第十八章 華蓮にて


 毎朝、目が覚めるたびに、天井まで張り出した赤い欄間を見て、これが夢ではないことを再認識する。
「はあ……」
 華蓮支部の一室に囚われて、早三日目。千歳は襖と反対側の欄間から差し込む朝の光で目を開けて、布団の下で両手と、繋がれた両足を伸ばし、ゆっくりと起き上がった。
 ちょうどそのとき外から、
「失礼いたします。朝食をお持ちしました」
 単調な音の連なりのような、細やかな女の声が聞こえてきた。返事をしなくても、襖は勝手に開く。顔を出したのは平織の透き通った羽織を纏い、赤と白の長い裳裾を脹脛の周りに絡げた、天女のような出で立ちの女だ。
 彼女たちはどうやら、この宿泊所の世話係らしい。布団の上で正座をしている千歳を見て、持ってきたものを一式、脇へ置き、おはようございますと恭しく挨拶をした。
「では、後ほど」
 豪奢な漆の台に載せられた膳を布団の隣へ置き、胸元にかかっていた鍵で千歳の足枷を外すと、無駄な口を一切利かずに部屋を出ていく。彼女たちは一時間くらい過ぎると食事を下げに来て、また枷をかける。それまでに、寝間着から袴に着替えておく。すっかり流れが作られていることに、着実な時間の経過と、相手の要求するペースに押し流されている悔しさを感じる。
 茶粥に甘口の漬物をのせて、青い菫の描かれた蓮華で口へと運びながら、千歳はこの数日で分かったことを整理した。
 まず、この部屋では魔術が使えない。使おうとすると、何らかの力に弾かれて体に痛みが跳ね返ってくる。物は試しと蝋燭ほどの火を軽く放っただけだったから良かったものの、これが全力だったらと思うと、背筋がぞっとした。
 贅沢な食事と広い部屋で丁重にもてなされてはいるが、自分が所詮、実験の下拵えをしている最中のサンプルにすぎないということを、まざまざと思い知らされた。抵抗するなら大人しくさせる。そのための手段は、選んではもらえないようだ。
 次に、あの世話係の女たちは只者ではない。一度、良心の呵責とせめぎ合いながら、足枷の開かれた隙に蹴りを入れてみた。だが桜貝のような指先でぴたりと受け止められたきり、びくとも動かせなかった。そして動揺した様子もなく、食事の説明をして、部屋を後にした。
 魔術師とはいえ、千歳は兵士だ。一般の女性よりは筋力も瞬発力もあると自負していただけに、驚きで心臓が止まるかと思った。掴まれたはずの足には痣一つ残らず、痛みすらなく、まさしく花を掴むような柔らかさだった。反応といい対応といい、明らかに彼女たちが上手である。魔術の封じられた今の千歳に、敵う相手ではない。
 最後に、この場所は華蓮支部と、本当に目と鼻の先である。外から聞こえてくる訓練の音や、西華兵たちの話し声の近さにそれが分かった。つまり首尾よくここを脱出できたとしても、その先にはさらに多くの目があり、武器があるわけだ。
 味方もなければ地の利もない。華蓮支部の出入り口がどこにあって、どんなシステムなのかも想像がつかない。
 千歳は茶粥を三分の一程度と、白和えと野菜の煮物を一口ずつ食して、箸を置いた。状況は一切良くなる気配が見えない。いっそ潔く舌でも噛み切ったほうが東黎のために良いのではという考えも、三日目ともなると頭を掠め始める。まだその選択をするには早い、と自分を宥めすかして、どうにか希望を見出そうとしているが。このまま日にちばかりが漫然とすぎて、橘の毒が抜けてゆき、ナーシサスたちの思惑通りの実験道具になってしまうのかと想像すると、それだけは回避しなければならない事態だと思う。
 ナーシサスと、弟切――彼ら二人が今どこにいるのかは、千歳にも分からない。彼らとはここで目覚めたときを最後に、一度も顔を合わせていなかった。どこにいて、何をしているのか。さすがにもう、香綬支部へ戻ったという可能性はないだろうが――そうなると今、香綬支部では二人を裏切り者として捜索しているのではないだろうか。同時に消えた自分は、どんな扱いになっているのだろう?
 脳裏に橘の姿が過ぎる。近しい存在だった二人から一度に手を離されて、契約者も失って。あの人は今、どういう心境で過ごしているのだろうか? そもそも、ワイバーン型との戦闘は無事に終わったのだろうか。その顛末すら、千歳は見届けていない。
 ……いえ、きっと私が心配することなんて、ないんだけど。
 綺麗に折り畳まれた着物に袖を通して、ちくりと刺さった胸の痛みを打ち消したとき、襖の外から静かな声がかかった。
「失礼します」
 弟切の声だった。千歳は思わず、驚いてしまって返事をし損ねた。薊さん? と訝しむような声が呼びかける。
 まだ帯を締めていない。一瞬躊躇ったが、ここで出直してもらっては、次に顔を見せるのがいつになるか分からない。
「どうぞ」
 千歳は返事をして、手早く腰紐を回して締めた。襖がすらりと開かれて、弟切がぎょっと目を瞠った。
「……っ、失礼を。着替え中でしたなら、そう言ってください」
「待って」
「はい?」
「入って、そこに座ってて。すぐに着替え終わるから」
 反射的に出ていこうとした彼を、千歳は強い口調で引き留めた。廊下に膝をついた弟切を見下ろして、早く、と目で室内を示す。弟切は白磁の面のような顔に、いくらか戸惑いを滲ませたものの、そのまま襖を開け放しておくほうがまずいと考えたのか、一礼して膝で入ってきた。閉めた襖のほうを向いて、呟くように尋ねる。
「なぜ……」
「貴方がいなくなると困るから」
「なりませんよ」
「その言葉を、私が信じられると思う? ……終わったわ」
 ふ、と苦い微笑みにも見える表情を浮かべて、弟切が振り返った。彼は改めて、おはようございますと挨拶をすると、
「蘭鋳(らんちゅう)から、あなたが食事を残していると相談を受けまして」
「蘭鋳?」
「ここの世話係の女性たちです」
 千歳は理解して、ああと頷いた。言われてみれば確かに、天女のようだが、金魚のようでもある。言葉数少なで、裳裾を振るわせて歩く様など、言い得て妙だ。客の男たちが喜びそうな、どこか甘美な響きも含んでいる。
 彼女たちが、千歳の態度を弟切に報告したのか。
「ああ、本当ですね」
「ちょっと」
 考えている間に、いつのまに傍へ来たのか、足元の膳を開けて弟切が中を検めた。すっかり冷めた食べ残しを見られることに、千歳はかあっとなって彼を引き剥がした。
「こんな食事を続けていると、本当に命を落としますよ。ただでさえ橘少尉からの供給が断たれているのです。せめて栄養のあるものを召し上がって、体力をつけていただかないと」
 さらりと口にされた名前に、千歳の表情が俄かに強張る。だが、何も言わなかった。弟切はそれを観察すると、ふむ、と浅く頷いて、
「気丈ですね。もっと動揺されるかと思っていましたが」
「……何のこと」
「人は不安な状況下では、親しい人間の名前を聞いただけで取り乱すものです。その人が自分を探しているのではないか、近くにいるのではないかと」


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