第十六章 ワイバーン


 警戒心が強く、心を開くまでは一定の距離を保っているが、一度内側に入れた相手に対しては忠実で情が深い。千歳のそういう気質を、自分はもろに受けて分かっているつもりだったのに、弟切の件は完全に切り出し方を間違えた。
「……クソ」
 ぎしり、と椅子に背中を投げ出して脚を組み、橘は天井を仰いで、安直な悪態をついた。そうして深く息を吸って止め、咥えてもいない煙草の煙を昇らせるように、ゆっくりと吐き出した。透明な煙がアール・デコを装った漆喰の天井に立ち消えていく。深緑で描かれた幾何学模様の線と線の狭間に、迷路のように落ちていく感覚がして、思わず目を瞑った。
 ――関係に探りを入れて、可能なら忠告する、程度のつもりだったんだが。
 開いた目で百合の照明を睨む。橘とて、わけもなく勘だけで弟切を怪しんでいるわけではない。一度は命を懸けて救ったこともある部下だ。憎しみや嫌悪で言っているわけでは、尚更ない。
 弟切が腕を折ったとき、見舞いに来ていた友人とやら。その後どうしても気になって、休みの日に坂下で探してみたが、どうにも見つからないのだ。情報を求めて、二度と行くまいと思っていた小料理屋にも足を運んだが、常連の爺様たちが仙人のごとく変わらず生きている以外、分かったことはなかった。人相を伝えてみても、さあ、覚えがないねえと女将は首を捻るばかりだ。坂下で店を構えて長い彼女が、一度も見たことのない者など――はたしてあの、世間から一定の隔絶を受けた小さな町に存在しうるだろうか?
 そう思ったら段々と頭から離れなくなってしまって、新王都支部戦の折にも、弟切に無線機を渡すことができなかった。
 証拠もなく疑い続けては、部隊の連携にも支障を来す。早期に解消するべく、今、陰で調べを進めているのだが。その事実を説明し終える前に、弟切を怪しんでいる、という一部分だけを聞いて、千歳は出ていってしまった。
 十五や六の子供でもあるまいに、なぜもっと本題に辿り着かせるまでの道筋を和らげて、上手く伝えられなかったのか。なぜあのとき、
 ――まさか、妬いてるの?
 ただの有り触れたからかい文句を、ああそうだとも、だからあまり二人きりになってくれるなよと、あしらって受け流せなかったのか。別にそれだって良かったはずだ。最終的に言いたいことは、同じなのだから。
(毒はどっちだよ)
 前にしか飛べない、矢のような。素直さに引きずられて、調子が狂う。
 橘はしばし天井を見つめていたが、やがて眉間に寄っていた皺を振り払い、椅子を立った。本当に手のかかる花だ、しかしそれも今に始まったことではない。憎まれ役を買い続けた半年間に比べれば、捕まえて、もう一度話をするくらい、今さら何の面倒があるものか。
 そう思ってドアノブに手をかけたとき。
「……え」
 びり、と振動が掴んだノブから腕を駆け上った。何が、と思う間もなく、けたたましいベルが鳴り響く。警報、と認識するか否かのうちに、それは絶えた。
 次の瞬間には、煉瓦の崩れる音がガラガラと響いて、立っていられない振動が足元を駆け抜けた。
 膝をついた橘の足元にインク瓶が倒れて、判が絨毯の上に転がる。百合の照明がぐらぐらと揺れて、今にも落下してきそうに軋んだ。
 橘は壁沿いに揃えてあった装備を一式、手早く身につけて、収まり始めた振動の中を廊下へ飛び出した。同時に酷く砂埃を吸って咳き込んだ。何がこんなに埃っぽいんだ、と灰色の一帯に目を凝らして、信じられない光景に目を瞠った。
 香綬支部の屋上に設置されていたはずのスピーカーが、廊下に放り込まれている。
