第十五章 夜を歩けば


 夏が終わることに気づくのは、いつも頂点をとっくに過ぎてからだ。春も秋も冬も一定の速度で過ぎてゆくのに、夏だけは突然に盛りを迎えて、花火のように散っていく。
 去年の今ごろはそれを、暑さに蹴散らしたまま干すことも叶わない布団の上で思っていたっけ、と千歳は窓の外に目を向けた。
 長月の空は晴れ渡っている。首筋にはまだ汗が流れているが、青空を直視できるのは、夏がすでに天の中心を立ち去っている証だ。
 秋が来る前に羽織を出して、天気のいいときに外へ干さなきゃ。
 執務室の並んだ一階の廊下を、箪笥にしまった着物のことを思い出しながら歩いていたとき、
「……あ」
 正面から歩いてきた人の姿に、千歳は思わず立ち止まった。漏れた小さな声を聞いて、物思いに耽るように下を向いたまま歩いていた巴が、顔を上げた。
「千歳さん」
 ぱっと、その顔に綻ぶような笑顔が広がる。千歳は少々呆気に取られたが、巴が傍に駆け寄ってきたので、少し話すと腹を括って足を止めた。
「制服、着てるのね。復帰してたんだ?」
「ええ、昨日から」
「そうだったの。じゃあ、もう出てもいいのね」
 はい、と巴が頷く。彼女が特別医務室で事実上の軟禁を受けている間、目撃者の千歳であっても、軽率な訪問は禁止されていた。余計な噂や情報の漏洩を防ぐためだろう。その上、彼女は八月をほとんど実家で過ごしていたから、病室は実際のところ、最近まで蛻の空だったのだ。
 帰ってきたという話は数日前に橘から聞いていたが、千歳のほうも立て込んでいて訪問の許可を取る余裕がなく、会いにはいっていなかった。
 どんな顔をして会ったらいいのか。ケイの死から初めて会う巴が、今どんな思いでいるのか分からなくて、会いたい一心だけではドアを叩けなかったというのもある。
 だが、思っていたよりも――空元気でも、笑える力はあるようで安心した。
「聞いたわ。ナーシサス少佐と、契約したって」
 触れずにいるのも、知らないふりをしているみたいで不自然だ。千歳は思いきって切り出した。
 巴が支部に帰ったという話の翌日か翌々日くらいに、橘が珍しく困惑した様子で教えてくれたのだ。初めは支部の決定かと思い、こんなときに新しい契約だなんて血も涙もない、と憤りを覚えたが、聞けばすべては巴の独断で、支部はむしろ後になって適合検査を行ったり、ナーシサスの意思を確認したりと、彼女の予想だにしなかった行動に振り回された形だという。
 結果的に適合検査も問題はなく、ナーシサスが契約を受け入れたため、大きな事態にはならなかったが。もし彼女の毒が合わなかったら、少佐が一人、命を落としていた。
 自分の部隊の隊長が殺されていたのかもしれないと思うと、千歳も今回の件に関して、巴を一口に「新しい契約をして、前を向いて偉い」とは褒められない。
 複雑に絡んだ心の内を見透かしたように、巴が口を開いた。
「わたくしのことが、分からないでしょうね」
「……ええ、そうね。でも大切な友達よ」
「千歳さん」
「きっと何か理由があるんだって、ずっと思ってた」
 まっすぐ、射抜くように見つめて告げた千歳に、巴の微笑みがはっと揺らぐ。それを見てようやく、千歳は彼女が空元気で笑っていたのではなく、空元気で笑えるまでに回復したふりをしていたのだと悟った。直感が囁いた。巴は傷ついた心ではなく、何か別のものを隠していると。
 気づいたら、彼女の腕を掴んでいた。千歳さん、と息を呑んだ巴を見て、我に返って離した。
「ご、ごめん」
「いえ……」
「ちょっと、無意識で……びっくりしたわよね」
 まるで咎人を捕まえるみたいな、容赦のない手の取り方をした自分に驚く。大切な友達だと言ったくせに、どうして彼女が逃げると疑っているような態度を取ったのか。ええと、と弁明の言葉を探している千歳に、巴がフウと細いため息をついた。
「……やはりあなたには、笑顔だけでは隠せませんね」
「え?」
「いえ。……もしかしたら、本当は気づいてほしくて、わざと綻びを残したのかも」
 ごめんなさい、と眉を下げて彼女は笑う。千歳は巴が何を言っているのかよく分からなかったが、一つだけ言えることはといえば、
「隠し事をするなら、完璧にするべきだわ。そうじゃないなら、ちゃんと話して」
 何かがそこにある、と分かったまま、正体を掴めずにいるのは性に合わない。いずれ話すとか、時が来れば分かるとか、そういうのは苦手だ。信じているなら話してほしいし、信じられないなら隠し通してほしい。
 巴だって気づいてほしい、ということは、千歳を信じたい、ということの裏返しのはずだ。
 もう一度、今度は両手で包み込むように、巴の手を取る。
「わたくし、は……」
「うん」
「ナーシサス少佐を、傍で監視するために、契約を迫ったのです」
 一瞬、千歳の脳裏をネリネが駆け巡った。ネリネのように巴もまた、西華から送られた者なのかと。
 だが空木財閥ともあろう東黎の代表格の家の娘が、さすがにそれはないだろう。ええと、ともう少し話を聞きたいという代わりに口ごもると、巴が淡々と続けた。
「あの日、新王都支部で……わたくし達が敗けたのは、誰かが作戦を流出させたからです」
 どきりと、未だ直視するには生々しい記憶に触れられて、千歳の胸が跳ねた。
「ケイの盗んできた情報を元に、立てられた作戦でした。それを誰かが西華に流したから、情報との食い違いが生まれ、東黎軍は撤退を余儀なくされた。支部の警備システムが変わっていたことだけではなく、外にいる部隊も囲まれていたことを考えれば、内部に諜報員が紛れていたことは疑いようがありません。支部長は躍起になって、その者を洗い出そうとしていらっしゃる様子」
「ええ、そうよ」
「でも、そればかりお気になさっていて、あの戦いから無事に戻った者がどのようにして助かったのか。あの日の行動の仔細までは、あまり調査が回っていません。……特に、新王都支部の建物の中で戦った方々に関しては、軽い聞き取り調査くらいしか行われていないとか」
 それに関しては千歳も当事者だったので、頷いた。黎秦本部からの視察団が訪れて、今回の戦いについていくつかの質問と持ち物の調査を受けたが、部屋を丸ごと改められるような規模の調査ではなかった。どちらかといえば、調査をされている最中の千歳の態度や落ち着きを観察するためのものだったと思われる。

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