第十九章 二つの檻


「だったらスパイごっこなんかしないで、さっさと西華に来ればよかったでしょう? ケイもネリネも、坂下での戦いも新王都支部での戦いも……! 貴方のせいで、何人が犠牲になったと思っているの?」
「生きるためには、それもまた必要だったのだよ。亡命は、受け入れてもらえるだけの価値を積み重ねなくてはできない」
「他人の命に代えて自分が生き続けるのは欲深いって、さっき言ったくせに」
「そうだとも。それでも生きたいのが私だと分かったから、今ここにいる」
 ナーシサスの手が、千歳の頤を掴んだ。甘苦しい臭気が差し迫り、視線が引き合わせられて、その目に宿る達観した執念に瞳孔の奥まで貫かれる。
 何人を踏みにじってもいい。何人を騙しても構わない。生きて、残る。それだけが虹彩の内側で、銀河で爆発した星のように燃え続けていて、それ以外には何もない。炎と空虚が、対称的に入り混じった目だった。
 そこはナーシサスの意思だけが、すべてを支配する惑星だ。正義も道徳も、この地上から千歳がいくら訴えたところで、かかる重力や質量が異なっていてまっすぐに届かない。
 ああ、この人は。
(なんて遠くまで、行ってしまっているの)
 目と鼻の先にいながら、手を伸ばしても決して届かない空間の先に彼はいる。分かり合うとか、歩み寄るとか、そんな行為が何一つ意味を成さない何億光年の彼方に、二人は離れているのだ。
 同じさだめを負って生まれた、花なのに。
 こんな途方もない思いを感じたのは、初めての経験だった。絶望が押し寄せる流氷のように、胸を覆い尽くしていく。肩や膝から、螺子が外れるように力が抜け落ちた。項垂れた千歳に、ナーシサスが尚も微笑みを浮かべて言う。
「私としては、むしろ感謝してほしいくらいだがね」
「感謝ですって?」
「君を斜陽の檻から連れ出してやった。私は君の、命の恩人だ」
 囁かれた言葉の意味が理解できず、千歳は動かない首を傾げる代わりに瞬きをした。ナーシサスは千歳に、いっそ慈しむような、とびきり無垢なものを見る眼差しを投げかけると、
「東黎国は直に終わる。次の満月が去った朝が、最後の日の出になるだろう」
 呪文のようにそう告げて、熱のこもった指先を離した。


