第十四章 生きる者たち


 ナーシサスと橘、この二人と話すことは精神を清らかにしてくれる。百合川にも同じ気配を感じていた。今年の灯篭流しでは、香綬支部の者の他に、彼女の名前も想った。
 嫌われていても構わないから、もっと多くの言葉を交わしてみたかった。長い黒髪の奥の横顔を、このところやっと記憶の中で直視できるようになったな、とエメラルドの眸を伏せて思い描いたときだ。
「ナーシサス大尉」
 廊下の彼方から、少女の声がナーシサスを呼んだ。思わずナーシサスと一緒に顔を上げて、シランはぎょっとした。
「空木くん!」
 ナーシサスも驚いたように声を上げる。それから我に返って、辺りを見回した。
 空木巴だ。直接言葉を交わしたことは数えるくらいだが、香綬支部にあって彼女を知らない者はまずないだろう。空木財閥の娘である彼女は、不在がちなシランの父よりも有名人といっても過言ではない。だがシランたちは、今さらそんな彼女に話しかけられたことに驚いたわけではなかった。
「なぜここに」
 彼女が出歩いていることに、驚いたのだ。
 空木巴は先の戦で重傷を負い、契約者の桐尾ケイが散華術によって命を救った――それはシランも耳に入れていた。だが散華術は禁術だ。ケイの行いを表沙汰にするわけにはいかず、件の出来事についてはごく少数の目撃者と将校を除いて、真実が知れ渡ることのないように箝口令が敷かれたのである。
 ケイは戦場で負った傷が回復に至らず、亡くなったということに。巴は急激な回復を隠すため、一命は取り留めたものの、今も特別医務室で治療を続けているということに事実をすり替えた。彼女がケイの葬儀で支部を出入りするときも、ほとんどの者が眠っているかわたれ時を選び、一般の兵士たちの目に極力触れないようにしたと聞いている。
 つまり彼女は、まだここへ出てきてはならないのだ。ナーシサスが慌てて腕を取り、巴を柱の陰に引き込んだ。
「一体、どうしたと言うんだね。病室を出ないでくれと、あれほど――」
 白いサテンの寝間着に包まれた巴の肩を掴んで、ナーシサスが問いかけた言葉は、そこで途切れた。否、正しくは巴に呑み込まれた。
 青灰の眸がこれ以上ないほど大きく見開かれる。シランも目の前で起こった光景に息を呑んで、同じ顔をして呆けていた。
 銀の髪と外套を纏った肩に腕を回して、身を屈めたナーシサスを力ずくで引き寄せた巴は、その唇を奪っていた唇をゆっくりと離すと、
「……お探ししましたわ」
 包帯の上にすすき色の髪を滑らせて首を傾げ、ナーシサスを見つめて、うっとりと呟いた。
 ゴホ、とよろめいたナーシサスが咳き込む。
「少佐!」
「あ、ああ。すまない、平気だ」
 巴が蜂であったことを思い出して、シランが駆け寄った。毒が合わなかったのではないかと思ったのだ。どうやら久しぶりの薬以外の供給に、体が一瞬、過剰な反応を引き起こしただけらしい。
 ナーシサスは胸を押さえて、何が起こったのか理解しきれない様子で巴を見下ろした。
「わたくしと、契約を結んでいただきたいのです」
 微動だにしない目で、倍ほども歳の離れたナーシサスを見据えて、巴が告げる。提案の形を取っているが、その契約は実質、今、彼女によって成されたも同然だった。彼女の毒にナーシサスが適合しているかも確かめないまま、一方的に。
「なぜ、私を選ぼうと?」
 やっとの思いでそれだけを、というように、ナーシサスが訊いた。巴は傍で立ち尽くしているシランの存在など、横目にも留めずに瞼を伏せると、
「蜂が生きるのには、花が必要なのです」
「それは、そうだが」
「隣の花に移っただけなら、仕方のないことだと、手折られた花も思うでしょう?」
 澄んだ、どこか清涼すぎて空恐ろしい声で、そう言った。遠くの花に飛んだら、目移りしたかのよう。でも近くの花に飛んだなら、それは生きるために、最も手の届きやすかった花を見つけただけのこと。
 足元から見ている枯れた花も、裏切りとは思うまい。巴が誰のためにナーシサスを選択したのか、深い海色の眸が脳裏で大きく瞬いた思いがして、シランはぞくりと背中を震わせた。
 巴の中では今も、ケイが。否、ケイこそが生きているのだ。
「あなたも、そろそろ蜂が必要なはず。ローズ少佐とは重なりようのない、あなたの思い出を侵さない蜂が」
「……空木くん」
「わたくし達は、良い協力関係を築けるとは思いませんか?」
 ナーシサスの頬に手を当てて、巴はにこりと、崩れる一秒前の花のように微笑った。


- 57 -


[*前] | [次#]
栞を挟む

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -