第十五章 夜を歩けば


 後で橘とも話したが、ハルピュイアと戦った者の多くは、助けのこない閉鎖空間で命の危機に曝されて、あの戦いを思い出すことに大なり小なり抵抗を抱えている。精神的なダメージが回復できず、未だ復帰できていない者もいる。そんな兵士たちを事細かに尋問することは、命からがら戻ってきた者に疑いをかける行為なのだ。度を越せば、軍に対する反感が噴き上がるだろう。そのため視察団もどこか距離を取って、腫れ物に触るような慎重さで接していた。
「ここへ戻ってから、ケイの最後の日のことを知りたいと言って、犀川准将にあの日の報告書を見せていただきました。何度も、何度も読んで……思い出したことがあるのです」
「思い出したこと?」
「ケイが西華から戻った夜に、言っていたこと」
 スカートの陰で、巴がぎゅっと手を握り込んだ。
「二階には脱出用と思われる扉が三つある。東と中央の二つは暗証番号が分かったけれど、西のひとつは番号の入力パネル自体がなくて、どうやって開けるのか、そもそも脱出用なのか何かの保管庫なのか、最後まで分からなかった……」
 記憶の中のケイの声をなぞるように、巴の口調がふいに、ケイのそれと重なった。まるで彼が降りてきて語っているような錯覚に陥って、千歳は慌ててかぶりを振った。
「開けられない扉を載せて、覚えさせたって無駄なだけ。人が覚えて、思い出せる数には限界があるんだから、役に立たない情報なら最初からないほうがいい」
「……じゃあ、どうするの?」
「報告しない。二階の扉は、東と中央の二カ所だけを報告書に載せる」
 頭の中に、忘れてしまいたくて隅へと追いやっていた作戦書が広がった。鉄とインクと瓦礫の香りを漂わせながら、地図が浮き出してくる。確かに、二階の扉は二つしか記載されていなかった。一階にも三階にも三つあるのに、二階だけ少ないのか、と思った覚えがある。
「ナーシサス少佐は、非常口のひとつを壊して脱出なさったそうですが、あの方は花。ロックのかけられていた東と中央の扉を、はたして破壊できるものでしょうか?」
 巴の疑問に、千歳も少し首を捻った。確かに、一階の薬品庫から脱出を試みたときは、蜂の隊員もいたが扉を壊せそうにはなかった。でも、一階と二階の扉が、どれも同じ造りとは限らない。
「わたくしはケイの記さなかった西の扉こそが、唯一のロックのない扉だったのではないかと思っているのです」
「ロックのない扉?」
「システムが何らかの原因で故障した際、どこからも脱出できなかったら困りませんか? そう考えると、一つくらいは、何らかの方法で――例えば力づくや、てこの原理のようなもので――壊せる扉があってもおかしくはないのでは?」
 声を潜めて、静かに流れる雪解けの水のように巴は話す。千歳は段々と彼女が言わんとしていることを理解してきて、そんな、と首を振った。
「疑ってるの? ナーシサス少佐を」
「……申し訳ありません」
「あの人が、特別な扉の存在を最初から知っていたんじゃないかって。だから脱出できたんじゃないかって、思ってるのね?」
 謝罪は肯定と同じだ。そして沈黙も、同じことだ。俯いた巴になんと言葉をかけたらいいか分からなくて、千歳はしばし視線を外して、感情を整理した。
 巴の気持ちは分かる。ケイは何者かに嵌められたのだ。彼が命をかけて集めた情報は役立たずの紙切れに変わり、仲間に疑いをかけられ、それを晴らす術も時間もなく命を絶った。裏で糸を引いたのが誰なのか、見つけ出して仇を討ちたいだろう。ケイの無実を、完全証明してやりたいだろう。そのために報告書をくまなく読んで――何も見つけ出せなかった、では、心が収まらなかったのだろう。
 だが、それでよりによってナーシサスを疑うのは、あまりにも酷い話だ。ナーシサスは怪我を負ったケイに応急処置を施し、彼をほとんど三日間、不眠不休で追手から守って支部へ連れ帰った。それによって命を取り留めたケイが、巴に術を使ったわけで、巴が生きているのはナーシサスのお陰でもある。
 ケイが殉死後に二階級特進を受けたのも、ナーシサスの嘆願があったからだ。兵長では慰霊碑に名前が刻まれない、あれだけの青年の名が残らないのはあんまりだと、本部に直接かけあったことも聞いていないわけではないだろうに。
(恩を仇で返すにも、程が……)
 呆れかかってから、千歳はいいやと考えを改めた。巴には今、受けた恩義の大きさまで考えられる余裕がないのだ。
 ケイを失った心の穴が、全身を蝕んで崩れてしまわないよう、わざと視点をぼかしている。そうでもしないと、この世界に生まれた彼の不在≠直視して壊れてしまうから。ケイの仇を取るという目標を持つことでしか、一寸先の未来にも目を向けられないのだ。
(少し前までの、私と同じだ)
 ネリネを失った悲しみを、橘への憎しみに変えて生きていた、自分と同じ。
 それに気づいた瞬間、彼女の心をどうしたら守れるか、天の声が囁くように分かった。……否定をしないことだ。橘が自分にそうしてきたように、復讐心を否定せず、ありのまま受け入れる。
 千歳は唇を引き結んで、できるだけ正直で、自分にも巴にも嘘偽りのない言葉を探した。
「私は、ナーシサス少佐は東黎の人だと思う」
「千歳さん……」
「でも、巴を一人にするつもりもない」
 諦めの表情を浮かべかけた巴が、え、と顔を上げた。ちょうどそのとき、通行人が通りかかったので、千歳は彼女の髪についた糸屑を取ってやるふりをして、耳元に声を寄せた。
「協力するわ。同じ部隊だもの、私だってナーシサス少佐を見られる機会は多い」
「本当ですか」
「真実をちゃんと、明らかにしましょう」
 ね、と励ますように言うと、喜ぶかと思っていた巴の目から、大粒の涙がひとつこぼれた。ずっと堪えていたのだ。背中に両腕を回して、少し痩せた体をこれでもかというくらい、力いっぱい抱きしめてやる。通りかかる人々から、ただの若い女同士の戯れだと思われるよう、嬉しいことなど何もないけれど大きく笑ってみせながら。
 ぽんぽん、と背中をあやして、巴の耳に吹き込むように告げる。
「このこと、橘少尉には内緒よ」
「はい」
「あの人、ただでさえ友達少ないんだもの」
 冗談めかして言いながら、千歳ははい、と頷いた巴の背中を、念を押す思いで叩いた。巴がナーシサスを疑っているなどと言ったら、橘がどう思うか分からない。彼にとってもナーシサスは、友人というより恩人だ。誰しも大切な人がいる。


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