第十五章 夜を歩けば


(……言えないわ)
 余計な軋轢は、生まないほうがいい。
 千歳は泣き止む様子のなくなってしまった巴を抱きしめて、一旦私の部屋にでも来る? と移動を提案した。

(――とは、言ったものの)
 夕食後、すっかり日も落ちて消灯時間が近づく廊下で、千歳は柱の陰に身を潜めて、眉間に皺を寄せていた。
 照明が一つ飛ばしに消され始めた廊下の先に、ナーシサスが立っている。昼の熱気を建物が濾過しきれなかった蒸し暑い夜だからか、帽子や上着は脱いで、ラフな出で立ちをしていた。銀の髪が薄暗闇の中で、星のようにぼんやりと明るい。
 向かい合って話し込んでいる青年は、つい先日、ナーシサス隊に配属された新兵だ。戦いのことで不安があったのだろう。一時間ほど前にナーシサスの執務室を訪ねてきた。
 彼はアドバイスを求めるつもりで、あるいは自分が本当にこの部隊にいてもいいのかと訊ねるつもりでやってきた様子だったが、ドアの向こうからは時間が経つにつれて笑い声が漏れてくるようになった。次に出てきたとき、彼は憑き物が落ちたようにすっきりとした表情を浮かべて、背筋を伸ばし、晴れやかな空気を纏っていた。
 面倒見のいい人だ、とつくづく思う。
 千歳は尚も廊下で立ち止まって会話している二人を見ながら、着物の袷に手を当てた。そこにあるネリネの写真も、初陣の前、ナーシサスが譲ってくれたものだ。悲しい思いも悔しい思いも、あれから何度も経験したが、その度この写真が心の曇りを晴らしてくれた。
 蝶の髪留めと合わせて、今でも肌身離さず持ち歩いている。自分にそうしてくれたように、ナーシサスはきっとあの青年にも、言葉かものか、背中を押す何かを与えたのだろう。
 ――尾行って、こんなことを考えながらするものだっけ。
 絶対違う気がするわ、と千歳は首を捻った。段々、何をしているのだか分からなくなってきた。
 昼間、巴に協力すると言ったはいいものの、具体的に何をするかまでは考えていなかったのだが。部屋に戻って二人でゆっくり話をするうちに、頼まれてしまったのだ。ナーシサスが夜に何をしているか、数日、見張ってくれないかと。
 衛生兵である巴は朝が早く、夜勤もある。加えて家柄のせいで顔が知れており、夜分に一人で出歩いていれば、すぐに人が声をかけてくる。奇跡の復帰と噂が立っている今の状態では、特にそうだ。隠れて何かをするのには、向かない立場である。
 だから代わりに、千歳に、消灯間際のナーシサスの行動を探ってほしいのだと。彼はいつも遅くまで支部に残って、執務室で仕事をしている。その時間は部隊の者も傍におらず、夕食が済めば兵士の多くは兵舎へと引き揚げる。確かに、一日の中で最も自由に動ける時間帯だ。
 しかしながら、そうは言っても、このように訪問してくる相手が絶えないのもまた、ナーシサスという男なのであって。
「――何をなさっているのですか?」
「……ッ!」
 巴が思っているほど一人にはなっていないんじゃないだろうか、とため息をつきながら、歩き出した二人を追うべく腰を上げかけたときだ。真後ろから声をかけられて、心臓が口から飛び出たかと思った。
「こんばんは」
「お、弟切……さん」
 驚いた拍子によろけた千歳の背中をさりげなく支えながら、朽葉色の目で見下ろして、いつもの調子で挨拶をしてくる。いつからいたのか、いつ背後に立たれたのか、全く気づかなかった。なんという気配のなさだ。静の化身のような人である。
「それで、何をなさっていたのですか」
「えっ、と……」
 驚きに脈打っていた鼓動が、別の意味でどきりと跳ねる。柱の陰に座り込んで廊下を見つめていたこの状況を、一体なんと説明したらいいのか。ちょっと、急に座りたくなって? 物陰が好きで? 焦りのあまり、見え透いた嘘しか思いつかずに口ごもっていると、
「……ナーシサス少佐に、何か気になる点でも?」
 弟切のほうが、廊下を歩いていく人影を目で示して、その名を口にした。ああ、と頭を抱えて、千歳は柱に背中をつけてずるずると座り込む。こうもあっさりばれてしまっては、ごまかすだけ無駄だ。
「ある人に頼まれて、少し、様子を見てるんです」
「つまり、尾行ですね」
「そ……こまで、大げさなものにするつもりはないんですけど」
 じゃあなんだというのだ、と自分でも思いながら、千歳はできるだけ弟切に与えた印象を尾行から遠ざけようと画策した。上官を尾行していたなど、もし報告されたら千歳も巴も処罰を免れない。相手がナーシサスとあっては、橘との関係にも亀裂をもたらすだろう。
 どうにか言葉を繕わないと、と必死に頭を巡らせて、
「私は、ナーシサス少佐を疑っているわけではなくて」
「ええ」
「でも、頼んできた人のことも、無下にはしたくないんです。その人は普段、こんなことを考えるような人ではなくて。でも、今は少佐を疑う気持ちでいっぱいになってしまっている」
 恐る恐る顔を上げると、弟切は静かな表情のまま、ええ、と先を促した。頭の奥で絡まっていた糸が、澄んだ風に解かれたような心地がして、
「私がナーシサス少佐の無実を証明できれば、その人もきっと、考えを変えてくれると思うんです。一人にしておくと、暴走してしまうような気がして……あの子に、取り返しのつかない間違いは犯してほしくなくて」
 胸につかえていた言葉が、すらすらと出てきた。嘘ではなかった。
 千歳は巴に協力しているが、この尾行は、ナーシサスの潔白を見届けるためのものだ。巴の疑心を晴らすために、彼女の頼みを受け入れた。説得だけでは、今の巴を納得させるのは難しい。目で見て、行動して、確かめた事実を元にしなければ無理だ。
 自分自身が、そうだったように。
 身に覚えがあるからこそ、痛いほど分かる。千歳も橘と出会って、数々の戦場を共にして、彼の本質というものを自らの目で確かめるまで、話など聞きたいとさえ思わなかった。拒絶は真実を遠ざける。真実を受け入れるためには、時として遠回りも必要だ。
 その遠回りの道づくりを、今度は自分が、巴にしてあげたいと思ったのだ。
「……あなたは……」
 灰がかった茶色の、さらりとした前髪をかき上げて、弟切が千歳から目を逸らした。何かを言いかけたその唇が、腹を括ったように引き結ばれる。
「分かりました。そういう事情ならば、私も協力しましょう」
 そうして再び開かれたとき、こぼれた言葉に、千歳は唖然として弟切を見上げた。え、と聞き返すような声が喉から漏れる。
「一人よりは二人のほうが、目の数も、耳の数も増えます。第三者に見られたときの、ごまかしも利きやすい」
「弟切さん……」
「それに」
 弟切は廊下の彼方、明かりの消えた三角形の暗闇に消えていくナーシサスの後ろ姿を見やって、
「……尾行が下手すぎて、見ていられません」
 脳天に刺さる一言を、申し訳なさそうに言った。


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