 ラッパ型の開口部が五メートルを超える特大型のそれは、支部と周辺の地区に西鬼の襲来を告げる警報ベルの拡散装置だ。音が止まったのはこれが落下したからか、と理解しながらも、雨風に吹かれて所々錆びたそれが、正面玄関のアーチを崩して廊下に転がっている光景に、すぐに頭が追いつくことはなかった。
「橘少尉!」
 呆然としている橘を見つけて、歪んだドアを押し開けたり、慌ただしく装備を身につけたりして集まってきた者たちが、皆同じ光景を見て同様に絶句した。
 橘は我に返って、スピーカーの傍へ駆け寄って、
「怪我人はいないか? 動けなくなっている者は?」
 巨大なモニュメントのように、壁に食い込んで斜めになっているスピーカーの下に、踏み潰された兵士がいないか確かめた。幸い、目で見て探してみても、犠牲者が出た気配はない。同時に崩れた壁が道を塞いでいて、向こう側へは回れないことも分かった。
「千歳!」
 呼びかけてみたが、応答はない。姿が見えないということは、おそらくこの向こう側に行ったのだろうが――
「外へ出るぞ」
「はっ」
 橘は言うが早いか、踵を返して別の出口を目指した。立ち尽くしていた兵士たちが慌ててついてくる。外ではすでに轟音と、先に出た者たちの混乱の声が入り混じっていた。一体そこに何がいるというのか。得体の知れない何かがいる、という畏怖と共に扉を押し開けた瞬間、
「ワイバーン……!」
 橘の目に映ったのは、骨ばった翼を大きく広げた、赤銅色の神々しい一頭の竜だった。
 全長が三十メートルはあるだろうか。地面に落ちる影は一瞬にして、嵐を纏う黒雲のように橘たちを覆い尽くした。一枚が大人の手のひらほどもある硬質な鱗は、太陽を照り返して鈍い金色に輝く。
 その光が体表をなだらかに滑っていった、と思ったら、低い唸り声と共に、羽ばたきが風を起こして頬を叩いた。
 窮奇型・改に匹敵する大きさのワイバーンは、しかしその飛行や動作の滑らかさが、窮奇型・改とは比較にもならない。どちらかといえば、ハルピュイアのようだ。激戦を思い出して、橘の乾いた喉が上下した。
 だがしかし、敵は一頭だ。数の上では敗北はありえない。兵の数をざっと目算して軍刀を握り締めたとき、兵舎の方角から駆けてくる一団の中に、千歳の姿が見えた。
(無事だったか)
 安堵が胸を吹き抜けて、わだかまっていた煙を晴らしていく。ナーシサスに率いられた千歳は徐々に合流する他の兵士と共に、しっかりとその手に武器を持って、白いコートをひるがえして走っていた。
 その目が橘を捉えて、はっと開いたかに見えた次の瞬間。ワイバーンの喉首の蛇腹が、膨らみすぎた提灯のように伸び、炎の帯が辺りを舐め尽くした。
 問答無用の開戦に、剣戟と魔術が十二方から、時計の文字盤のごとくワイバーンを取り囲んだ。隊列も作戦も何一つ組まれていない状態での、咄嗟の初撃としては、高度な連携が取れたかに思われた。
 だがワイバーンは膚についた線のような傷痕に身震いをすると、反撃には転じず、力強く羽ばたいて空へと舞い上がった。そして鋭い猛禽の爪で、支部の屋根を一掴みにすると、ガラガラと音を立てて煉瓦を崩し始めた。
「そっちが本命か……!」
 頭上から降り注いだ煉瓦の雨を、風兵が築いたシェルターの下へと転がり込んで避けながら、橘はワイバーンの真の目的に気づいて奥歯を噛み締めた。どうりで一頭きりで送り込まれたわけだ。
 香綬支部を襲って、蜂花軍を殲滅するのではなく、香綬支部そのものを破壊することを最優先に動いている。
 これは新王都支部を襲われた西華軍による、支部対支部の報復戦だ。


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