第二章 香綬支部


 香綬は東黎の主要な都市の中で、最も西寄りに位置する街である。帝都黎秦は中心より結構東に奥まっているから、二つの都を行き来するのは、この国を半分以上横断するようなものだ。かつては西の帝都とも言われるくらい、立派な寺社が立ち並ぶ巡礼の街だったというが、今やその面影もない。
 香綬が戦火で街ごと焼け落ちたのは、千歳が生まれる前のことだ。三十年くらい前だから、橘もまだ生まれていないんだ、と千歳は道すがら聞いた彼の年齢を思い出した。今年二十六になったという。想像していたより、一つ二つ若い。
 赤ん坊が大人になるよりも長い月日が経ったのに、香綬の街は今もどこか、燃え跡から立ち続ける煙の中に沈んでいるような陰鬱さがあった。耐火煉瓦の壁でぐるりを囲んだ青銅門の支部は、その灰色の影の中に突如として現れた、幻の城のようだった。
「おかえりなさいませ、橘少尉」
「ああ。これを犀川(さいかわ)大佐に」
「はっ」
 入り口で出迎えた兵士に頭を下げられ、千歳は慌てて深々とお辞儀を返した。橘は慣れた様子で、ポケットに差してあった幽安からの手紙を彼に託す。黎秦の本部に比べれば簡素な造りの建物だが、それでも千歳が人生で目の当たりにしてきた建物の、上位三つに入るのではないかと思われた。一番は本部、二番は帝城だ。ちなみに四番目となると、帝城そばの総合病院とか、通っていた女学校にスケールダウンする。
「こっちだ」
 左手のたくさん並んだ、揃いの箱みたいな建物は兵舎かしら。きょろきょろと見回しているうちに足が遅れたのか、橘が暗に「早く来い」と千歳を呼んだ。はぐれないよう、急いでその背中にぴったりとついていく。
 まともに外に出たのは、いつ以来か――春に風邪を引く前だから、もう半年以上前だ。久しぶりに出歩いているというだけで些か緊張するものがあるのに、煉瓦の壁の内側はお祭りでもあるのかしらと思うくらい人がざわついていて、よそ見をしたらあっという間に橘を見失ってしまいそうだった。
「お戻りでしたか、少尉」
「たった今だ」
「お疲れ様です」
 外壁と同じ煉瓦造りの建物に入って、どこかへ向かっていくあいだ、橘は何度となくこの支部に勤めている兵士から挨拶を受けた。目下の者の場合もあれば、目上の者の場合もあった。少尉とはいわゆる将校階級の一番下だから、まだまだ上には上がいるし、下から見れば自分たちとは一線を画した人である。
 何かと窮屈そうな立場だが、橘は意外と下には慕われ、上からの信頼も薄くないようだ。だが、そういう良い意味での視線と別に、千歳は広い廊下の左右から注がれる目の多いことを感じて、ちらと顔を横に向けた。
 ――あれが、断花≠フ新しい……
 ――声がデカい。聞こえるぞ、ホラ。
 千歳と目の合った二人組の兵士が、愛想笑いを浮かべてそそくさと去っていく。初めはただ感じの悪い、と睨んでいたが、何度となくそういうことがあって、だんだんと会話のほうを聞き取れるようになってきた。
 たちばな、と呼び捨てにしているのかと思ったが、そうではない。陰口のようなあだ名だ。花を断った――つまり、ネリネを殺したことを指しているのだろう。どうやら彼の過去の所業は、ここでもまだ、過去にはなりきっていないらしい。
(当然の報いだけれど)
 ちゃり、と髪留めの雫が揺れた。橘が足を止めたので、千歳も急停止したのだ。
「ナーシサス大尉。橘です」
 見れば、それまでに通ってきたところよりもいくらか立派なドアが、橘の前に佇んでいた。手袋を外した手でノックして名乗ると、中から返事が聞こえる。
 失礼します、と言って、橘がドアを開けた。
「やあ、カーティス少尉。よく帰ったね」
