第十三章 命の咲かせ方


 しかしケイはそれを、誰からか教えられて知っていた。おそらくは退役後、空木家の執事という桐尾家代々の仕事に就いていた父親から聞かされたのだろう。そしていざというときには僕が君の命になるからね、と、十にも満たない時分にこっそり、巴に打ち明けていたという。
 巴はそれをずっと、物の例えだと思っていた。けれど体を銃弾が貫通した記憶がありながら、意識も鮮やかに目を覚ましたとき、ケイの言葉が本当に言葉のままの意味であったことを知ったのだ。
「自分で下ろした幕だけれど、ケイは天国に行けるかしら」
 桐尾ケイ、という名前を眸の中で描くように見つめながら、千歳がぽつりと言った。黙っていると思い出ばかりがこみ上げてくるのを、飲み込むために無理やり探した言葉でもあった。
 橘は琥珀色の目を、煙草の先へやったまま、
「軍人なんて、誰も地獄だ」
「どうして?」
「天から見れば人を殺した時点で、善も悪も、上も下もないだろう」
 諦観したように答えて、慰霊碑の前から少し離れて灰を落とした。桜の幹にとまっていた蝉が、まだ時間のあることを思い出したみたいに鳴き出す。姿の見えない蝉を見上げて、橘は細く、長い息をついた。
「そっか。じゃあ、私とも一緒ね」
 カーキの制服を着込んだ背中に、明るく告げる。驚いた顔で振り返った橘に、千歳は笑って、目を伏せた。
 血を流したのは初めてだった。西鬼は傷ついた部分から灰になって消えてしまうから、苦悶の表情で血を流して倒れた亡骸を見ることはない。そういう意味では、戦いやすい敵だったのだ。恐怖、憎しみ、敵愾心。負の感情だけで立ち向かえた。
 人間となると、どうもそうはいかない。立てかけた大弓を見やって、千歳は寝不足でほんのり赤くなった目を擦った。
「あの世には敵も味方もねえさ。いつか会ったら、酒でも酌み交わしてじっくり話せばいい」
「少尉……」
「そう思っておけよ、今は」
 砂に埋もれた古い石畳で煙草を揉み消して、橘は暑そうに帽子を脱いだ。影をなくした横顔は、日の下にいることが嘘のように白い。地獄の赤提灯と夜は、この人によく似合うだろうなと思った。そしてきっと、自分にも。天国の綿雲と朝より似合う。
 ネリネ、貴方は天国にいそうだわ。
 赤い髪を靡かせて綿雲に寝転んだ親友の姿を想像して、千歳はあまりの似合いように思わず笑いをこぼした。怪訝そうな視線を向けた橘に、何でもないのよ、と秘密めかしてそっぽを向く。呆れたように首を傾げてから、ならいい、と言って帽子を被り、
「日が差してきたな。そろそろ戻る」
「あ、私も行くわ」
 踵を返した橘に並んで、千歳も大弓を手に歩き出した。兵舎のどこかで、誰かがレコードをかけている音が聞こえる。
「なんだったかしら、この曲」
「知ってるのか」
「知ってる気がするんだけど。蝉の声がうるさくて、出てこない」
 あれでもない、これでもない、と女学校時代に覚えた曲を数え上げながら、高い漆喰の壁が作った日陰を歩く。
「千歳」
 橘がふと、千歳の曖昧な鼻歌を遮って口を開いた。何、と振り返ると、思いがけず真面目な眼差しがそこにあって驚く。あれ、と身構えた千歳に、彼は言った。
「俺がどんなに惨めに死にかけても、命をくれようとは思うなよ」
 言葉が、水滴のように脳を叩いた。夏の空気にぼんやりと溶けかかっていた思考の輪郭が、ふいにはっきりと線を取り戻したような。目を覚まされた思いがした。ケイが死んでからずっと、どこか軽くなっていた体が、正しい重さを思い出してどくんと大きく震えた。
「何、言ってるのよ」
 見つめる橘の視線に打ちつけられて、目を逸らせないまま、千歳は唇に弧を描く。
「私が貴方のために、そんな殊勝なこと、するはずないじゃない」
 そうして下手な冗談を聞いたみたいに笑って言えば、橘はそれもそうだな、と頷いて、それきり話をレコードに戻した。学生時代の思い出話に相槌を打ちながら、千歳は未だ、堰き止められていた血が巡り出したかのように、どくんどくんと戸惑っている胸に手を当てて、
(……するはずが、ないわよ)
 本当の答えを見つけられないまま、橘の言葉を反芻していた。


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