第十九章 二つの檻


 ぎり、と手のひらに爪が食い込んだ。千歳のことだ、連れ去られた先で意識があるとすれば、きっと大人しく、されるがままにはなっていないだろう。抵抗して酷い仕打ちを受けてはいないか。脱出を試みて捕まってはいないか。あるいは奇跡的に、脱出に成功してしまって、弱りゆく体で街を彷徨ってはいないか。
 たった一人の人間を捜し出すには、街一つだって広すぎる。国なんて尚更だ。あてがないのも分かっているし、危険なのも分かっている。だが、それでも。
「薊は東黎の人間であり、俺の契約者です。軍による捜索が打ち切られたならば、一人でもいい。捜しに行かせてもらえませんか」
 無理だ、と認められないくらい、そのたった一人の人間にもう一度会いたいときがある。
「……君が、花のために頭を下げるとはな」
 驚いたように、雨宮が深い溜息をついて言った。言葉の裏に潜む「あの断花(きみ)が」という皮肉の返しが聞こえないわけではなかったが、橘は黙したまま、頭を下げ続けた。雨宮が居心地悪そうに、咳払いをする。銀縁の眼鏡を大きな鼻の上に、ぐい、と押し上げて、
「ワイバーン型との戦闘の後、現場で弟切伍長の腕章が見つかった」
「え……?」
「腕章は引きちぎられた跡があり、他に彼のものは見つかっていない。明らかに自分から、東黎国騎蜂軍・橘隊伍長という役職を棄てた形だ」
 初めて聞く話だった。私が君と話をするまで、こちらからはあまり情報を出さないようにと、犀川准将に頼んであったのでな、と雨宮が弁明する。それから、と雨宮はさらにつけ加えた。
「ナーシサス少佐のマスクを被っていた男の首から、弟切伍長の指紋が検出された」
「……っ、ではやはり、弟切は」
「少佐の協力者とみて間違いないだろう。そしていくつかの証言が、弟切伍長と薊上等兵は親密な仲だった、と言っている」
 橘の胸を、ひやりとした風が通り抜けた。それは、と口にしたものの、その先の言葉が出てこない。雨宮は心を決めたように、ゆったりと目を伏せて、
「君は自分の契約者を信頼しているようだが、客観的な多数の目を通して状況を見た私の目には、薊上等兵が弟切伍長に唆されて彼についたという可能性も、十分に検討の余地がある」
「支部長……」
「敵かもしれない兵士を一人、闇雲に捜しに行かせたとして、その結果として君を失ったら東黎の損失は大きい。気づいていたかね? 君は疑いをかけられているだけではなく、独断での行動によって消えた者たちの後を追い、支部を離れかねないという懸念から、ここに囚われているのだ」
 真っ暗だった場所に突然光が現れ、視界が拓かれたような思いがした。見ようともしていなかった可能性がそこに存在していたことを示され、胸が衝かれた。どうりで犀川が「千歳を捜したい」という懇願を、真面目に取り合わなかったはずだ。取り合うも何も最初から、友人、部下、契約者――多くのものを一時に失った橘が勝手な行動に走らないよう、かけられた鎖だったのだ。
 そんな可能性にも頭が回らないほど、焦燥しているのか。
 自分で思っているよりもずっと冷静でない自分に気づいて、四肢にかかる鎖がどっと重くなったような気がした。雨宮はそんな橘を見て、ガラス扉の奥に控えていた看守を呼び、席を立つと、
「薊上等兵のことは、もういないものと思うことだ。……例え彼女が、敵ではなかったとしても」
 それが君の、ここから出る唯一の道だ、と言い残して、再び鉄の扉の向こうへ消えていった。跪坐をゆっくりと崩して、橘は握り締めていた拳で床を殴った。硬い石の冷たさが骨を伝い、痛みと共に脳天まで駆け上がっていく。
 看守が足音もなく戻ってきて、鉄格子の前の椅子を片づけていった。


 赤い紅茶の水面に、赤い欄間が映り込んでいる。白磁のティーカップの縁を越えて、銀のトレーまで橋をかけ、椿の模様に掻き消されて滲みながら、墨染めの畳に消えていく。
「冷めてしまうよ。せっかく最高級の茶葉を用意したというのに、君が飲まないのなら、ただの色水だ」
 向かいでゆるりと胡坐をかいて、同じ白磁のティーカップを傾けながら、ナーシサスが青灰の眸を細めた。対する千歳は畳の上に正座をしたまま、人形のように動かず、ナーシサスを見つめている。
 ――なんでこんなに、平然としているの。
 直に落ちる朱色の日が、欄間から差し込んでくる暮れ方である。ナーシサスの白い肌は橙を帯び、面長な顔の中心を貫くすらりとした鼻は、雪山のように稜線を光らせながら他方に影を落としている。銀の髪が輝きを跳ね返し、底に蒼白さを滲ませてその山へかかり――何もかもが幻想の中の一瞬のような光景だった。
 本当にそうだったら、どんなに良いか。頬に流れた髪を一房、肩へ払って、千歳は口を開いた。
「なんのつもりですか」
「何がかね?」
「今さら顔を見せたと思ったら、お茶なんか用意してきて。ただの実験サンプルを相手に、ずいぶん良いものみたいですけど」
 紅茶の味の良し悪しなど分からないが、ナーシサスが本当に気に入ったものを口にするときの表情は分かる。眉間が少し高くなり、眉尻が下がる。
 西華へ来てから実に二週間。弟切にもあれ以来会えず、状況は何も好転せず、体力ばかりが落ち始めて焦りを感じた矢先、ナーシサスがふいに部屋を訪ねてきた。本当は朝から、微熱と倦怠感に襲われてずっと寝ていたのだが、弱っている姿を見られたくなくて無理やりに背筋を伸ばした。毒が浄化されてきていることを、悟られたくない。同情など天地が引っくり返ってもされたくないし、喜ばれるのはもっと嫌だ。
 警戒心を露わに、瞬きすら忘れている千歳に、ナーシサスはふっと笑って、
「何も悪いものは入っていないのだけどね」
「普通のことだわ」
「言っただろう、ここではまだ新参者なのだと。新参者は何かと忙しくてね、もっと早くに来ようと思っていたんだが、なかなか時間が自由にならないのだよ」
 疲れたように、大きな手で前髪をかき上げる。彼の胸にはすっかり、西華での何かしらの階級を示す金のバッジが並んでいて、しかし立派な飾緒も背には外套もなく、彼が言うように〈新参者〉であることが窺えた。
 元気そうじゃないか。少し顔色が青白くなってきたねえ。変わらない調子でそう語るナーシサスを見ていると、ますます分からなくなってくる。
「どうして……」
「うん?」
「どうして、東黎を裏切ったの?」
 この人にとって、あの国の何がいけなかったというのか。
 両手の指を膝の上で絡め合わせて、千歳はほとんど無意識に疑問をぶつけていた。夕日で温められた部屋に、はたと、沈黙が落ちる。ナーシサスはふむ、と顎に手を当てて、
「そこで私を、ではなく東黎を、なのか。君は本当に、根っからの兵士だな」
 感心したようにも、呆れたようにも取れる口調で言った。
「そう……かしら」
 兵士。真意を拾いあぐねて歯切れの悪い返事をした千歳に、ナーシサスはにっこりと微笑みを深める。その唇がふっと、嘲笑うような鋭い吐息を吐き出し、


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