第十八章 華蓮にて


 含みを持たせた弟切の口調に、千歳はふっと笑いを漏らした。もしかしたら橘のことを、何か知っているのだろうか――そう思わせる口ぶりだ。確かに少し前までの自分だったら、呆気なく感情を揺さぶられたかもしれない。あの人はどうしているの、どこにいるのと、動転して問い詰めたかもしれない。
 でも、今となっては弟切に訊くまでもなく、答えが自分の中に浮かんでくる。
「そうだったら、素敵ね」
「え?」
「西華軍は、優秀な蜂花の番を探しているって言っていたわよね。もしかして、私を連れ去れば、少尉もここへ来るかもって算段? 上手くいったらあの人も捕らえて実験に利用しようって、期待してるの?」
 弟切は答えない。沈黙は是だ。千歳の毒が浄化される前に、橘がやってきたら彼を捕らえて、来なかったら弟切と組ませる。そういう計画なのだろう。
「残念だけど、私じゃ橘少尉を釣る餌にはなれないわ」
「そうでしょうか?」
「あの人は、私がいなくても強いもの」
 微笑んだ千歳に、弟切がかすかに驚いた表情を浮かべた。どうして驚くことがあるのか。ずっと傍で見ていたのだから、意味はよく分かるだろうに。
 契約者として、毒の受け皿としては確かに優秀だったのだろうが、千歳は橘にそれ以上の価値を見出されるような行いはできなかった。むしろ長いあいだ手をかけさせ、散々憎まれ口を叩いて、心を守らせた。真実の共有者になってからは一方的にパートナーを気取って、戦場でもその感覚を引きずって、今度は命を守らせた。
 自分の身は自分で守るのだと、最初に、強く念を押されていたにも関わらず、だ。
 手間ばかりかけさせて、ちっとも橘の役に立たない。契約者としての価値を天秤にかけても、どこかで新しい、もっと従順で気立ての良い花を見つけたほうが、命を張って自分を探しに来るよりずっと楽だろう。
 そう判断されても仕方のない振舞いをしてきたと、この三日間、浮かんでは割れるシャボン玉のように思い返している。
 だからせめて、最後くらいは彼の敵にならないように。本音を言えばもう一度会って喧嘩別れしたことを謝りたいところだが、それが敵わないなら、この体が西華に利用される前に、潔く死んだほうがましかもしれないとも思うのだ。
「……まあ、そうかもしれませんね」
 弟切がふと、畳の目に視線を向けたまま口を開いた。
「冷淡な方ですから」
 吐き捨てるようなその一言に、千歳は思わず弟切の横顔を見た。カチンときた、という表現そのままに、頭の中で怒りが一つ、氷になって罅割れた感覚がした。
「どうして?」
「え?」
「貴方にそれを言う資格はないでしょ? 橘少尉は、貴方の命を救ったわ」
 自分もかつては、何度となく同じ言葉で橘を罵った記憶があるが。それでも、弟切が彼を冷淡と言うのは、お門違いではないのか。蛇神型との戦闘を、忘れたわけではあるまい。
 朽葉色の目が、何かを堪えるように千歳を睨む。初めて向けられた、弟切の食いちぎるような眼差しに、千歳は思わず肩を強張らせた。言ってはいけないことを言ったのだと直感した。しかし同時に頭の奥で、これはチャンスだともう一人の自分が囁いた。
「助けられたくせに、どうして貴方は橘少尉を裏切ったの?」
 察しの悪い、愚鈍な人間のふりをして詰め寄る。ずっと気になっていたのだ。弟切がなぜ、自分と出会った日から西華に寝返ることを決めたのか。でも相手は弟切だ。普通に訊いても、まず教えてはくれないだろう。
 逆上させて、怒りの中から本心を盗みたい。
 しかし弟切は段々と冷静さを取り戻したように、ゆっくりと目を伏せると、
「あなたには関係のないことです」
 と押し込めた声で言った。あと少しで何か聞き出せそうだったのに、そのあと少しが手強い。茶粥の蓋を閉める音に、千歳はそれならと思いついて、弟切の手を掴んだ。
