第十三章 命の咲かせ方


 それからの三日間を言葉にするとすれば、人生で最も生きた心地のしない七十二時間であった。撤退戦は戦とも呼べない、ほとんど一方的な戦いで、放逐する者と逃走する者に分かれた、完全なる勝者と敗者の鬼ごっこだった。
 東黎軍は互いの安否も知れないまま、居合わせた仲間たちと少人数のグループを作って旧王都を逃げ惑い、命からがら自国の領内へ帰還した。西華軍や南輝軍の追っ手を撒きながらの、心臓の休まる間もない復路である。二国の兵士たちの他にも、新王都支部で千歳たちを襲った犬型の西鬼が大量に放たれ、夜に紛れて忍び寄ってきては、その嗅覚で物陰に潜んだ東黎の兵士たちを脅かした。町人も恐ろしい存在だった。彼らは長い戦争により、多くが困窮状態にあった。西華軍はそれに目をつけ、東黎の残党を見つけたら報奨金を出すと言い、武器を持たない一般の民衆までもが一攫千金を狙って裏路地へと繰り出したのだ。
 昼も夜もなく身を隠しながら歩き続け、時に戦い、千歳がナーシサスとケイ、それと数人の仲間たちと共に東黎に着いたのは、新王都支部での戦いから三日後の夜だった。衛生兵は次から次へと運ばれてくる怪我人の多さに目を真っ赤にして働いていたが、ケイの状態を一目見るなり、軍医を呼んでその場で治療を行ってくれた。ナーシサスの処置が的確だったようで、普通だったら死んでいた怪我だと言われたが、ケイには辛うじて息があった。休めと促す衛生兵に、彼の治療を見届けたいと懇願していたところで、弟切と橘が帰還したという報告が入った。
 ナーシサスと橘は互いの顔を見るなり、まったく同じことを言った。ああ、貴方はだめだったかと。ああ、君はだめだったかと、と。二人の会話を聞いていて分かったことだが、新王都支部での戦いの折、二階には十二羽ものハルピュイアが現れ、到底まともに戦える状況ではなかったようだ。兵士はみるみる散り散りに引き離されて、撤退の際にも一人二人ずつ逃げ出すので精一杯だったから、帰還するまでほとんどの者の安否が分からなかったと。
 ナーシサスは非常口のひとつをどうにか壊して外へ出たと言い、橘は一か八か、管制室へ向かったと言う。管制室は蛻の殻で、西華兵はおろか、番をする西鬼さえいなかった。システムはほとんどロックがかけられていたが、追ってきたハルピュイアが機材のひとつを壊し、一部の扉がロックもろとも暗証番号による制御機能を失った。そこから脱出する折、一階の東側でハルピュイアに襲われていた部隊を見つけ出し、彼らと共に外へ出たそうだ。
 二人は突撃部隊にいた者の安否を確認するから手伝えと、千歳を医務室から連れ出した。そうして兵舎の前に来たとき、示し合わせたように部屋へ押し込んだ。
 最初からそうするつもりだったのだ。気づいたときにはもう遅く、千歳は自分の部屋に閉じ込められて、ドアを固く押さえられていた。五分くらい、嫌だ私もまだ動ける、と問答をしただろうか。
 その辺りで意識が途切れて、気がついたら、外が明るくなっていた。
(限界だったんだわ。食事も睡眠も、ほとんど取っていなかったし)
 彼らの目には、それがよほど明らかだったのだろう。目が覚めたら床の上に転がったまま、腕に点滴が繋がれていた。二つのパックが下がっていたが、両方とも栄養剤だ。すぐにケイのことが頭を過ったが、外に出て彼に会いに行くのが怖くて、頭が空っぽになったように、しばらく横たわって空を見上げていた。昨日までのことがすべて嘘のように晴れた、七月最後の日の青空だった。
 やがて点滴が終わったのを見て、千歳は半日ぶりに外へ出た。
 まず隣の部屋を訪ねたが、橘はいなかった。すでに出ていったのか、あるいはまだ戻っていないのか。足取りは少しふらついているが、休んだおかげか、歩いているうちに頭はすっきりしてきた。そうして足を踏み入れた香綬支部で、橘と行き合い、状況を色々と教えてもらった。
 第一に、今回の作戦に参加した者のうち、東黎に帰還したのは六割を下回ったということ。残る四割は命を落としたと報告が入っているか、未だ安否不明の状態である。
 第二に、雨宮支部長は今回の戦いを、正式に敗北として発表したこと。これによって現在、近隣の支部から救援が送られて、香綬支部に向かってきていること。衛生兵を中心として、手薄になった香綬支部を守るため、蜂花兵も百人程度送られてくる。
 第三に、つい数時間前。犀川隊が多くの負傷者を抱えて、帰還したこと。その中に――
「――――ッ!」
 はっ、と青い目が見開かれたと思ったら、止める暇もなく上体が跳ね起こされた。同時に縫い合わされた傷が痛んだのだろう、呻くような声を上げて、その体がまた布団に倒れ込む。
「ケイ!」
 千歳は思わず肩に手を伸ばして、抱き留めるように支えた。眉間に刻まれていた深い皺が、荒い呼吸を何度も繰り返して、解けていく。
「千歳……?」
 そうして今一度、目を開けたケイは、自分の見ているものを確かめるかのように千歳の名前を呼んだ。千歳はええ、と頷いて、彼の手を両手で強く握った。
「よかった、目が覚めて。本当によかった」
「……ここ、どこ」
「香綬支部の特別医務室よ。もう大丈夫」
 心配しないで、と告げると、ケイの表情からどっと力が抜ける。無理もない。彼の最後の記憶は、旧王都の路地にある廃材置き場の、錆びた鉄板の陰なのだ。
 ナーシサスの処置を受けて、仲間に背負われて新王都支部を出たケイは、二日目の朝に一度だけ目を覚ましたが、それきりまたずっと意識を失っていた。橘から手術が成功したから、麻酔が切れれば目を覚ますはずだとは聞いていたが、実際にこの目で見るまでは不安で、少し前から付き添っていたのだ。
 生きて帰ったことを確かめるみたいに、ケイが千歳の手を握り返す。その手がかすかに震えて、掠れた声が訊ねた。
「……巴は?」
 遅かれ早かれ、ケイが目を覚ましたら訊かれるだろうと覚悟していた質問だ。巴が無事だったなら、ここにいないはずがない。目が覚めて、そのことに思い至るまでに時間がかかるような青年でもない。
 千歳はぐっと唾を飲んで、できるだけ落ち着いた声で答えた。
「戻ってるわ。数時間前に、犀川隊の人たちと」
「じゃあ」
「怪我を負って、まだ意識が戻らない」
 ケイの眸が、海が汐をひかせるように熱を下げた。千歳には彼の、可哀想なくらい冷静で聡い心が手に取るように見えた。感情は激しく波打っていて、信じられないと言って喚きたいのに、直感が悟っているのだ。戦いに無縁だった巴が、あの混乱の中を無傷で帰ってきたはずがないと。
「銃弾が二発、頭と脚を貫通していて……犀川大佐がすぐに処置をしたおかげで一命は取り留めたし、帰ってからの手術も成功はしているそうよ」
「でも、目が覚めないんだ?」
「……本人次第だって。後はもう」


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