第十七章 緑の面を被った鬼


 橘少尉の言うことを、もっとちゃんと聞いておけばよかった。
 麻酔から覚めるようにゆっくりと浮上した意識の中で、最初に思ったのはその一言だった。底なしの夜の海のような、墨染めの畳の上に浮かんだ、白く柔らかな漂流船の上で千歳は目を覚ました。榛(はしばみ)色の土壁に、赤漆の欄間がぐるりと走っている。抜かれた模様は天の雲を纏う白虎――西華の象徴だ。
 ぐ、と厚い布団に手のひらを沈めて起き上がったとき、天国と地獄を描いた襖がするりと開かれた。
「お目覚めでしたか。声もかけずに、失礼しました」
「……弟切さん」
「ご気分はいかがですか?」
 畳に膝をついて盆を下ろし、静かな所作で襖を閉めて、弟切は風邪の具合でも尋ねるような調子で問いかけた。千歳は片手で布団を握り締めて、傍らにやってきた青年を見上げると、
「ここはどこ」
 質問には答えず、鋭く睨んで問い返した。弟切は切れ長の目で、涼やかにそれを受け流すと、千歳の枕元に赤漆の盆と着物を並べて置いた。
「これ……」
「同じものとはいきませんでしたが、あなたが日頃着ていたものとできるだけ似た着物をご用意しました。その服では、ずっと着ていると肩が凝るでしょう。袴も帯も、その他も一式揃えてありますから、どうぞ後でお着替えを」
「どういうつもり?」
 弟切の言葉を遮るようにして、千歳は食ってかかった。中紅の矢絣柄の着物に、茄子紺の袴。意識を失わせて連れ去っておきながら、こんなものを用意する気が知れない。警戒心と敵意を剥き出しにする千歳に、弟切は水を差し出して、
「喉が嗄れているでしょう。薬も使って丸一日と半、眠っておいででした」
「……いらない」
「断る権利はありません。それを飲んでくださったら、質問にお答えします」
 ぐい、と引き寄せた手に茶器を握らされ、千歳は緊張に背筋を強張らせた。物腰こそ穏やかだが、弟切は蜂だ。その気になれば千歳の手くらい、粉々に砕ける。
 実際、喉の渇きも限界を迎えていた。声が通るたびにひりつく痛みで、咳き込むのを堪えるのに必死だった。……ただの水、かな。直感を信じて、一思いに呷る。ひんやりとした水の脈が、体に染み渡っていくのが分かった。
「ここは西華の都市、華蓮(かれん)にある、西華軍華蓮支部です」
「華蓮……」
「正確にはその敷地内の、使者や首都からの要人をもてなす、関係者用の宿泊施設ですが」
「どうして私を、ここに?」
 問いかけると、空になった茶碗にもう一杯、水が注がれる。千歳はまた一息に、それを飲み干した。弟切が足つきの器に盛られた琥珀糖を示しながら、淡々と答えた。
「私と契約して、蜂花研究に協力していただくためです」
「え?」
「あなたも私も、研究用のサンプルに選ばれたにすぎません。東黎が西鬼のデータを収集していたように、西華もまた、蜂花のデータを収集しています。体の特異性や、契約関係による相互の能力値の変動を調べ、今後の戦いに善用したい。そのために、生きた番のデータが求められているのです」
 千歳は呆然として、正座をした弟切を見つめた。これが現実の会話だとは、到底思えなかった。壊れた夢を見ているかのようだ。本当はワイバーン型との戦闘で、自分は死んで、今際の川辺で幻を見ているのではないだろうか?
 だって、そうでなかったら。
「弟切さん、本当に、西華の人だったの?」
「……橘少尉が、そう勘づいていらっしゃったのですか?」
 否定の言葉が返ってこなかったことに、千歳は唇を噛み締めた。脅されて仕方なく、だとか、弟切も誰かに攫われてここにいるのだという答えを、心のどこかで捨てきれずに期待していた。
 寡黙で、あまり愛想がなくて、けれど気がつくと傍にいて助けてくれて。距離はあるけれど、大切な人だと感じていたのに。近頃打ち解けてきて、内心嬉しく思っていたのに。
 友達になれる人だと、信じていたのに。
「どうして――」
「弟切くん。ここにいるのかね」
 東黎の制服を脱ぎ、紫苑色の着物に身を包んだ弟切の肩に掴みかかったとき、ふいに襖が開いた。室内の光景を目にして、おや、と言ったその声に、千歳の心臓が大きく跳ねる。
 まさか、と冷え渡った全身の神経が、心が覚悟を決めるより先に、顔を上げさせてしまった。鴨居を跨いだ長い足、西華の軍服を纏った大柄な体。すらりと伸びた背筋の先に、銀の髪と、鷹揚な笑顔を浮かべて、
「おはよう、薊くん。乱暴は感心しないな」
 ナーシサスがそこに立っていた。
「少佐……!」
「はは、今も私をそう呼ぶのは君くらいのものだ。何せここではまだ、新参者の部類だからね」
 どうしてここに、と息を呑む千歳を見下ろして、香綬支部で会ったときと何ら変わりのない口調でそう告げる。頭を立て続けに鈍器で殴られるような衝撃に、千歳は嘘だ、とかぶりを振って、目の前の景色を切り替えようと何度も瞬きをした。
「うん? なんだ、弟切くんから聞いていないのかね」
「何を……?」
「君は西華に連れてこられたのだ。私と弟切くんによって」
 畳に片膝をつき、千歳の顔を覗き込んで、ナーシサスは一言一言、噛み締めるようにゆっくりと言った。ナーシサス少佐と、弟切さん。こぼれるように呟いた千歳に、そうとも、と頷いてみせる。
 一体、何を言っているのか。頭が真っ白に焼き切られてしまって、言葉が素直に飲み下せない。飲み下すわけにいかない。だってそうでしょう? と千歳は誰に問うでもなく声にならない声で問いかけて、
「私が、緑の面を被った鬼だよ」
 見開いた眸の奥に「千歳」と呼ぶ琥珀色の双眸を思い出し、へたり込んだ。
 嘘だと言ってほしかった。これが夢なら、覚めてからどんな罰でも受け入れるから、今すぐ覚ましてほしかった。頬を叩いて、肩を揺すって。馬鹿な夢を見ているんじゃないと、呆れた声で叱ってほしかった。だって、そうでなかったら。
(あの人は、どうなってしまうの?)
 想像の中で、橘の後ろ姿が足元から火炙りにされてゆく。灰になって崩れて、霧散していく。千歳はぞっとして、両手で頬を覆った。巴の声が耳の奥にこだまする。――わたくしはナーシサス少佐を監視するため、契約を迫ったのです。
 ああ、その疑心の雲を晴らせるはずだと、ずっと信じていたのに。
「西華の方……、なんですか」
「五年ほど前からね」
 初めから、雲の下には一層暗い雲しかなかったと知って、目眩がする。何も起こらないはずだ。ナーシサスを監視する自分を、弟切が監視していたのだから。
 どうして貴方が、という思いで胸がいっぱいだった。ナーシサスだけは、ここで会ってはいけなかった。この人が姿を消した支部で今、橘は何を思っているのだろう。この人だけは、何があっても――そう、例え自分が戦いの中で命を落としたとしても――橘の味方でい続けてくれると思っていたのに。


- 66 -


[*前] | [次#]
栞を挟む

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -