第十四章 生きる者たち


 葉月の灯篭流しが今年ほど長い光の帯を作ったことはなかったと、閉会後の帰り道、ナーシサスが言っていた。薄紅色の紙で作った蓮華の形の灯篭に、一人一人火を点けて、坂下の裏手を下る川へと流す。本部を含め、すべての支部で近隣の川を使って行われている、東黎軍の夏の恒例行事だ。香綬支部では今年、ほとんどすべての兵士が参加した他、坂下からも多くの参加者が集まり、かつてない大規模な人数でのしめやかな一夜となった。
 未だ昨夜の光景のような灯篭流しから、早二日。千歳はナーシサス隊での部隊訓練を終えて、支部の廊下を歩いていた。兵舎に戻って汗を流す前に、医務室へ寄って消毒をしてもらおうと思っていたのだ。大した怪我ではないのだが、今日の訓練で新兵の放った術が腕を掠めてしまい、ちょっとした擦り傷を創った。平謝りしていた少年に余計な心配をかけないためにも、きちんと処置をして、痕を残さず治したい。
 ちょうど昼時に被っているからか、廊下を行き違う人の姿はまばらである。皆、食堂に行っているのだ。医務室もこんな感じであまり忙しくないといいのだけど、と考えながら一つの執務室を通りかかったとき、
「おや」
「千歳」
 ガチャ、と丁度ドアが開いて、中からシランと橘が姿を見せた。思わずあら、と瞬きをしてから、シランに頭を下げる。そういえばここは、彼の執務室だった。
「こんにちは、薊一等兵。……あ、もう違うのか」
「え?」
「薊上等兵、だね。昇級おめでとう」
 にこりと微笑みかけられて、千歳は呆気に取られた。後ろから出てきた橘が、手にしていた資料を差し出す。
「ちょうど今、本部から届いたばかりの通達でな。今月の昇級者の一覧だ」
「あ……、もうそんな時期なのね」
「お前の名前もある」
 受け取って、千歳は橘の指差した箇所に目を落とした。確かに薊千歳の名前と、上等兵という文字が並んでいた。
「もう見てもいいの?」
「ああ、午後には掲示されるからな。構わないだろう」
 将校には開示されても、下士官にはまだ公開されない場合もある。橘に限ってうっかり漏らすようなへまはなさそうだが、念のため確認を取ってから、千歳は資料を捲った。
 合計十数枚の紙に渡って、ずらりと名前が記されている。いつもより多い、と思って、それが殉職による特進も含んでいるからだと気づき、胸がつんと痛んだ。それ以外の昇級者も、多くが「新王都支部での功績により」と記されている。千歳もそうだった。皆、あの戦いに参加した者の名前だ。
 雨宮と犀川が揃って准将へ。ナーシサスとシランが少佐へ。百合川が殉職により二階級特進を受けて中佐へ。弟切の名前もある、彼は伍長だ。
 ケイの名前の横に記された「軍曹」の文字を見て、眸の奥にこみ上げてくるものを抑える。千歳は目元に手をやってから、ふと気づいてリストをもう一巡した。あれ、と思考が戸惑いを覚える。これだけ見知った名前が並んでいるのに、
「橘少尉は?」
 彼の名前が、どこにもない。見落としだろうか、と尚も資料に目を通しながら訊いた千歳に、橘は何でもないような声で、
「ああ、俺は据え置きだ」
 あっさりとそう答えた。驚いて顔を上げると、本当だと念を押すように首肯される。
 脳裏を一瞬にして、新王都支部での戦いの記憶が染め上げた。外界と切り離された灰色の石の箱の中での、ハルピュイアとの壮絶な戦い。鳴き声も羽ばたきも、無線機から響いていた叫び声も、まだ真後ろにあるかのように耳の奥にこびりついている。
 未曽有の混乱であった。香綬支部始まって以来の大敗であることが疑いようもない、失ったものばかり数えきれなくて、得たものは何一つない戦いだった。灯篭流しで鎮魂を終えた翌朝、掲示板に支部長印つきの掲示が貼り出された。〈緑の面を被った鬼を許すな〉――緑、つまり東黎の人間のふりをした西華の諜報員が、この支部の内側にいて、今回の作戦を操ったことを、本部と雨宮は罪人の全面捜索開始のメッセージを以って、暗に認めたのである。
 そんな、最初から破綻に仕向けられていた戦いの中を、だ。最前線で戦い抜き、戦闘の指揮と撤退の指示を下し、単身、管制室へ乗り込んで。一階で分裂していた部隊を脱出させ、その後も撤退戦に身を投じ、多くの兵を連れて帰還したのは誰だったか。
「なんで?」
「仕方ないだろう。上の判断なんて、大抵は意図が分からないもんで……」
「なんで――少尉じゃなくて、貴方が昇級なの?」
 顔を上げた千歳の視線が射貫いた相手に、橘が言葉を止めた。一双の黒水晶に千歳が映したのは、橘ではなく、彼の隣に立ったシランだった。
 戦場以外で崩れることのない、微笑みで頬骨の型を取って生まれたようなシランの表情が、は、と凍りつく。千歳は構わず、スカートを握り締めて続けた。
「私、覚えてるわ。貴方が橘少尉の声に、一度も答えてくれなかったこと。敵に囲まれて助けを求めていた私たちに、救援も撤退も、なんの命令もくれなかったこと」
「おい」
「あのときは、ハルピュイアの鳴き声で無線機が通じなかったのかと思っていたけど、犀川大……准将や橘少尉とは、途切れ途切れでも通じていたもの。ずっと通じていなかったなんて思えない。全体を見渡す丘の上に立って、爆発からも生き延びたのに、何をしていたの? 私たちが戦って、雑草みたいに死んでいくのを、ずっと眺めていたの? 無傷のままで?」
「おい、千歳」
「全部、覚えてるんだから。なのにどうして貴方が昇級して、貴方なんかよりよっぽど命を懸けた橘少尉が、報われないの!」
「千歳!」
 がっと肩を掴んで振り向かされて、千歳はよろめきながら橘を見上げた。琥珀色の目が怒っている。でも、千歳も同じくらい怒っていた。
「こんなの、理不尽じゃない」
 貴方だって本当はそう分かっているはずだ、と確信を持って睨みつければ、橘の表情にかすかな動揺が生まれる。手のひらで乱暴に目を擦って俯き、
「どうしてよ……」
 千歳は言葉を止められなかった。階級のことなど、本人に何を言っても仕方ないと頭では分かっているのに、引鉄を離すことができなかった。きっと何か理由があったのだ。未曽有の事態だったのは誰にとっても同じなのだ。そんなふうに自分を抑え続けていたが、本当はずっと、香綬支部へ戻ってから、シランのことを考えないようにしていた。考えると、思わずにいられなかったのだ。
 どうして「逃げろ」の一言さえ言ってくれなかったの。
 どうして見殺しにした私たちの前に、平然と帰ってきたの。
 どうして傷だらけになった人たちの前で、変わらず笑っていられるの。
 見捨てられた虚しさで怒りが湧いて、どんな態度を取ってしまうか分からないから避けていた。それなのに今、何の心の準備もなく出くわして、昇級のことを聞いて、抱えていた感情が爆発してしまった。


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