第二章 香綬支部


 橘のものと作りは似ているが、白地で、銀のボタンが前一列に並んだ制服を着用していた。左胸に咲く薔薇の刺繍や、右肩に連なる飾緒も銀色だ。花繚軍は全体的に、装飾を銀で揃えているのだろう。
「顔色がいいね」
「え?」
「幽安からの電報で、だいぶ衰弱しているから場合によっては途中で馬を止めて休むとあったから、どんな状態かと思ったが。適合率がよほどいいんだろう。元気になったようで、何よりだ」
 まじまじとナーシサスを眺めていた千歳は、彼もまた自分を観察していたことに気づき、同時に「顔色がいい」という言葉の意味を理解して、握っていた手を振りほどくように離した。真っ赤になった千歳を見て、ナーシサスは思いがけない反応だったのか、おやと目を丸くした。
 六日間に及ぶ道中、馬車という密室空間で、橘は千歳に対して非常に定期的な供給を行った。それはもう、植物の発芽でも記録するための水遣りか何かのごとく、一定の時間を空けて事務的に躊躇わず。口づけを介して、毒の供給を続けた。
 体液には主として唾液、汗、血液、精液、愛液などが挙げられるが、蜂花(ほうか)の多くが主要な供給源として選んでいるのは唾液だ。性交よりも手軽でリスクがなく、季節を問わず、肌を切る必要もない。橘がこの方法を選んだことに、千歳も異議を唱えるつもりはなかった。蜂花の契約というのがどういうものか、花に生まれた者としてそれくらいは知っているし、ついてきた以上、避けられないものと覚悟は決めている。
 道中、何度か馬車の揺れに任せて舌を噛んでしまおうかという考えは頭をよぎったが。そのたび今際の際の苦しみが思い出されて、踏み切れなかった。
 正常な体力と思考力を取り戻した今となっては、あのときどうして正気を保っていられたのか分からない。ナーシサスの言う通り、認めたくはないが、かなり相性がいいのだろう。契約から一週間で、千歳は床に伏していたのが嘘のように元気を取り戻した。全身がかつてないほど軽やかで、天女の羽衣でも纏っているみたいな気分だ。今となってはH75が、いかに「健康になる」のではなく「死なない」だけの気休めだったかよく分かる。一度そうして死の淵から遠ざかってしまうと、もう一度戻るのは初めて行ったときの数倍恐ろしい。
 死にたくないという欲望に負けて橘についてきたことを、千歳は未だに、自分の中で上手く昇華しきれずにいた。橘との供給が上手くいっていることを指摘されると、口づけを見透かされただけではなく、死ぬのが怖くて友の仇を取れなかった自分の弱さまで見透かされた気がしてしまう。泣きたいような恥ずかしいような、憤りで頬が熱くなったのだ。
 初対面のナーシサスの前で、こんな顔は見せられない。千歳が唇を引き結んでうつむいたとき、ばさりと、何か黒いものが頭から被せられた。
「申し訳ない、大尉。帝都の隅で野良猫のように暮らしていた娘でして、まだ蜂花の関係に慣れていないのです。あまり、言わないでやっていただけると」
「ああ、そうだったのか。これは失敬。確かに、うら若いお嬢さんに対する発言ではなかったね。忘れてくれ」
 オーバーコートを頭巾のように被ったまま、千歳はおずおずと目線を上げて、ナーシサスにお辞儀をした。彼は橘の言葉で、自分が千歳に恥ずかしい思いをさせたと思ったらしい。気にしないでくれたまえ、と念押しして、千歳から視線を外すように、会話の相手を橘に戻した。
 ……助けられたのよね。
 コートを肩に羽織り直して、ショールを着るように前をかき合わせながら、千歳はちらと横目に橘を見上げた。返事ができなくなっているのに気づいて、茶々を入れる格好で代わってくれたのだろう。野良猫呼ばわりは心外だが、まあ事実だ。お陰様で少し冷静になって、顔の熱さも冷めた。
 気まぐれなのか、新しいもの好きなのか。命をひとつ見殺しにする人間らしからぬ、手の差し伸べ方だ。期待していなかった助けに、千歳は困惑を押し隠して、会話する二人の顔を交互に眺めた。――笑った。橘がふと、ナーシサスの冗談に笑いをこぼした。
 千歳は心の中で驚いた。橘は冷酷非道で人を人とも思わず、誰に対しても隙を見せない。そんなふうにイメージを抱いていたからだ。でもナーシサスとの間には、上官と下僚という一定の礼節の中に、ほのかな親しみが垣間見える。
 ……友達、いるんだ。思ってから、我ながら失礼な、と気がついて、喋ってもいない口をそろりと手で塞いだ。
 コンコン、とノックがドアのむこうから響く。
「失礼します、ナーシサス大尉。橘少尉がこちらにおられると伺ったのですが、いらっしゃいますか?」
「ああ、弟切くんかい? いるよ、入りたまえ」
 ナーシサスが、まだ開いていないドアに手招きをする。ドアのむこうの来客は、今一度「失礼いたします」と断ってから、ノブの音をほとんど立てずに入ってきた。
 すらりと華奢な印象の、若い青年だった。橘と同じカーキの上下。広いが薄い肩に、金の肩章が輝いている。蜂だ。
 ドアを閉めるときもノブを回した状態で握ったまま閉め、歩くときも踵から爪先まで、波を打たせるように静かに下ろす。身のこなしがどこか茶道を思わせる、洗練された印象の青年だった。冬に罅割れた木の皮のような、灰色がかった茶色の髪が、尚のこと彼の纏う空気を粛然としたものにさせている。
「お話し中に申し訳ありません。お帰りなさいませ、橘少尉」
「ただいま、弟切。何か急用か?」
「雨宮支部長からの電報を預かったので、早めにお渡ししたほうがよろしいかと思いまして」
「支部長から? 見よう」
 弟切はポケットから、二つ折りにされた電報を取り出した。内容は見ず、まっすぐに持ってきたようだ。受け取った橘が開くのを、ナーシサスが肩越しに覗き込む。ふむ、とその目が良い知らせを見たらしく微笑みの形を作った。
「橘小隊に兵士を送る、か。君の統率が買われている証拠だな」
「危急の知らせではありませんでしたね」
「だが、大切な知らせだ。ありがとう、弟切。……ああ」
 電報を袖口に挟んで、橘が視線を千歳に向ける。弟切が見ていることに気づいて、思い出したのだろう。千歳を手で示して、変わらない淡々とした口調で言った。
「お前にも紹介しておかないとな。薊千歳、俺の新しい契約者だ」
「新しい、花……」
「千歳、こちらは兵長、弟切司(おとぎりつかさ)。お前と同い年で、俺の小隊の所属だ」
 よろしくお願いします、と千歳は挨拶を述べた。こちらこそ、と弟切は答えた。だが、彼が「新しい契約者」と聞いたときの苦々しげな顔は、一瞬だったが千歳の瞼にこびりついて離れなかった。
 この人も、橘が過去にしたことを知っているのか。あまり、歓迎を受けたという感じはしない。握手もなく、弟切はそれ以上話をする気配も見せず、ふいと千歳から視線を逸らした。
 会話が途切れ、誰が次の口火を切るのか、沈黙の中に数秒の探り合いが流れた。
「君の所属も、決めてしまわなくてはね。薊くん」
 ナーシサスがそれとなく、その役割を買った。年長者の機転によって、場は再び会話の空気を取り戻した。弟切が三人に一礼して、来たときと同じ、静かな足取りで部屋を出ていく。


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