第十六章 ワイバーン


「最近、弟切と仲が良いらしいな」
 整理していたファイルを、危うく足元に落としかけるところだった。最後に会話した空気の震えも、とっくに静まり返った真昼の執務室で。千歳は本棚に手をかけたまま、ぎこちなく後ろを振り返った。
「なんで?」
「別に、理由は知らないが……風の噂で聞いただけだ。お前と弟切が、夕食後、一緒に食堂を出てどこかへ行くのを見かけたと」
 連日の出動のせいで溜まりに溜まった報告書に判を捺しながら、橘が言った。「風の噂」という言い方をしてはいるが、それは明らかに誰かからの報告を受けた聞き方ではないか。
「まあ……、そうね。仲は悪くないかも」
 誰だ余計なことを言ったのは、という動揺を精一杯押し込めた声で、さも普通のことのように切り返す。大方、ゴシップ感覚で橘の反応見たさに告げ口されたのだろうが、生憎そんな甘い逢瀬のために夜な夜な落ち合っているわけではないので、とんだお節介である。
 ――協力しましょう。
 弟切が千歳を見かねて、そう声をかけてくれてから、早二週間。このところ、ほとんど毎晩のように、彼と二人でナーシサスの様子を探っている。もっとも、怪しむような行動は一切見られず、ナーシサスは日々仕事に励んでいるだけなので、監視や尾行という意識も薄れてつい雑談に興じている時間も多いのだが。そういう瞬間が、はたから見れば逢引きに見えたと、言われてみれば分からなくもない。
 ――あんぱんの話とか、してただけなんだけど。
 色気のない話題を振り返って、千歳はううんと首を捻った。弟切は以前、黎秦にいたようで、女学校時代の話が思いのほか通じたのだ。やれあそこの店のパンが美味しかったとか、お弁当には刻んだ沢庵の上に、どこどこの塩桜をひとつ載せるのが粋だったとか。そんな話ばかりである。
 さほどよく喋る人ではないが、話せば返事はしてくれるし、向こうから話題を振ってくることもある。注意力がよく、人の気配やドアの開く気配を敏感に察して、たまたまそこに居合わせたような自然な立ち居振る舞いをしてくれる彼を、どうせなら退屈はさせたくないな、という気持ちも相まって、近頃は色々と話すようにもなってきていた。
「意外と気が合うって分かったのよ。同い年だし、話しやすいの」
「……そうか」
「それだけなんだけど……、なに、まさか少尉、妬いてるの?」
 目的がナーシサスを見張るためだとは、橘には言えない。千歳は橘をからかって、話の矛先を逸らそうとした。ファイルを置いてわざとらしく、執務机に両手をついて橘の顔を覗き込む。
 そうやって呆れ返った琥珀色の目が、今にも平たくなって「馬鹿か」と言うのを待っていたのだが。
「あいつには、あまり近づくな」
 顔を上げた橘の言葉に、冗談めかして浮かべていた笑顔が、え、と固まった。
「あいつって」
「弟切だ。……お前の交友関係に口を出す気はないが、あいつとは今しばらく、距離を置け」
「どうして?」
 何を言われているのか分からず、反射的に聞き返した千歳に、橘は苛立ったように後ろ頭を掻いた。そうしてその手で、顔を覆うように頬杖をついて、
「少し気がかりがあってな。諜報歴のある部下に、あいつの身辺を探らせている」
「え……」
「何も出てこなければ、それでいい。不信感を与えないように、少しの間、俺に仕事でも頼まれているふりをして距離を――」
 バン、と机を叩いた千歳の手が、橘の言葉を止めた。
 その反応さえ予期していたように、金色の髪の隙間から、億劫そうな眼差しが千歳を睨む。物分かりの悪い子供を黙らせようとする、鋭い目だ。有無を言わせない、切っ先のような。
 ……風の噂って、そういうこと。
 千歳は理解して、同時に怒りが足元から頭へ向かって上ってくるのを感じた。直に問い質すのではなく、人を使って探らせるほど、橘は弟切を疑っているのだ。皆してなんなのよ、とスカートを握りしめた脳裏に、ケイの顔が浮かんでくる。
 この怒りは、悲しみだった。新王都支部の一階で、仲間が分裂したときと同じ、信じ合っていたはずのものが崩れていく悲しみによる怒りだった。
「だったら、私を使えばいいじゃない」
「は?」
「弟切さんと仲のいい私なら、何か聞き出せるかもしれないわ」
 橘が今度こそ、馬鹿か、と言いたげに目を瞠った。千歳は構わず続けて、
「それくらいの覚悟がないなら、身近な人を、疑ったりしないで」
 言い終わるや否や、執務机に背中を向けてドアを開けた。千歳、と背後で橘の呼ぶ声がしたが、振り返らずに部屋を出た。
 分かっている。本当は、橘一人にぶつけるべき怒りではないのだ。同じ部隊の兵士がケイを疑い、巴がナーシサスを疑い、橘が弟切を疑っている。「仲間だ」と繋ぎ合った手の後ろで、鎖を握るように。その疑心暗鬼の連鎖に、耐えきれなくなっただけなのだ。
(貴方の幼馴染を最後に信じたのが、私と誰だったか、忘れたの? 私が誰のために、巴との約束を隠していると思ってるの?)
 切れた鎖が大きく振れて、あのまま橘の前にいたら、泣き言で彼を引っ叩いてしまいそうだった。新王都支部でケイに味方し、命を助けたのは弟切だ。その弟切が千歳と一緒にいるのは、千歳一人ではできそうもない、ナーシサスの監視を手伝うためだ。
 ナーシサスを監視していることを橘に黙っているのは、偏に、橘を悲しませたくないからだ。
 そうよ、と唇を噛みしめて、千歳はかぶりを振った。
 本当のところ、処罰なんて受けたって構わない。どうせ死ぬような罰ではなく、階級が落ちるくらいのものだ。でも自分の契約者が、友人の頼みとはいえ、自分の恩人を探っていたと知ったら、橘は少なからず衝撃を受けるだろう。
 だから黙って、何も訊かずに手伝ってくれる弟切と手を組んだ。橘に悟られる前に、ナーシサスの無実を巴に証明して、陰で亀裂を修復したかった。それだけなのに。
(どうして、上手くいかないの)
 守りたいものが内側から、ひとつ、またひとつと崩れていく。一心不乱に歩き続けていた足を止めて、千歳は執務室を振り返った。
 ――追ってもこないか。
 分かっていたのに確かめて、千歳は落胆した。溜息をついてから、それが何に対する落胆だったのか分からなくて、戸惑った。これでいいはずだ。橘の意見が聞くに堪えなかったから、飛び出してきたのだから。今頃一人で、少し頭を冷やしていると思えばいいだけなのに、
(……なんで、寂しいなんて思うの)
 あの部屋に何かを忘れてきたみたいな、物足りなさが胸に広がってくる。
 困惑して袷に手を当てたとき、西鬼の襲撃を告げる警報ベルが鳴り響いて、ブツリと切れた。

 こうなることが予測できなかったわけでもないはずなんだがな、と橘は判を朱肉の上に置いて、静かに腕を組んだ。勢いよく閉められたドアの内側で「君はもっと肩の力を抜いたらいいのに」と、ナーシサスがいつだったか半ば勝手にかけていった、古い紅茶のサシェが左右に揺れている。


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