「答えてくれたら、ちゃんと食事を摂る」
「口から召し上がれないのでしたら、胃に管を繋ぐ方法もあります」
 間髪入れずに言い返されて、ぞっとして押し黙る。そんなことはされたくない。
 冷えた金属の重さを足首に感じながら、千歳はじっと、食事を片づける弟切の横顔を眺めていた。弟切はもう話すことはないというように、唇を固く引き結んでいる。
「ケイを信じてくれたのは、どうして?」
 彼が立ち上がるときになって、千歳はぽつりと問いかけた。墨染めの畳を滑る白い踵が、数歩遠ざかってから、ふいに止まって、
「それを知って、どうすると言うのですか?」
「仕事でついてきたんじゃなくて、本当に信じてくれたんだったら、いいなと思って」
 沈黙が流れた。千歳は思わず、ああこれは訊かないほうが良かったんだな、と覚悟した。
 泣かない準備をしなくちゃ。片手でシーツを握り締める。泣いたらケイが惨めだ。なんだやっぱりね、とケイに代わって、笑ってやるくらいでなくては。
「私はあのとき、本来二階へ行って、ナーシサス少佐と共に脱出する手筈だったのです」
「え?」
「しかし階段で前を走っていた兵士が転んで、二階へ上りきれませんでした」
 ぽかんとする千歳を置いて、弟切はそれだけ答えると、膳を抱えて部屋を後にした。閉められた襖の中で、再び一人にされながら、千歳は今の言葉を何度も耳の奥で繰り返す。
 予定していた脱出ができなくなって、一階に残った。しかしあのとき一階の扉はすべてロックがかかっていて、後に橘がシステムを壊すまで、どこからも出られない状態だった。二階へはハルピュイアがいて上がれなかった。つまり弟切も皆と同じ、一階に閉じ込められた状態だったということで、
(それは、つまり)
 皆と同じ選択肢の中にしか、いなかったということだ。彼はその中で、千歳と同じ、ケイを選んだのだ。
(やっぱりそうだ。弟切さんは、何もかもが嘘ってわけじゃない)
 消えかけていた炎がもう一度大きくなってくるような、不思議な高揚感が千歳の胸を満たした。丸まっていた背筋が自然と伸び、蝋のようだった手足の先に血流が巡り始める。目線が斜め上を向いて、視界が明るくなる。
 ――諦めないで訊いてみれば、もっと何か分かるかもしれない。
 虚無のような時間の中に為すべきことが見つかった気がして、よし、と深く息をついた。瞬間、力を入れた腹の底から、子犬の鳴くような声が響く。千歳は驚いて自分の腹を見下ろして、初めてお腹が空いていることに気づき、ぱっと手を伸ばした。
 その手がさっきまで膳の残っていた場所を、空振りする。
「……次からちゃんと食べようかな」
 胃に管を通されるのも勘弁だし、行動を起こすには栄養が必要だ。ここへ来てから食欲など出るわけがないと捨て鉢になっていたけれど、やるべきことがあるうちは、生きなければならない。
 生きているうちは、何かをしなくてはならない。
(そうよ、私はまだ戦える。体だって頭だって、心だって動く)
 密かな決意を抱いて、千歳は足を引きずりながら鏡台の前へ座った。そこに映る自分は、いくらかやつれていたが、想像していたよりもずっと生気のある目をしていた。
 髪を結び、赤漆の蝶を飾って、眉を整える。伸びっぱなしだった爪を切り、敷きっぱなしだった布団を畳んでいるうちに、全身が生きていることを思い出してきたような感覚に包まれた。
 千歳はその日、久しぶりにきちんとした姿で、昼食を運んできた蘭鋳を出迎えた。

 しかし千歳の意気込みと裏腹に、それから三日が経っても一週間が経っても、弟切もナーシサスも一向に姿を見せなかった。


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