第十六章 ワイバーン


「これは……!」
 毛髪に引っ張られて、うなじが裂ける。皮膚の下には赤い肉ではなく、もうひとつの皮膚があった。頭皮の下には黒髪が、顔の下には別の顔が眠っていた。
 なんという精巧な――マスクだ。
「だ、誰だ……?」
「少佐じゃない。えっ、じゃあ少佐はどこにいるんだ?」
 恐る恐る覗いた兵士たちが、ナーシサスの下から現れた男を目にして、口々に呟いた。銀髪の抜け殻を片手に愕然としたまま、橘は二年前の、坂下での謎が一気に氷解していくのを感じていた。
「そっくりな顔を、作ったのか……」
 これと同じように。誰かが自分になりすまし、あの晩、ネリネの元へ行くことを阻んだのだ。西華と通じてネリネに指示を出し、彼女を香綬支部の内側から監視し続け、諜報員として利用できる限界を見定めて、自分に罪を着せる形で殺害した。ナーシサスの口添えによって軍に復帰が叶ってからずっと、それらの計画の糸を引いた者が誰なのか、探し続けてきたが。
 ――灯台の麓を暗くするには、強烈な光を灯すことからか。
 目の眩むような、光だった。どうりで見つからなかったわけだ。橘は奥歯を噛み締めて、マスクを手放した。動転して縋りついたが、気づいてみればナーシサスとは似ても似つかない、小柄な男である。
「支部長に連絡を。至急、町へ出て本物を探せ」
「はっ」
「緑の面を被った鬼は、ナーシサス少佐だ」
 命を受けた兵士が、固唾を呑んで一礼した。皆、まさかという思いが強すぎて、橘が口にするまでその可能性を言えなかった。動揺がざわめきとなって、堰を切ったように溢れる。口々に飛び出すナーシサスという名前に、よみがえるのは温かな記憶ばかりだ。何度も救われた。何度も慈しみをかけてもらった。
 すべて、信用を思いのままにするための、偽りだったのだ。
 無数のナイフで胸を抉られていく思いで膝をつきながら、橘は今一度、亡骸の男を見下ろした。昏倒させられた後に絞殺されたのか、うなじに手刀の痣と、首に絞められたような痕がある。ナーシサスの死を装い、彼を逃走させる時間稼ぎのために始末されたのだろうか。
 ――哀れなものだな。この背格好、坂下で目覚める前に俺を殴った男とも一致している気がするが……
 死斑の浮き出た血の気のない顔に、見覚えがある気がして目を細める。それはいつぞや、夜の中で見た、弟切の友人だった。そうだ、この男だぞ、と気づいて首筋を冷たい汗が流れる。
 そのとき、人垣をかき分けて、橘の元に駆けてくる足音があった。
「失礼いたします。衛生兵です、通してください」
「……空木」
「橘少尉。ナーシサス少佐が倒れたと聞いて、急いで来て……あら?」
 長い髪を後ろで一本にまとめて、応急セット一式を箱ごと抱えた巴だった。彼女からはちょうど、橘の陰にあってマスクが見えなかったのだろう。すぐには状況が理解できずに、契約者ではない誰かの亡骸を前にして、呆気に取られたように足を止めた。
「こちらの方は……?」
 何から説明したらいいものか。橘は力なく、首を振った。それを見て巴は、話に聞いていた状況とは違うものの、衛生兵として為すべきことがあると思い出したらしい。荷物を足元に置いて、無線機で医務室に担架を依頼した。
 橘は立ち上がって、散り始めた人垣の間から千歳の姿を探した。だがどこにも、あの長い黒髪が見つからない。まさか怪我でもして、医務室に行っているのか? そう不安が過ぎったとき、
「千歳さんなら、先ほど見かけましたわ」
 彼方から向かってくる担架に手を挙げて合図しながら、巴が言った。
「そうなのか」
「ええ、弟切伍長が抱いていかれるのを、遠目に」
「……弟切だって?」
「足でも痛めてしまわれたのかと思っていたのですけれど……少尉のご指示ではなかったのですか?」
 瞠目した橘に、巴が不思議そうに首を傾げる。心臓が氷の手で包まれたような、体が芯から髪の先まで凍っていく心地が、橘を襲った。


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