第十四章 生きる者たち


 沈黙に、橘が奥歯をきつく噛み締める。その声が千歳に代わって、失態を詫びるよりも先に、
「……ごめんね」
 謝ったのは、シランだった。
「シラン少佐、これは」
「いい、橘少尉。庇わないでくれ。彼女のことも、僕のことも」
「……っ、しかし」
「彼女の言ったことが、正しいよ」
 息を呑んだ橘に、シランは寂しげに眉を下げて笑った。心の中に息巻いていた嵐が、風向きを見失ってぴたりと止む。自分の起こした出来事でありながら、千歳は呆然としてシランを見上げた。
 言い訳ひとつせず謝られるなんて、想像もしていなかったのだ。
「君の意見は、誰もが思っていることだから。陰で言ったか、面と向かって言ったかの違いだ」
「あ……」
「悔いる必要はないよ。……助けられなくて申し訳なかった」
 帽子を胸に当てて深々と、シランはまるで皇帝にするように頭を下げた。その姿には千歳のみならず、橘も驚いて、すぐに反応ができなかった。
 顔を上げたシランは、すでにいつもの柔和な笑みを取り戻していて、
「薊上等兵がいるということは、ナーシサス少佐も戻られたかな。彼にも資料を渡してくるよ」
 癖のついた髪を押し込むように帽子を被って、千歳たちに背中を向けた。
 その後ろ姿が小さな人形ほどの影になるまで、長い沈黙を持て余してから、
「理不尽だと、気づいていないわけじゃない」
 橘が詰めていた息を吐いて、呟いた。
「じゃあ……っ」
「でも、あの人にもどうしようもない事情があるんだ。これ以上は責めてやるな」
 どうして平気な顔をしていられるの、という千歳の疑問を遮って、橘が諭す。彼は千歳の手から一覧表を取り上げると、一枚目の頭にあるシランの名前を指差した。
「ちゃんと見てみろ」
 促されて、千歳は一歩、橘に肩を寄せて資料を覗き込む。昇級の理由が何か特別なのかと思ったが、橘が示しているのは、名前の欄だった。
「雨宮・T・シラン……えっ?」
 口にして、覚えのある響きに別人の顔が脳裏を過ぎる。目を合わせた橘は、そうだ、と頷いて、
「シラン少佐は、支部長の一人息子だ。本人が雨宮と名乗るのを避けているから、入ったばかりだと知らない奴も多い。お前も初耳だったか?」
 千歳は目を瞠ったまま、こくりと頷いた。
 言われてみれば髪の色も、目の色もよく似ている。でも雰囲気がまるで違って、考えたこともなかった。シラン、と皆が呼ぶから、それも名字だとばかり思っていて。
 橘はポケットに手を突っ込むと、煙草を一本抜いて、火を点けた。
「あの人は、あれで結構、身体能力は高いんだ。たまに手合わせなんかすると、基礎に忠実な剣を叩き込んできて、圧倒されることもある」
「そうなの?」
「だから本来なら、前線に立ったほうが力を発揮できるタイプだと思うんだが、それを雨宮支部長が許さない。後方で指揮を執るような仕事ばかり回されて、いつも周りのまたか、という陰口に聞こえないふりをしている。向いていないのは本人が一番分かってるんだろうが、逆らっても立場が父親で、支部長ではな。どうにもできないんだろう」
 頭の奥に、シランの笑顔がよみがえる。陰で言ったか、面と向かって言ったかの違いだと、彼は口にしていた。今回だけではなく常に、彼は人から非難を受けることに慣れているのだ。望んで得たわけでもない立場で、望まれた役割を果たせない歯痒さを、絶えず制服のように纏った笑顔で受け流している。
「どうして、自分の息子なのにそんなことをするの」
 馴染んだ煙草の匂いに、憤っていた心が落ち着いていくのを感じながら、千歳は相反する二つの気持ちがぶつかるのを受け止めきれずに呟いた。ひとつは今まで知りもしなかった、シランの肩身の狭さを思う気持ち。もうひとつはそれを言い訳に、理不尽な決定への怒りを大人ぶって押し込めている、橘の代わりに声を上げて地団駄を踏みたい気持ち。
「息子だからだろ」
 細い煙を吐き出して、橘が言った。
「どんな目で見られようと、安全なところに置いて、生きて昇級させて良い暮らしをさせてやりたい。あの人も、親だってことじゃないか」

 雨宮という名字を名乗らなくなったのは、今から九年前。士官学校を卒業してわずか半年余りで、仰々しい功績を並べ立てて少尉に取り立てられたときからだ。うちの二ヶ月は訓練生だったことを思えば、下士官時代なんてあってないようなものである。仲間はもちろん、当時面倒を見てくれていた部隊長も、呆気に取られて皆一様に口を開けたまま黙り込んだ。
 誰がどう見ても、裏で父が手を回した結果だった。自分の戦績はどちらかといえばお粗末なほうだったし、どんなに優秀だとしても、ありえないスピード出世である。死んでもいないのに階級を一段飛ばししたこともあった。あれよあれよという間に部隊を率いる側になり、父の用意した椅子に座らされ、二度と立ち上がれなくなった。
 以来、一日たりとも。その椅子を自分に相応しいと思えたことはない。
(でもやっぱり、堪えるな。人に言われると)
 長い廊下をゆったりとした足取りで歩きながら、シランはふ、と苦笑して、胸に束ねた資料を当てた。先刻から一丁前に、そこが痛んでいる。無傷のくせに生意気を言うなよ、と自分に悪態をついたら、その通りだと窓に映った自分が笑った。
 そうして気持ちを切り替えて、階段を上がったとき。
「ああ、ナーシサス大尉」
 少し先に、探していた銀髪の後ろ姿を見つけた。声をかけるとすぐに振り返って、おやシラン大尉、と立ち止まる。
「もう〈大尉〉ではないんですよ」
「おや。……そうか、そんな時期だったな」
「ええ」
 青灰の目を細めたナーシサスは、何の話か察したように手を差し出す。シランは資料を渡し際に、こう付け加えた。
「そして、貴方も」
 一枚目にシランと並んで記された、ユリウス・ナーシサスの文字。ナーシサスがそうだったか、と目を伏せた。頬には笑みを浮かべているが、ついに来たか、という感慨も、やったぞ、という喜びもない、波のない水面のような反応だった。シランにはその理由がよく分かった。
 軍人が昇級するということは、それだけ戦果を挙げる戦いがあったということだ。
「お互い、立派になってしまったものだな」
「ええ」
「篩の目をくぐり抜けず、転がり続けて大きくなった。最後に、どこへ行くのだか」
 歌うようにぼやいて、ナーシサスは資料を片手に畳んだ。昇級通知を支部長である父に代わって各将校へ回すのは、いつもシランの役目である。資料が渡されると挨拶もそこそこに奪い取って食いつく者が何人もいる中で、ナーシサスの態度は、シランが気づかないようにしようと目を逸らしながらも感じ続けている胸のささくれに、ひんやりと清潔な薬を塗ってくれるものだった。


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