第十九章 二つの檻


 暗闇に鎖の這う影が、大蛇のようにうねって伸びている。碇を下ろす鎖のような幅の広いそれは、対騎蜂兵用の厳重な拘束具だ。蜂の力をもってしても絶対に切れることはなく、万一切れたとしても、重さがあって全力疾走はできない。
 その鎖を、首と両手足に計五本。枷には一つ一つ、別の鍵が使われており、持っているのは看守ではなく支部長ただ一人である。
 ――相変わらず、まるで化け物扱いだな。
 ジャラ、と顔を上げるだけで煩く揺れる鎖を見つめながら、橘は一人、牢の中で長い溜息をついた。地下は時間が分からないので、看守の持ってくる食事を数えて日付を把握している。
 ワイバーン型との戦いから、今日で二週間。橘は〈厳重監視〉の名目で、地下牢に繋がれていた。
 ガコン、と音を立てて、厚い鉄の扉が開かれる。
「面会の方をお連れしました」
 急に射した光の眩しさに、橘は思わず顔を顰めた。一声くらいかけろよ、と思ったのもあった。看守というのは、支部の中でも非常に特異な存在だ。一般人なのか蜂花なのか、橘も彼らの素性を知らない。囚人たちに食事や風呂の用意をする傍ら、敵兵の捕虜や罪を犯した蜂花の尋問をするのも彼らである。言葉つきや所作は丁寧なものだが、常に黒の覆面で顔を覆い、相手が誰であっても、機械のように態度を崩さない。
 その看守が纏う死神のような長いローブの後ろから、目映い金の装飾に彩られた恰幅の良いシルエットが、歩みを急かすように覗いた。
 橘は背筋を正すと、膝頭を少し開けた跪坐の姿勢を取って、武人の礼をした。
「またここで、君と話をすることになるとはな」
「ご足労をおかけしたようで、申し訳ありません。支部長」
 それは橘からの、最上級の皮肉だった。意図に気づいた雨宮が、苦虫をみ潰したような顔をする。香綬支部の支部長室から地下牢までが、まさか二週間もかかる道程だったとは。あるいはデスクにばかりしがみついていて、足がよほど鈍っているのか。どちらにせよ、雨宮にとってはずいぶんと遠い場所だったようである。
「本部に色々と報告をせねばならなかったのだ。その間に代理として、犀川准将と話してもらった内容については、昨夜彼から聞かせてもらっている」
 また黎秦か、という言葉を、橘は喉元で押し留めた。本部、本部と上の機嫌を取って、早く昇級して激戦区の香綬支部を離れ、安全な黎秦に移り住みたいのが見え透いているのが、この男の気に食わないところだ。支部が一つ襲撃されたのだから、呼べば本部が飛んでくる事態だろうに。わざわざ自分が出向く辺り、上層部に顔を売ることしか考えていない。
 そうやっていずれ息子ごと、本部に引き抜いてもらう心積もりなのだろう。生に貪欲なのは執着がないよりはましだが、自分の生に貪欲ならば、下に生きる者のそれにも同じでなくてはならない、と橘は思う。
 看守が椅子を出してきた。雨宮は鉄格子の向こうでそれに腰を下ろして、脚を組むと、
「此度の香綬支部襲撃、及び七月の新王都支部戦での情報漏洩について、君には一切の心当たりがないというのは事実なのか?」
「事実です」
 きっぱりとした口調で、橘は答えた。同じ言葉を二年前にもここで、雨宮に言った記憶が甦った。――君は門井ネリネ一等兵を見殺しにした、そういうことなんだな? はい、事実です。あのときは嘘だったが、今度は本当だ。
「君の友人だったナーシサス少佐が、死を装って逃亡。同時に君の契約者であった薊上等兵と、君の部下であった弟切伍長が行方を眩ました」
「はい」
「所在に心当たりはないかね。彼らから何か、今回の件について話を持ちかけられたことは?」
「ありません」
 橘は首を振った。鎖がじゃらりと音を立てて、石の壁に反響する。疑いをかけられても、仕方のない状況ではある。一人の人間を中心にして、三人が同時に姿を消したのだ。
 もっとも、橘がことの首謀者であったとすれば、こうなることを見越して彼らと共に消えたはずだ。拘束はされたが尋問というような尋問にあっていないのは、少なくとも首謀者ではない、という点においては確信が持たれているからだろう。何らかの都合で置き去られた、あるいは決裂した仲間であった可能性は、まだ探られている。
「俺に分かっていることは、犀川准将に伝えた内容がすべてです。ナーシサス少佐のマスクを被っていた男が、以前弟切と一緒にいるのを見ました。その男がどうにも引っかかって、弟切の様子を探ろうとし始めた矢先の、今回の行方不明です」
「ふむ……」
 特に新しい情報はなかったのだろう。雨宮は少し、考えるように視線を下へ向けた。
 橘は男が過去に自分を殴った相手にも似ていることを、言おうかどうか迷ったが静かに呑み込んだ。ネリネの死について明らかにするには、時期尚早だ。〈緑の面を被った鬼〉は、まだ潜んでいる可能性がある。
 安易に騒げば、取り逃がす。代わりに、別の話を切り出すことにした。
「支部長」
「なんだね?」
「薊についてなのですが――捜索に行かせていただくことは、できないでしょうか」
「君がか?」
 シランと同じ、淡いエメラルドの眸が驚いたように橘を見下ろす。やはりな、と橘は唇を噛んだ。
 ここに閉じ込められた日に、無理を承知で犀川にも頼んだのだが、何を言うかと一蹴されてしまった。橘としては、犀川がそれを雨宮に伝えてくれることを期待して言ったのだが、伝えるまでもない囚人の戯言として伝言からは省かれていたらしい。
 ナーシサスと弟切と千歳――香綬支部はワイバーン型との戦闘の後、専門の部隊を組んで三人を捜索したが、四日前、その捜索を事実上打ち切った。理由は三人が、すでにこの近辺にはいないと判断されたためだ。彼らはすでに西華へと逃げ切った可能性が高く、深追いすれば逆にこちらが余計なリスクを負う。
 ナーシサスの謀反はほぼ確実として、弟切と千歳については未確定な部分が多いが、彼らを捜すためだけに多数の兵士を危険に曝すわけにはいかない。
 軍の判断とは、常にそういうものだ。膝の上で拳を握り込んで、橘は慎重に言葉を選んだ。
「あれは、H75が効かないのです」
「全くか?」
「はい。初めて会ったときにも、すでに規定の用量を大幅に超えて服用していました。それでもほとんど効果が得られず、命を落としかけておりました」
「確かに、資料によれば彼女は君が初契約だそうだな。平均よりもだいぶ遅い」
「離れてから、今日で二週間になります。そろそろ体に、悪い兆しが表れ始めているのではないかと」
 手元のファイルを捲り始めた雨宮に、畳みかけるように告げる。毒が抜けるまで、約一ヶ月。今日で折り返しだ。
 千歳が今どこで何をしているのか、全く分からない。巴の証言から推察するに弟切が連れていったのだと思うが、ナーシサスも関与しているのだろうか。彼が関わっているとすれば、やはり西華のどこかなのか。連れ去って、何に利用するつもりなのか。なぜ千歳を選んだのか。
 ……無事でいるのか。


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