第十七章 緑の面を被った鬼


「西華軍から再三に渡って頼まれていてね、優秀な蜂と花の番を研究したいと。ようやく用意ができて、本当に良かった」
「や……っ」
「おっと」
 頬に触れようとしたナーシサスの手を、千歳の手が払い落とした。乾いた音が響き、ナーシサスが驚いたように身を引く。よろめいた体を支えようとした弟切にも、千歳は鋭い拒絶の目を向けた。ぎり、と布団の上で握り締めた手が、血の気をなくして紙のように白くなる。
「いつから、ですか」
「何がだ?」
「いつから私を、西華に引き渡すつもりで傍に置いていたんですか?」
 震える声で、千歳は訊ねた。ナーシサスはなんだ、そんなことかというように微笑んで、
「最初からだとも」
 一瞬の躊躇もなく、そう答えた。
「思ったよりも元気そうだ。安心したよ」
「はい」
「食事を持ってこさせよう、お腹が空いているだろうからね。彼女、食べられないものはあったかな?」
「書庫の資料には、アレルギーの記載はありませんでした」
「そうか、なら心配いらないな。後で届けさせる」
 頭上で交わされる会話が、見えない壁の向こうにある別世界の言葉のように聞こえる。千歳は愕然と項垂れて、無数に広がる布団の皺の青い影を見つめていた。
 脳裏を幻灯のように駆ける香綬支部での思い出が、何もかも凄まじい勢いで塗り替えられていく。どこまでが真実で、どこからが偽りだったのか。立っていた世界がガラガラと音を立てて崩れだし、空も道も、花も、風すらも、形を留めてはいられない。走れば走るほど、足元が虚無に呑み込まれていくみたいだ。
 逃げ切れない。
「そんな顔をしなくても、君が思うほど悪い出来事ではないよ、薊くん。ゆっくり休んでくれたまえ」
 縺れた足が闇に絡みつかれて、虚無の底へと引きずり込まれるのを感じながら、千歳は出ていくナーシサスにどんな言葉もぶつけられなかった。糸の切れた人形のように、天国と地獄が切り離され、またひとつに戻るのを、倒れかかった姿勢のまま見送るしかできなかった。
 その様子をじっと見ていた弟切が、空になった茶碗を、盆の上に片づける。
「あなたにはここで一ヶ月間、橘少尉の毒を抜いていただきます」
「……保管庫に私の血液サンプルがなかったのって、貴方のせい?」
「……外には常時、見張りが巡回しています。逃げ出そうなどとは思われませんよう」
 質問には答えず、弟切は忠告した。千歳は力なく笑って布団をはだけ、
「できないことくらい、分かってるでしょ。わざわざ言ってくれなくていいわ」
 足首にかかっている金属の枷を、忌々しげに叩いた。弟切はそれを目にするなり、ああ、と思い出したように言って、
「え?」
「どうぞ。外さねば、着替えができませんでしたね」
 首元から取り出した小さな鍵で、枷を片方外した。
「後ほどまた取りつけさせていただきます。私は少し外しますので、その間に着替えをお済ませください」
 自由になった足を見て唖然とする千歳に、念を押すように告げる。当たり前か、やっぱりまたつけるんだ、と淡い期待を砕かれて、千歳は自分に呆れて苦笑を漏らした。
 ――私はまだ、この人を信用する機会を探しているんだ。
「どうかされましたか?」
「……なんでも」
 そうですか、と長い前髪を睫毛にかけて、弟切は盆を手に立ち上がった。その横顔にも背中にも、新王都支部からケイを背負って三人で脱出したときの情景がちらつく。あれも演技だったのだろうか。勘を信じると言ってケイについてきたのは、いざとなれば脱出できる道を知っていたからなのか。ワーウルフの牙を一人で受け止めて、逃げなさいと言ってくれたのも、信用を得るための嘘だったのだろうか。
 分からなくて、頭の奥が罅割れそうだ。襖の開かれる音が耳に届いて、
「弟切さん」
 思わず呼び止めた千歳に、弟切が振り返った。千歳は呼んだものの、言いたいことが明確に定まっていたわけではなくて、
「弟切さんも、ずっと西華の人だったの?」
 投影する幻灯機を失ったガラスのスライドのような、動かなくなった思い出の真偽を確かめたい一心で、尋ねた。弟切は束の間、言葉を選ぶような沈黙を落としたが、やがて千歳を一瞥して、
「いいえ」
「違うの?」
「私が西華の人間になったのは、あなたに出会った日からです」
 抑揚のない声で答えて、襖の向こう側に消えていった。
 後に残された千歳はしばし、息の仕方も忘れたように、襖に描かれた天国と地獄の境を見つめていた。


- 67 -


[*前] | [次#]
栞を挟む

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -