第二十章 赤い花を愛した人


「殺してない。あの人は、ネリネを助けようとしていたの」
「助ける?」
「そうよ。香綬支部に潜んだ、西華の監視から――ナーシサス少佐から、救おうとしていたのよ」
「あなたは一体、何を言っているんですか。ナーシサス少佐がネリネを狙った? その結果、彼女は死んだとでも? なぜそうなる」
「なぜって、だって」
 千歳はそこで、自分と弟切の間に横たわっている、最も大きな真実の空白に気づいた。
 気づいて、それを口にしたら弟切がどんな衝撃を受けるかと想像して、躊躇った。発しかけた言葉を喉に詰まらせたのが伝わったのだろう、弟切が今さら何だと言いたげな、訝しげな目で千歳を睨んだ。
 言わなければ、一生この固く縺れた誤解は解けない。
 千歳は心に刀を握るような気持ちで、引き結んでいた口を開いた。
「ネリネが、諜報員だったからよ」
「……は……?」
 弟切の目が、これ以上なく大きく見開かれた。言ってしまった、という悲しみが、千歳の中を怒涛のように駆け巡った。残酷な真実で貫いたのは自分であるはずなのに、胸が痛い。まるで柄だと思っていたら、刃を握っていたみたいだ。
「本当なの。彼女は西華から送られた諜報員だったのよ。だけど変わってしまった。東黎で暮らして、自分の目で世界を見て、自分のしていることの正しさを信じられなくなってしまって、橘少尉に助けを求めた」
「何を言って……」
「それがナーシサス少佐に勘づかれて、裏から手を回して殺されたの。橘少尉が見殺しにした形を装って」
「橘少尉が、そう言ったんですか?」
「そうよ。でも私は」
「そんな話、信じられるわけがないでしょう」
 私はあの人に聞いたからじゃなくて、傍で見ていて、それに気づいたの。そう続けようとした千歳の言葉は、畳の目に呑み込まれた。弟切が千歳の手を、力任せに振り解いたのだ。両足が繋がれていて、よろけた体を立て直せなかった。
 千歳は畳へ頬を強かに打ちつけて、ひりつく痛みに呻いた。視界の端で、弟切の足袋が踵を向ける。両腕を伸ばしてその足にしがみついて、行かせまいと追い縋った。
「離してください。これ以上あなたの話に付き合ったら、その首を絞めてしまいそうです」
「好きにしたらいいわよ。ただし最期の瞬間まで言うわ、橘少尉はネリネを殺してなんかいない」
「……っ、いい加減に――」
 弟切が奥歯を噛み締めて、真上から千歳を睨みつけた。蹴飛ばされる、と覚悟して、千歳は咄嗟に目を瞑った。だが寸でのところで、弟切の中の倫理がそれを押し留めたのだろう。
 彼は千歳ではなく、持っていた漆の盆を怒りに任せて投げ出した。激しい音を立てて開いた水差しと白砂糖の壺が、雨のように中身を散らして転がる。そうして空になった両手で、千歳を引き剥がしたとき。
 ちゃり、と。畳の上に何かが落ちた。
「……え?」
「あ……っ!」
 片方の翅から、朝露のような滴をひとつ垂らした――それはネリネの髪留めだった。千歳は思わず、自分の胸元に視線を向けた。散々弟切に掴みかかったせいか、袷が少し緩んでいる。蘭鋳に見つかって取られないよう、眠るときも肌身離さず、写真と一緒にそこへ挟んであったのだ。
 拾おうとした千歳の手首を、弟切が強い力で掴んだ。
「弟切さん」
 その手はぶるぶると震えていて、血の気の引いた冷たさが千歳の肩まで伝い上ってくるほどだった。
「どうしてこれが……これは……」
 墨染めの畳に落ちた漆黒の蝶を、朽葉色の双眸が食い入るように見つめる。
「……説明してください」
 弟切はそう言って、静かに膝を下ろした。