 鈴虫の鳴き声が、榛色の壁の向こうからリイリイと聞こえ続けている。
 虫の声を静けさと感じるのは、地面の近い、低い家で育った証拠だ。孤児院に入った年の秋、夜毎に響く音の正体が分からなくて寝つけず、十も年下の子供に怖々尋ねたというネリネの話を取り留めもなく思い出して、千歳は布団の上に手足を投げ出した。
 欄間からこぼれる月の明かりは淡い。冷たいシーツを求めて、重い体を撓らせて寝返りを打つ。微熱による倦怠感は依然として纏いついていたが、頭が眠れず、夕食を終えて何時間もこうして横になっていた。
 夕刻、ナーシサスと話をしてから。千歳の中には、様々な思いが浮かんでは消えている。ナーシサスのこと、東黎のこと、自分自身のこと。次から次へと現れる幻のように、耳の奥に、目の奥に、ナーシサスの声が、表情が、暗闇から浮き出してきては千歳の頭をかき乱す。冷静さを保てずに、わけもなく手足を動かしては、足首にかかった枷に引っ張られて深い溜息をこぼす。
 ――東黎は直に終わる。
 最も鼓膜に張りついて千歳を焦燥させているのは、その言葉だった。ナーシサスが去り際に告げていった、呪いのような予言。どういう意味、と問い質そうとした手はナーシサスの肩をかすめて落ち、立ち上がりかけた足が枷に縺れて倒れている間に、彼はそれ以上言うことなく部屋を後にしてしまった。残された千歳は、ずっと考えている。東黎が、終わる。ナーシサスの口調には、確固たる自信が滲んでいた。
 次の満月が去った朝に、西華は何を仕掛けるつもりなのだろう。
 壁に耳を欹ててみても、外をゆく兵士は訓練帰りの下士官ばかりで、やれ教官が口うるさいだの食堂の新しい女給が誰々のお気に入りだの、さして身のある話は聞こえてこない。
 今は一体、何時だろう。時計のない部屋でゆっくりと身を起こして、千歳は月明かりの上を這い進み、冷えた土壁に肩を寄せて空を見た。
 ――やはり、見えないか。
 青白い光を受けて艶めく欄間の、雲の隙間から、どこかにあるはずの月を探してみたのだが。残念なことに方角が悪いのか、この部屋からは見えないようだ。数時間前に探したときも見当たらなかった。そういえば太陽も直視できたことはないな、と諦めて下を向く。
 ……満月の周期が、約三十日。
 気を抜くとぼんやりと火照る頭を集中させて、千歳は計算した。最後に満月を見たのは、いつだったか? 確かここに来る三日か四日くらい前の夜に、弟切と並んでナーシサスの執務室が見える木陰で話をしていたとき、彼が言ったのだ。上弦の月ですね、と。千歳はそのとき、恥ずかしながら上弦と下弦はどちらがどちらなのか知らなかったので、二つの弦月が弓張り月と呼ばれる所以と合わせて、弟切に教えてもらった。
 上弦の月は、満月に向かう月だ。ということはあのとき、すでに満月が近かったということになる。上弦の月から約一週間で満月が訪れると、弟切は言っていた。ならば前回の満月は、ここへ来て間もない頃に過ぎたのだろう。
(ということは、次の満月は約二週間後)
 計算を終えて、千歳は唇を噛み締めた。何とかしてこの情報を東黎に届けなければ、ナーシサスの言う通りなら、かの国は甚大な厄災に見舞われる。黙って見過ごすことなど、できるはずがない。
 だが、あと二週間で――自分に何ができるだろう? 拘束され、見張りをつけられながら日夜衰弱していく身で、できることなどあるのだろうか。二週間、それはちょうど千歳にとってのタイムリミットでもある。弟切との契約は、多分その頃だ。
 そう弟切の顔を思い浮かべてふと、千歳は気づいた。
 彼はこのことを知っているのだろうか?
 知っているとしたら、故国を滅ぼすことにはもう何の抵抗も残っていない。東黎など消えてしまってもいいと思うくらい、彼も西華の人間になっているということだろうか。知らないとしたら――知れば、考えが変わることはあるのだろうか。
(弟切さんと話したい)
 凭れていた壁から背中を離して、千歳は襖を見つめた。月明かりに浮かび上がる天国と地獄、そこには外側から鍵のようなものがかけられているらしく、千歳から開くことはできない。
 会いには行けない。どうにかして、この部屋に弟切を来させる以外、彼と話せる方法はない。弟切がこの部屋に来なくてはならなくなる理由、それさえ作れれば……
 千歳は夜の匂いに溶けるように息を潜めて、しばし考えを巡らせた。そしてふと、一つの可能性に突き当たって、中空に顔を上げた。
 そこには目に見えない魔術への封が、蜘蛛の巣のように張り巡らされている。
(死にはしないわ。……多分)
 速くなる鼓動に片手を添えて、千歳は自分に言い聞かせた。そうして片手を高く掲げ、頭の天辺から爪先まで、一本の芯を通すイメージで深く息を吸い込んで、力の限りに炎を放った。
「――――ッ!」
 バチン、と体の中で電気の塊が弾ける。
 灼けるような痛みが髪や爪や睫毛の一本一本を駆け抜けて、五臓六腑を切り裂き、青白い月明かりが千歳の視界から消え落ちた。


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