第一章 其の花は薊


 ――はっ、と潤んだ息を吐いて、千歳は布団を握りしめていた手をそろそろと解いた。目を開けると、すぐ近くに橘の顔があって、糸を架けた唾液を舌で切る仕草に心臓が飛び出しそうになる。
 視界はもう揺れていなかった。体のどこにも痛みはなく、先刻まで意識が遠退きかけていたのが嘘のように冴え冴えとしていた。冷えた頭で、千歳は今一度橘を見やって、唇を噛みしめた。
 救われたのだ、この男に。死の際から引き戻された。親友を奪った男に。もう熱くも寒くもないはずなのに、全身がぶるぶると震えた。
「悔しければ、俺と香綬へ来い」
「なんで、貴方なんかと」
「来て、俺に報復する機会を探せ。それなら生き長らえる理由になるだろう?」
 千歳の顔に、かあっと熱が上った。死なずに済んで安心している心を見透かされたことが、キスなんかより遥かに恥ずかしく、絶望的だった。本当は分かっていた。橘の舌を噛み切って、自分も死ねばよかったのだ。そうすればあの世で、大手を振ってネリネに会いに行けた。裏切りたくなどなかったのに、死ぬのが怖いと思ってしまった。
 橘はいつのまにか脱いであった帽子を取って、
「出立は明朝七時だ。荷物をまとめておけ」
 単調な声音で言って、すっくと立ちあがった。千歳は黙って布団を膝にかぶり、彼が木戸を開けて出ていくのを、下を向いて足先だけ見送っていた。


 夜のあいだに降った雪が、半透明の氷となって舗道を覆っている。子供か誰か、朝一で走り回ったか、わずかに土の汚れをつけている雪の上に立って、橘は木戸の開く音に顔を上げた。
「来たか」
「……おはようございます」
 顔を覗かせた千歳は、合わせた視線をふいと逸らしたものの、両手を前で揃えて律義に挨拶をした。おはよう。やや面喰らいながら、返事をする。橘は煙草の火を雪で揉み消して、千歳を一瞥し、眉間に皺を寄せた。
「それだけか?」
「よろしくお願いします」
「ああいや、そういうことじゃない。荷物だ」
 ぶっきらぼうに答えた千歳は、橘がそれ、と指さした手元の風呂敷包みを見下ろして、ええと頷いた。元々、寝具も家具も前の住人が置いていったものばかりだ。あの家に千歳の持ち物は、ほとんどなかった。
 持ってきたのは寝間着にしている浴衣と夏の草履、古いひざ掛け、それに手紙を書くための道具一式くらいのもので、それが千歳の持ち物のすべてだった。それと、着ているもの一式――中紅の矢絣柄着物、茄子紺の袴、枯茶の革ブーツ――である。唯一、持ち物の中で高価そうなのが髪留めで、ハーフアップにした髪の結び目に、赤い漆の蝶が留まっている。片側の翅に朝露のような硝子粒がひとつ、下がっていた。
 木戸を閉める千歳の後ろ姿にその髪留めを見て、橘は人知れぬため息をこぼした。見覚えのある品だった。あれは黒漆でできていたが。真っ赤な癖毛の片側に、ネリネはいつもそれを留めていて、友人と卒業の記念に買ったものだとはにかむように話していた。
「香綬へは、それで?」
 橘の後ろに控えている馬車に視線をやって、千歳が訊ねる。馭者が馬上で帽子を取って、恭しく頭を下げた。
「山を迂回して、途中幽安(ゆうあん)の支部に手紙を届ける。むこうに着くのは、六日後だ」
 荷物がこんなに少ないのなら、もっと手狭な馬車でもよかったな、と橘は思った。一晩で引っ越しの準備をしろといったところで、大した取捨選択はできないだろうと思い、大きめの馬車を頼んだが。積み荷が少ないのでは、無意味に寒いだけだ。
 そこまで考えて、はたと気づく。
「上着は」
「ないので、ひざ掛けを入れてあります。お構いなく」
 淀みなく答えて、千歳は橘の横をすり抜け、馬車の扉を開けた。馭者が慌てて降りてきて手伝うのを、ありがとう大丈夫です、と幾許か愛想よく遮って馬車に乗り込む。さっさと出発しましょうと話を切り上げる態度に、橘が浅いため息をつく。
 ――嫌われたものだな。
「着ておけ」
 オーバーコートを脱いで投げるように渡すと、席に座ってそっぽを向いていた千歳が、驚いて小さな悲鳴を上げた。結構です、と返そうとしてくる手を車内に押し込んで、馬車を出すよう馭者に命じ、自分も向かいの席に乗り込む。
「橘少尉、これは」
「意外だな。もっと悪意のこもった呼び方をされるとばかり思っていたが」
「寝首をかく以上、周りには私が貴方を従順に慕っていると思われたほうが、都合がいいもの」
「ああ、成程」
「……軍に入るなら、規律と風紀に従うわ。契約者の花にコケにされる将校なんて、部下に示しがつかないでしょう?」
 本心は後者にあるのか。思いがけない言葉に上げた橘の視線から逃れるように、千歳はコートをばさりと広げて、肩からかぶった。襟の毛皮が寒さに竦めた首筋をくすぐって、息をすると、自分の呼気で温かさが広がっていく。
「お気遣いどうも」
「軍の士気のためよ」
 毛皮の上から澄んだ目で睨みつけた千歳を見て、橘はそれ以上なにも言わず、窓の外に目を向けた。ガタンと馬車がひと揺れして、雪に覆われた舗道を走り出す。千歳が窓の外に手を振った。見れば、あの富さんとかいう隣人の女が、割烹着に柄杓を持ってその手を大きく振っていた。
 ……家族がいないのか。
 今さらながらにそう気づいて、橘はそういえば事前に渡された資料で読んだ気もするがと、千歳の生い立ちについて思い出そうと眉間に指を当てた。が、あまりはっきりと思い出せない。契約者の生い立ちだの以前に何をしていたかだの、知ったところでどうなるものでもないと思い、そういった些末な情報にはほとんど目を通してこなかった。だが、ネリネの学友ということは孤児か。
 自分が見ていると気づいたら、強がって手を振るのをやめそうだ。
 橘は窓に肘を預けて頬杖をつき、目を閉じた。持たざる者の気持ちは、持たざる者にしか分からない。ただでさえ憎まれ、恨まれている相手に、今この場で家族はどうしたなどと不躾なことを訊くつもりはなかった。


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