 朱塗りの膳の上で、煮つけから上っていた湯気がいつのまにか消えている。途中、蘭鋳が運んできた昼食を襖の脇へ置かせたまま、千歳は弟切と向かい合って、自分の知りうる限りのすべてを彼に話して伝えた。
「私の家は、茶道の家元で」
 先を促すための首肯以外、ほとんど何の返事も相槌も挟まずにそれを聞いていた弟切は、話が終わって一番に、そう口を開いた。顔を上げた千歳に、感情の読みにくい静かな目を合わせて応え、ぽつりぽつりと続ける。
「実家は黎秦にあり、長兄が週に一度、近所の女学校へ茶道部のお点前を見に行っていました。しかし私が十六の折、父が病に倒れて、長兄に家督を譲ると言い出して。忙しくなった彼の代わりに、私がその茶道部の顧問を引き継いだのです」
 一滴、一滴。水の垂れるような語り口だった。垂れた水の下には水琴窟があり、一滴ごとに澄んだ音を響かせる。
「彼女とは、そこで出会いました」
 それは思い出と、弟切の心に空いている深い穴だった。ネリネのことを語るとき、弟切の抑揚の乏しい声の中に混じる、金属と水の反響のような清らかさ。愛していたのだ、と知るには十分すぎる響きだった。千歳は黙って頷いて、先を促した。
「そちらの女学校が恋愛を禁じていましたので、恋人といっても隠れた仲で、会うのは部活動の前日、公園の傍の喫茶店でというのが決まりでしたが。そこは茶道部が贔屓にしている和菓子屋さんの隣で、そこだったら先生に見つかっても、お買い物のついでに明日の活動を相談していたと言えるというのが彼女の言い分でした」
 千歳は思わずその会話を想像して、立ち会ったわけでもないのに懐かしさでいっぱいになった。ネリネらしいわ、と思ったのだ。
 優等生に見えて、意外と度胸があって、彼女は時々千歳をぎょっとさせた。禁止されている恋愛小説を「部屋に置くから見つかるのよ」と言って、図書室の本棚に堂々と紛れ込ませて所持したり、間食の持ち込みはしないようにと言われている寮内に、風邪を引いて休んでいる千歳のため、「すっごくドキドキしたわ」と言いながら袂にあんぱんやらチョコレートやら、重たくなるほど詰め込んで帰ってきたり。
 そんな彼女だから、女学校時代に恋人がいたと言われても、あまり驚きはない。
 教えてくれたって良かったのに、と親友としては少し寂しく思うけれど、それだけネリネが弟切のことを大切に想っていて、二人の交際を誰にも咎められたくなかったという証だろう。
 胸に湧く懐古の念を抑えるように、弟切は膝の上で両手を重ね合わせて、
「あなたの話も、彼女からよく」
「私の話?」
「いい子で、笑ってしまうくらい好きで、名前の一文字一文字まで可愛く見えてくる。かけがえのない親友だと。――だから初めてお会いしたとき、お名前を聞いて、すぐに分かりました」
 水琴窟のような声が、硬さを帯びる。千歳の脳裏に、初めて挨拶をしたときの彼の、どこか余所余所しい態度が思い出された。
「私の中に、あなたを守らなくてはという使命感と、どうして今さら現れたのだという理不尽な憎しみが相克しました。断花≠ネどにネリネのみならず、彼女の愛した友人まで枯らされてなるものか。これも何かの運命だ、ネリネに代わってあなたを守る、と。同時になぜ最初から、あなたが橘少尉の契約者にならなかったのか。あなたさえいれば、私もネリネも、こんなに苦しむことは何一つなかったのに、と」
 胸がずきりと痛んだ。最初から千歳が橘の契約者になっていれば、弟切とネリネは恋人同士のままでいられたし、橘が望みのない恋の幕引きに、花殺しの罪を被ることもなかった。この縺れた悲劇の糸をすべて解ける時間軸がいつだったかと言えば、千歳が血液サンプルを提出した、あのとき。切手の料金があと数円足りていれば、弟切の言う通り、こんなに苦しむことは何一つなかったのだ。
 謝りたくて畳に手をついた千歳を、弟切が制した。


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