 ドアを開けた瞬間、鼻の奥がきゅうっと詰まるような甘い香りがこぼれ出た。正体はすぐに分かった。応接用の丸テーブルの上に置かれた、一抱えもある水仙だ。深い色のテーブルに、鞠のように活けられた白と黄色の花がよく映える。
 優美な部屋だった。象牙色の壁に張りつくように設えられた家具は、どれもみなアンティーク調で、深いこげ茶色で統一されている。戸棚には本棚以外すべて観音開きの扉がつけられ、ところどころに輝く硝子の嵌め込み窓から、中の勲章やインク瓶、コーヒーカップなどが覗いていた。赤いアラベスク模様の絨毯が一面に敷かれている。
 千歳は初め、靴を脱いで上がるのだと本気で思った。だが、橘がブーツのままで入っていったのを見て、ナーシサスの足元に視線を走らせた。執務机から橘の元へ歩み寄ってきた彼も、厚い革のブーツを履いていた。
「長旅、ご苦労様だったね。道中何事もなかったようで良かった」
 入って閉めて、という仕草に、入口へ突っ立っていた千歳は慌ててドアを閉める。ナーシサスはその間に橘と握手を交わし、丸テーブルの脇のソファに積んであったクッションを適当に退けて、千歳が抱えているオーバーコートを置ける場所を作った。ついでにそこへ、二人分の席も作る。
「黎秦はどうだった。今コーヒーを淹れよう」
「ああ、いや。有り難いのですが、部屋に電報が溜まっているそうなのであまりゆっくりはできなくて。相変わらずですよ。毎年寒いところですが、今年は例年にも増して冷えていたような気がする。師走にしては、街の人出も少ないですね」
「おや、そうなのか。それは残念だ。今年は郊外に西鬼(さいき)の襲撃が多い一年だった。農村が荒らされて正月の支度に使うものも皆、値段が吊り上がっているしな。帝のご様子は何か耳にしたか?」
「北明(ほくめい)の帝君と、使者を通じて手紙を交わされたとか。あちらは実質、大帝争いから手を引くつもりのようです。代わりに国境の不可侵を求めている」
「南輝(なんき)との戦いが、ずっと膠着状態だったらしいな。長期戦に持ち込まれると、やはり北明は不利だ。痩せた土地で人を動かし続けることは難しかろう」
 今のうちに守れるものだけ守るのも賢明な判断だな、とナーシサスは窓を開けながら頷いた。ストーブの熱と水仙の匂いが、こもりすぎていることに気づいたらしい。執務机の上には書きかけの書類が何枚も重ねられている。きっと仕事に没頭していたのだ。
「して、そちらのお嬢さんが」
 ナーシサスが振り返って、青灰の眸を千歳に向けた。
「君の、今回の黎秦行きの本命か。カーティス少尉」
「ええ」
 橘が千歳の腕から、オーバーコートを取り上げた。理由はすぐに分かった。大股にやってきたナーシサスが、千歳に手を差し出したからだ。
「薊千歳くんといったかな」
「はい」
「私はユリウス・ナーシサス。花繚(かりょう)軍大尉だ、よろしく」
 花繚軍――ということは、彼は花なのか。よろしくお願いします、と握手に応じながら、千歳は改めてナーシサスを観察した。自分より頭一つ高いところを見ると、百八十センチくらいだろうか。橘と並ぶと彼のほうが若干大きいせいであまり感じなかったが、ナーシサスも目の前にすると十分どっしりとして、迫力がある。
 ただ、雰囲気は鷹揚で、早口だが声には落ち着きがあった。顔全体を彩る豊かな表情は、一見すると親しみやすい気配を醸し出している。大尉という以上、それだけではない切れ者な面も備えているのだろうけれど。銀髪のせいでいくらか老いて見えるが、三十五、六といったところか。


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